37.膨大な蔵書
昼が近いからか、ヨハネスたちの部屋に空腹を刺激する良い匂いが微かに漂ってきた。これは、扉などに隙間があるからだが、言い換えると音が漏れて聞こえることでもある。ベルナルトが貴族の話になると対面でもひそひそ話になるのは、これが原因だった。
「そろそろ昼飯だな。この建物に入ったときに気づいたかも知れないが、入って右が食堂兼娯楽室だ。でも――」
また小声で話す構えをすることから、貴族の話題に触れることがわかる。
「2階の大食らいどもと同席しない暗黙の了解があってだな。たっぷり1時間かけて、馬みたいに食うから、その間俺たちはお預けだ」
「朝も同じなのですか?」
「いや、朝はパンとスープで軽く済ませる。なぜなら、前日の夜に食べ過ぎて胃がもたれるからな」
「つまり、夜も平民は待たされる」
「そういうこと。待っている間、図書館でも行くか?」
「はい。早速、読むべき本を探します」
「感心感心。暇さえあればカードにうつつを抜かす2階の連中に、ヨハネスの爪の垢を煎じて飲ませたいよ。……そうそう、司書のドワーフは気難し屋で口は悪いが、気にするな」
ベルナルトの案内で、宿舎からフックスヴァルト邸の裏にある平屋の図書館へ向かう。建物の扉を開けると、向かいの机の上から頭だけ出している男が見えた。彼がドワーフの司書に違いない。
「よう。グスタフ。新入りを連れて来た」
顔を上げたグスタフは、ヨハネスを見て眉間に皺を揉みながら、口を歪める。
「新入り? ああ、執事のハンスから聞いたぞ。辻音楽師が何の用だ?」
「まあ、そう言うなって。悔しいが、俺よりチェンバロの腕は確かだぜ」
褒められたヨハネスは、頬を染めた。
「文字が読めるのか?」
「おいおい、それはいくら何でも失礼だろう。勉強のための本を探しに、ちょくちょく来てもいいよな?」
「本は持ち出すな」
「なぜ? 俺たちは許可されているのに」
「今日会ったばかりの男が信用できるか?」
肩をすくめるベルナルトがヨハネスへ残念そうな顔を向け、「だとさ。悪いな」と詫びる。
フックスヴァルトは本の収集家で、あらゆるジャンルの本をかき集め、ここに3,000冊以上納めているとのこと。ただし、魔法に関する物だけはないそうだ。
「歴史、宗教、演劇、詩、小説だけじゃなく、数学も天文もあるぞ。とにかく、手当たり次第読むことだな」
「はい。読破します」
「おいおい。まさか、全部記憶するなんて言わないよな?」
「それは無理ですが」
「それを聞いて安心したよ」
「楽譜はないのでしょうか?」
「あるぞ。唸るほど」
「どのくらいあるのでしょうか?」
「数えたことがないな。おい、グスタフ。見せてもいいよな?」
「楽譜が読めるのか?」
「読めない音楽師もいるからって、そんな目で彼を見るなよ。第一、読めない奴が『楽譜はあるか』なんて言わないぞ」
「楽譜は持ち出すな」
「なぜ? 俺たちは許可されているのに」
ヨハネスは、先ほどの話の流れに似てきたので、グスタフの言葉を予想する。
「今日会ったばかりの男が信用できるか?」
まさに予想通りだった。




