5.施しと少女
ヨハネスは、自作の曲に絶対の自信を持っていた。音楽を理解していたヒルデガルトは「凄い」と褒めてくれた。母親は認めなかったが、それは流行りの音楽以外興味がないからだ、と彼は考えていた。
それが、赤の他人から「悪魔に魂を売って曲を作った」と言われた。その老婆の言葉が耳の中でリフレインのように鳴り響き、心が折れそうになる。
しかし、自分の音楽で食っていくという長年の夢をここで捨てるわけにはいかない。
そこで、カッツェンブリュッケン伯爵領の隣にあるゾンネンシュタイン伯爵領へ足を伸ばすことにした。こちらは人間が住んでいる中規模の領地。記憶では、新曲が好きな聴衆が多かったはずだ。
もう日が傾いたので、ヨハネスは野宿をすることにした。隣の領地へ行くには税金がかかるので、残り少ないお金を節約するために、食事も取らないと決めた。
町は、夜の帳が下りると同時に、闇に包まれる。どの家もロウソクもランプも使わない。街灯もない。時折雲に隠される満月の明かりを頼りに、寝床を求めて歩き回る。
「きっと、うまくいくさ」
草むらでゴロリと横になったヨハネスは、虫の音を聴きながら眠りについた。
翌朝、カッツェンブリュッケン伯爵領に入ったヨハネスは、いつの間にか値上げされていた税金をがっつり徴収され、ついに無一文になった。彼は、役人に聞こえないように舌打ちをして領地の関所を越える。
まずは広場に向かい、流行りの曲で幾ばくか硬貨を手に入れてから、自分の好きな音楽を披露して反応を見ようと考えたが、広場に着いた彼は愕然とした。すでに流しの音楽師が3組もいて、客をたくさん集めていたのである。
全員が人気の歌を弾き語りしている。まともに歌えないヨハネスは、曲を披露するしかないので、演奏だけで勝負に出た。しかし、あえなく玉砕。演奏だけでは誰一人近づいてこないのだ。
こうなると、自棄のやん八になり、流行りの曲を即興で変奏曲に仕立て上げ、技巧的に弾いて目立とうとするも、数人が振り向いた程度で、商売敵から客を奪うことは出来なかった。
もともと短気な性格のヨハネスは、怒りにまかせて自作の曲を何曲も大きな音で奏でた。これには振り向いた客が多数いたが、「うるせーぞ!」の罵声が全員の心情を表現していた。舌打ちして演奏を中断したヨハネスは、場所を何回か変えて自作の曲を披露するも、誰も相手にしてくれない。
いや、一人だけいた。ただし、遠くで見ているだけだが。
それは、黒いローブを纏った銀髪の猫族の少女。フードを被らず、長めの尖った耳を立てている。最初に広場で演奏した時から、行く先々で見かける。ということは、自分のことが気になっているようだ。ヨハネスはこちらから近づいて声をかけようかとも思ったが、足を踏み出した途端、空腹で目眩が起こった。家を飛び出してから食事を何も口にしていなかったことが、今祟ったのだ。
ヨハネスは昔を思い出す。一座が食事に困ったとき、家の戸口の前で楽器を奏でて歌を歌い、食事の施しを受けた。それを今、実践するしかない。
「仕方ないな」
ヨハネスは、おぼつかない足取りで、木造2階建ての住居が建ち並ぶ通りに出た。すると、ここにも商売敵がいた。薄汚れたローブを纏い、リュートを手にして、何日も洗っていないようなもじゃもじゃの赤髪と伸び放題の口髭に顎髭まである若い男がドアをノックし、ドア越しに「1曲歌うので、恵んで欲しい」と訴えていたのだ。
「あんな奴が……」
ところが、その若い男がリュートを奏で、テノールの美声で愛の歌を朗々と歌い出した。こちらまで聞き惚れるほどの歌である。男が歌い終わると、ドアが少し開いてパンの塊を差し出す手が見えた。男は頭を深々と下げてそれを恭しく受け取ると、その家の壁の前で座り込み、パンをむさぼるように食べ始める。
そのうまそうな食べ方にゴクリと唾を飲み込んだヨハネスは、近くの家のドアをノックする。程なくしてドアにある横長ののぞき穴が内側から開いて翡翠色の双眸がこちらを見た。目の感じから女性のようだ。
「1曲演奏しますので、恵んでください」
のぞき穴はすぐに閉まった。拒否されたのなら何か言うはずで、何も言わないということは承諾の証し。だが、ヨハネスは再び目眩に襲われ、しゃがみ込んだ。
回復を待つため、ドアに背を預けてジッとしていると、頭の上に何かが落ちて滑り、顔の前を通過して膝の上に落ちた。何だろうと思ってその落下物に目を落とすと、それは焼いた川魚で頭と一部の身が残っている物だった。要するに食べ残し。のぞき穴から投げられたのだ。焼かれて白くなった魚の目を呆然と見つめていると、また頭の上に何かが降ってきて、滑り落ちた。今度は、薄く切ったライ麦パンだった。これも歯形が付いた食いかけである。
斜めの方角からクスクス笑う声が聞こえてきたので顔を上げると、パンを頬張る若い男が失笑している。頭に血が上ったヨハネスがもの凄い形相で立ち上がると、男はなおも笑いながら逃げていった。
空腹で男を追いかける気力が失せたヨハネスは腰を下ろし、立ち上がった際に地べたへ転がった哀れな姿の川魚とパンを拾い上げると、涙をこぼしながらそれらを口の中へ押し込んだ。魚の頭はもちろん、骨も尾ひれも食べた。
涙を拭いて、苦い味と酸っぱい味を感じながら咀嚼していると、右斜め前から人の影が膝の上に落ちた。
「あのー……」
若い女の子の声が優しく耳朶を叩く。誰だろうと思ってヨハネスがゆっくり顔を上げると、そこにはあの黒ローブ姿の少女が立っていた。