8.天使の歌声
少女は、ドロテーア・フォイエルシュタインと名乗った。ヨハネスがフルネームを伝えて十七歳だというと、二つ年下であることを明かし、バッハと名乗る音楽師に各地で会ったとも言った。
「ほとんど――いや、間違いなく全部が親戚だよ。昔々に土地を追われて散り散りになった身内さ」
権力と内乱で人生が狂う世の中に唾を吐きかけたいヨハネスが、また膝頭に額を乗せると、しゃがみ込んだドロテーアが慰めの言葉をかけてきた。
「同情いたします。帝国は、成立した当時から圧政と内乱続きでしたから」
「君は、名前にシュタインって付くから貴族っぽいけど、まさか……」
「ええ、没落貴族の末裔です」
「ごめん、言いたくないことを言わせちゃって。でも、末裔とはいえ貴族なら、僕みたいな下流の平民のそのまた底辺に丁寧語を使うのはダメだよ」
「いえ、尊敬していますから」
「オルガンの名手だから? ブクステフーデみたいに?」
「はい」
ヨハネスは空を見上げた。
「聴いてみたいなぁ、その人の演奏」
「圧倒されますよ。総毛立つとはこのことだと実感します」
「あーあ、教会のオルガンを弾いてみたい!」
ヨハネスは、携帯オルガンをセットした。
「前々から、どうしても教会のオルガンで弾いてみたい僕の曲があってね。このオルガンの音じゃ、僕のイメージに合わなくて」
ドロテーアが近づいてきた。
「聴かせてください。題名は何ですか?」
「ニ短調のトッカータ」
ヨハネスの指が鍵盤の上で躍動する。
『ラソラ――、ソファミレド#――、レ――』
「えっ? それで終わりですか?」
「続きはあるよ」
『ラソラ――、ミファド#レ――』
「これをオクターブ下げる」
『ラソラ――、ソファミレド#――、レ――』
「それから、一音ずつ音を積み重ねて不協和音をぶつける。……最後に、解決する」
Dメジャーの和音が高らかに鳴った。
ドロテーアが「凄い、凄い!」と拍手をする。
「でも、この曲じゃ、誰も歌えない。だから、お客相手に披露できないんだ……」
「これは人が歌う曲ではありません」
「えっ? じゃあ、誰が歌うの?」
「オルガンが歌うのです」
ヨハネスは、プッと吹き出した。
「楽器が歌うもんか」
「歌うように弾くのです」
ヨハネスは、脳天に一撃を食らった気分になった。そんなことを考えたこともない。
「さすがは、貴族の末裔さんは考えが違うね。教養の差かな?」
言っておきながら、卑下する自分に自己嫌悪する。
「話に身分を持ち込まないでください。オルガンの名手は、誰もが歌うように弾きますよ。それは、聴けばわかります」
「僕をオルガンの名手に持ち上げておきながら、その話?」
ドロテーアはため息をついて立ち上がる。
「まずは、お金を稼ぎに行きましょうか?」
強制的に話を打ち切られたので、ヨハネスは頭を掻いて反省する。
「ごめん」
「いいえ、お気になさらず。あの後では仕方ないことですから」
おそらく、貴族の言いがかりや平民の忠告をどこかで立ち聞きしていたのだろう。
「ちょっと、ここで練習しない?」
「いいですよ」
「曲は『花を愛でる君は美しきかな』で」
「はい」
オルガンの短い伴奏の後、ドロテーアの歌が始まると、ヨハネスの心臓が高鳴った。ビブラートのない伸びやかな歌声。長いレガートをほとんど息継ぎをせずに歌いきる。歌の曲芸を聴かされているいやらしさを感じさせず、明瞭な歌詞から伝わる情景が脳裏に浮かび、感情が心に染み渡る。
天使の歌声という形容以上に当てはまる言葉がない。
彼女は、明らかに、聖歌隊にいたはずだ。しかも、かなり優秀な聖歌隊に。もしかして……。
しかし、何の事情があって一人で歌いながら投げ銭を得る生活を始めたのかは訊くまい。ヨハネスは、そう決心したのだった。