39.恨み百倍
ベルナルトとヨハネスは、使用人が作り置きしていた食事をセルフで鍋から皿へすくって、席に着いた。今日の昼飯は、固いパンと豆のスープ。これは平民の団員用で、貴族の団員の分は柔らかいパンでスープの具材も異なり、グリルした肉もついていて、使用人が配膳するのだという。身分の格差が食事の内容までに及ぶ徹底ぶりに呆れるヨハネスだが、もっと惨めだった昔の自分を思ってこれに耐えた。
午後の練習は、4時から。これは貴族の休憩――実際は、ほとんどがカードを使った賭け事――を考慮してのことらしい。演奏が下手くそなのだから、心を入れ替えてもっと練習しろと言いたいが、貴族の敷地内で貴族がやっていることだから、平民の出る幕ではないと言われておしまいだろう。
時間が来るまで図書館にこもろうといったんは建物に入ったヨハネスだが、ふとドロテーアから指揮を教わることを思い出した。そこで女子用の宿舎へ向かったが、男が女子専用の建物に入ること自体、気恥ずかしくて扉を開けて入ることが出来ない。
仕方なく、誰かが出入りしたらドロテーアを呼んでもらおうと近くの木陰で待っていたが、こうやって待っている行為が不審者に思われる怖れがあるため、そそくさと図書館へ踵を返す。そうして、また時が過ぎるのを忘れて歴史の本に没頭し、ベルナルトが迎えに行く羽目になった。
練習場は、女子の宿舎に近い側にある平屋の建物だった。個室の練習部屋はなく、四十人くらいは入れる部屋が一つしかない。
今日の練習は、楽団のみ。合唱との合同練習は明日だという。その明日に備えて、賛美歌の伴奏を練習するのだが、貴族側はバイオリンとファゴットしか来なかった。二人とも狐族だった。
ベルナルトは、集まった団員を見渡して、
「ビオラとトランペットはどうしました?」
貴族相手に丁寧な言葉をかけると、ファゴットを抱えた男がヘラヘラと笑う。
「知らんね。ついでに言うと、そこに突っ立っている豚も知らん」
これにバイオリンの男が鼻をつまんで加勢する。
「なんだか、イヤな臭いがするんだが。臭いぞ。うーむ、そこの豚から臭ってくる」
ベルナルトが怒りを堪えるためか、短くため息を吐く。
「私は臭いませんが。さて、今日から楽団に入りました新しい団員を紹介――」
「しなくていい!」
ファゴットの男が、きつめの声でベルナルトの言葉を遮った。
「なぜでしょうか?」
「そこの豚のことは聞き及んでいるぞ。悪魔に魂を売ったんだとな」
ベルナルトの拳が震えている。
「どなたからでしょうか?」
「先日の舞踏会に出席した知り合いから聞いた。その豚は、悪魔に魂を売って恐ろしい魔法を手に入れたと。そして、その魔法の力を使って人間には不可能な演奏を披露したと。善良な人々をたぶらかすのも大概にしろと言いたい」
これにはベルナルトよりもヨハネスの方が先に言葉を返した。
「そんなことはございません。魔法で演奏できる魔法使いは、この世におりません」
「おや、異な事を豚ごときが口にしているぞ。寝言は小屋の中で言え。さっさと失せろ」
すると、バイオリンの男が震え出した。
「その豚が団員と言うことは、あの宿舎の1階に入ったのか? あな、恐ろしや! 宿舎が臭くなるぞ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたヨハネスは、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あなた方は、演奏の技術ではなく、身分だけで人を評価するのですか!? しかも、自分の目と耳で確かめてもいないで、噂だけで決めつけるのですか!?」
バイオリンの男とファゴットの男が「何という言い草」と言って同時に仰け反った。確かに、少し敬語が飛んでいたのは事実。
「おお、怖い。これだから、無教養の平民、いや、豚は困る」「そうだな」
ヨハネスは顔を見合わせる二人を睨み付けて、
「今からチェンバロを演奏しますので、どのような演奏か聴いていただきます。これで採用されたのだということを示して見せます」
すると、ファゴットの男が「待て」と制した。
「その採用の話は嘘だ。知り合いからは、ソプラノの女を採用するときに、ごねられたので、やむなくオマケとして採用されたと聴いたぞ」
「いいえ、ごねてはいません」
「なら、オマケだったことは認めるのだな?」
「認めません」
「阿呆か、豚」
「その豚呼ばわりは止めてください。私は人間です」
「あのなぁ……」
ファゴットの男が片手で頭をボリボリと掻いた。
「演奏がうまい連中は、人を感動させる連中は、腐るほどいるのだぞ。ちょっとうまいからと言って図に乗るな」
「図に乗っておりません」
「俺はこの演奏で採用された、今から俺の演奏を聴け、と言ったではないか? それが図に乗っているのだ」
「それは貴方様の言葉の捉え方でそうなっておりますが、そこまでは申し上げておりません」
「言ってもわからん野郎だな。とにかく、女がいなければこの場に立つことは出来なかった。演奏の技術で採用されたのではない。最低でもそれらは認めろ」
「認めません」
男は舌打ちをし、ファゴットを台に立て掛けてから、ヨハネスに近寄って胸ぐらをつかんだ。
「表に出ろ。手袋を投げつけられなかっただけ、助かったと思うんだな」
相手に手袋を投げつけることは、決闘を意味する。貴族が仕掛けた喧嘩は、平民ではどうにもならないので、ベルナルトたちは見守るしかなかった。
「ハインリッヒの時と同じように、魔法でボコボコにして、二度と立てないようにしてやる」
この男が、オーボエのハインリッヒを退団に追い込んだ人物。
怒りで全身の血が沸騰するヨハネスは、毅然とした態度で応じた。
「魔法なら私も使えます」
一瞬、手が緩んだ男は、再び力を入れて口角を吊り上げた。
「上等だ、ヨハネス・ゼバスティアン・バッハ」
自分の名前をフルネーム呼ばれたヨハネスは、たじろいだ。
「ミッヘル・シュヴァルツコップって名前、知っているか?」
男の言葉にヨハネスの鼓動が高まった。ミッヘルは、フリッツの娘の家庭教師で、ヨハネスが割り込んだことで自分が解雇されることを恨み、仮面を被って手下とともにヨハネスを襲った男だ。「指の骨を折れ。腕の骨を折れ」という冷酷な言葉が耳鳴りのように聞こえてくる。
「……え、ええ」
「実は、知り合いの命の恩人でねぇ」
男の形相が鬼のようになっていき、歯を剥いた。
「何が言いたいか、わかるよな?」




