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異世界風ヤング・バッハ(第1部)  作者: s_stein
第1章 貧困からの脱出
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38.緊張の自己紹介

 ヨハネスは早速書棚へ向かい、帝国成立以前からの歴史の概説書を手にした。正直、何から読んでいいのかわからないので書棚の左端から手を着けることにしたのだが、それがたまたま概説書だった。ベルナルトは、「昼の鐘がなってから、頃合いを見計らって宿舎の食堂に来てくれ」と言って立ち去ったのだが、書架の横にある一人がけの閲覧用の机に座って読み始めたヨハネスは、遠くから聞こえる教会の鐘の音も耳に入らず、腹時計も無視して活字を目で追った。


 平民は懐中時計も置き時計も、時計の類いは何も持っていない。持っていることは貴族の証しである。帝国内の平民にとっては、教会が午前4時から午後6時まで2時間おきに鳴らす鐘が自分たちの時計であった。なので、聞き逃したら最後、後は太陽の傾きで推理するしかなかった。


 図書室にはカチコチ音がうるさい置き時計はなく、窓から入る陽光の傾きで時間を推理できる。だが、本に没頭するヨハネスは、ベルナルトが呼びに来るまでの間、神話からの歴史に思いを馳せていた。


「ヨハネスは、練習そっちのけで、ここに入り浸りそうだな」


「本が面白くて面白くて、仕方ありません」


「根が生えたように動かなくなるのも時間の問題か……」


 呆れるベルナルトに背を向けたヨハネスは、本を書棚に戻してから、何かを思い出したように「そうだ」と言って振り向いた。


「大型リュートはどこかにありますでしょうか?」


「急に歴史から音楽に戻ってきたか。あるが、出番はないぞ」


「出番がない――とおっしゃいますと?」


「言葉通りだ」


「と言われましても……」


「教会用の音楽を奏でる楽団にリュートは必要ない」


 そう言って大股で図書室を出るベルナルトをヨハネスは追いかける。


「なぜ、私は採用されたのでしょうか?」


 ベルナルトは、ヨハネスへ(いぶか)しそうに目を向けるグスタフを振り返ってから建物の外へ出て、ヨハネスに耳打ちをする。


「ここの奥様のエリーザベト様が前々から不眠症でな」


「まさかと思いますが、眠るために!?」


「ヨハネスは本当に勘が鋭いな。2時間は弾かされるぞ。覚悟しておけ。しかも、同じ曲を続けて弾いてはいけないとか、注文が多い」


「毎日弾かされるのでしょうか?」


「今月は治まっているみたいだから、出番はないだろう。ただし、奥様のご気分次第だからなんとも言えん」


「では、私はそれまでの間、何を弾けばよろしいのでしょうか?」


「ない」


「ない――ですか?」


「そうだ。でも、領主様から合唱の指揮を頼まれていないか?」


「頼まれましたが」


「レオン爺さん、喜ぶだろうな。腰にくるから引退したがっていたし」


「あと、オルガンの代理も」


 ベルナルトの足が止まった。


「本当か!?」


「ええ」


「ヨハンは、何でも俺が俺がとやりたがるタイプの男。だから、代理は……本人がなんて言うか……」


 言葉を切ったベルナルトは、うつむきながら歩み始めた。



 食堂へたどり着いた二人は、すでに食べ始めていた六人の狐族の視線に迎えられた。好奇な目つきの六人に対して、ヨハネスは緊張の面持ちで頭を下げる。ベルナルトに「新入りだ」とだけ紹介されたので名乗らなければいけないのだが、呼ばれた時間帯から目の前にいる六人は平民であるのは明らかでも、簡単に予想できる反応が少し怖い。


「ヨ、ヨ、ヨハネス・ゼバスティアン……バッハ、です」


 尻つぼみの名乗りに、全員が表情一つ変えず、咀嚼を続けている。そのうちの二人が、顔を見合わせた。


「ベルナルトから、すげー奴が来るって聞いていたけど、普通だな」「だな」


 二人は口を押さえて吹き出した。


「今笑ったのは、テノールのベンヤミンとバスのクルト。なあ、お前ら。ヨハネスは合唱団の指揮を頼まれているから、ちゃんと挨拶しておけ」


「どうも」「どーも」


「それが挨拶か?」


 ベルナルトの笑いに、ベンヤミンとクルトがまた吹き出した。


「で、向こうにいるのが、バイオリンのウーリ、チェロのヨーゼフ、そしてフルートのティオ、それにコントラバスのペーテル」


 六人とも狐族なので、毛並みと目つきと口の形から個々の違いを区別することになるが、記憶力と観察力に優れたヨハネスは瞬時に名前とそれらを一致させて脳内にインプットした。


 紹介された面々が一人ずつ軽く挨拶をしていったが、ペーテルだけが声を出さず、何かヨハネスの心の奥を探るような目つきになった。


「新入り」


「はい」


「魔法が使えるな?」


 残り六人全員の視線がヨハネスへ一斉に突き刺さる。


「は、はい」


「炎系と見た。俺は水系。氷とかが得意だが」


 ベルナルトが口笛を吹く。


「なんだい。ヨハネスってただ者ではない感じがしたが、魔法使いでもあるのか。ペーテルとは、相性の悪い最悪のコンビになりそうだな」


「そうでもないぜ」


 ペーテルがニヤッと笑う。


「相性最悪の奴は2階にいる」


 貴族の中に魔法使いがいる。ヨハネスは背筋に冷たい物が走った。


「だから、俺は助ける。ハインリッヒの時は助けられなかったが、今度は負けないぜ」


 拳を握りしめるペーテルは、遠い目になった。


「ハインリッヒって奴は――」


 そう言ってベルナルトがヨハネスの肩を軽く叩く。


「オーボエ吹きで魔法に自信があった奴だが、2階と派手にやり合って先月クビになったんだ。短気は損気。ヨハネスも気をつけろよ」


 それを見ていたウーリが、自分自身を指差す。


「で、オーボエのパートが俺の所に来たわけ。ところで、新入り。オーボエ吹けないか?」


 ヨハネスは残念そうに首を横に振る。


「吹けません」


「ベルナルトご推薦のすげー奴なんだから、合唱の指揮なんかやめちまって、オーボエ吹け。俺がバイオリンのパートを弾かないと――」


 そこへベルナルトが右の手のひらをウーリへ突き出した。


「おっと、それ以上は言葉を慎め」


「いいじゃないか。連中、今頃カードで賭けに夢中だぜ」


「それでもだ」


 ヨハネスは、凸凹楽団内部の確執を垣間見たような気がして、魔法で騒動を起こさないよう心に決めたのだった。

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