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異世界風ヤング・バッハ(第1部)  作者: s_stein
第1章 貧困からの脱出
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36.珠玉の瓦礫に在るが如し

 ヨハネスとドロテーアは、フックスヴァルトの屋敷から出てきた狐族の執事と女中に、それぞれ男子用の宿舎と女子用の宿舎へ案内されることになった。宿舎の場所は、屋敷に向かって右方向にあるのが男子用、左方向にあるのが女子用なので、二人は再開を約束して別れた。


 ハンス・ブリュンと名乗った執事は、明らかに(さげす)むような目つきをしていて、「こっちに来い」と命じてズンズンと歩いて行く。下着などを入れた安物の袋を手に、それとは釣り合わないお洒落で真新しい服を着たヨハネスは、ハンスの名前に一瞬だけ郷愁を覚えたのの、それはすぐに嫌悪に変わり、横柄な執事の背中を睨みながら大股で歩く。


 屋敷の敷地内を歩くこと3分のところにある宿舎は、木造2階建てで質素な建物だった。表から見る窓の数から察するに、少なくとも部屋数は8つのようだ。入り口に到着したハンスは、いきなりクルッと振り返り、眉間に皺を刻む。


「部屋は、入って左奥だ。楽器は持ってこなかったのか?」


「持っていません」


「じゃあ、適当に調達しろ」


「あの……」


 問いかけの言葉を手で払うようにしてハンスが大股で立ち去るので、苦り切った顔のヨハネスは遠ざかる不機嫌な背中に向かって「なんだそりゃ」とつぶやく。


 とりあえず建物に入って狭いエントランスを通って左奥へ向かうと、廊下の両側に4つの扉が見えた。立ち止まって振り返ると、1階の右半分は扉が開かれたホールになっていて、複数の長机や椅子が見えることから食堂と思われた。


「左奥って、どっちの部屋だ?」


 廊下の行き止まりにたどり着いて左右の扉を見るが、名札がぶら下がっている訳でもないので、自分の部屋がわからない。試しに、突き当たりに向かって左を開けてみることにした。


 自分専用の個室とは限らないので軽くノックをして反応を見るが、不在のようだ。念のため「お邪魔します」と声をかけてソッと扉を開くと、左右のベッドの上で大の字になって寝ている狐族の男が二人いた。ここに三人が入るという相部屋ではないだろうと思って、音を立てずに扉を閉める。


 今度は、右側を同じように小さめにノックすると「どうぞ」と声がする。聞き覚えのある声だ。ラインハルト邸の大広間で会ったザックスに違いない。安堵するも束の間、緊張が襲いかかる。ヨハネスは「お邪魔します」と弱々しい声で恐る恐る扉を開ける。


「よう。来たな、曲芸師」


 右のベッドの上に腰掛けている普段着のザックスが微笑んでいる。


「お久しぶりです」


「まあ、そんな所に立っていないで、中に入れ」


「失礼します」


 部屋に足を踏み入れたヨハネスは、ザックスの笑顔で緊張がほぐれ、静かにドアを閉めた。昔、自作の曲を売り込むとき、バッハの偽名として「ザックス」を使っていたことがあり、それと同じ名前の人物が目の前にいるので気恥ずかしい。


「あの時、ちゃんと名乗っていなかったな。俺は、ベルナルト・ザックス。ベルナルトでいい」


「私はヨハネス・ゼバスティアン・バッハです。ヨハネスと呼んでください」


「偶然にも同室になったな、ヨハネス。よろしく頼む」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします、ベルナルトさん」


「まあ、そこに座れ。若いのに、遠慮深いな」


「失礼します」


 ヨハネスは、ベッドの上へ静かに尻を置くように座った。


「バッハ一族は流しの音楽師なのに、なぜあそこに――ヴァルトシュタインの店にいた?」


 ヨハネスは、ズキンと心臓が痛んだ。ベルナルトの目には軽蔑の色が浮かんでいないので、興味本位からの質問だろう。初めて会った相手にどこまで本当のことを言っていいのかわからないが、これから同室で長い付き合いになるだろうから、広場でドロテーアと一緒に演奏していたら雇ってやると言われたと答えた。


「金に物を言わせて演奏者を囲おうなんて、貴族の真似をする連中が多いからな。見栄で集めている絵画や花瓶と一緒の扱いだから、気に入らない」


 身振り手振りを交えるベルナルトが、声に不満の感情を込める。


「だが、うちの領主様は違う。教会で祈りを捧げる時に演奏する楽団と合唱団を作った。平民とは目的が違うのだ。しかも、平民が好む低俗な音楽は取り上げない」


「ベルナルトさんのご出身は貴族でしょうか?」


「平民だよ、中流の。おっと、気に(さわ)ったのなら悪かった」


「いえ、大丈夫です」


「そうだ。楽団と合唱団について簡単に紹介しよう。昼過ぎの練習には顔合わせをするが、どんな連中がいるかを先に。まず、正面の部屋だが、合唱団のテノールとバスが一人ずついる。飲んだくれで昼まで寝ている連中だが」


 ヨハネスが最初に開けた部屋で寝ていた狐族の二人だ。


「隣は、バイオリンとチェロが一人ずつ。斜め前の部屋は、フルートとコントラバスが一人ずつ。以上で1階は終わり。ついでに言うと、全員が平民」


 ベルナルトが右手を肩まで上げて天井を指差す。


「で、2階はバイオリンが一人、ビオラが一人、ファゴットが一人、トランペットが一人と合計四人いるが、8つの部屋を一人が2つずつ占領している。なぜなら――」


 急にベルナルトが小声になった。


「貴族様だからさ」


 ヨハネスは、フェルナンダの「凸凹楽団」という言葉が脳裏をよぎった。


「楽団の演奏のレベルは、どうですか?」


 肩をすくめるベルナルトは、首を横に振った。


「この宿舎の部屋の上下関係と逆になっていると思った方がいい」


 つまり、貴族が下手で、平民が上手ということだ。


「合唱団の女の方は、ソプラノ一人が貴族、アルト二人が平民だが、こちらはいずれもうまい。そうか、もう一人ソプラノの貴族――いや元貴族が入ったか。彼女ほどはうまくないがな」


「ドロテーアは、飛び抜けてうまいです。一人、浮かなければいいのですが」


「うーむ……、嫉妬というものは身分に関係ないからなぁ。うまく頑張ってもらうしかないが。ちなみに、女の宿舎は、人数が少ないから一人部屋になっている」


「指揮者はどこにいるのですか?」


「町にいる」


「有名な指揮者なのでしょうか?」


「有名?」


 ベルナルトが吹きだして腹を抱えた。


「おいおい。楽団の指揮なんて、棒を上下させてドスンドスンと床を叩き、リズムを刻むだけだぞ。太鼓を叩くみたいなもの。誰でも出来る。合唱の方は、手をこんな感じで上下してリズムを取るがな」


 そう言って、1、2、1、2と右手を上下に振る。ヨハネスが、その動きに目を奪われていると、


「まさか、ヨハネスって、楽団も指揮も何も知らずにここへ来たのか!?」


「え、ええ……そのまさかです」


 頭を抱えたベルナルトが「とんでもない曲芸師がやってきたものだ」とつぶやき、ヨハネスに向かって囁く。


「貴族の連中に馬鹿にされる前に、今から一通りのことを教えてやるから、こっちに来い。すぐ覚えろよ」


 ベルナルトの口授に、ヨハネスは真剣に耳を傾けた。もちろん、ハンスやヒルデガルトに教わったことも多少はあったが、あまりに知らないことが多くて愕然とし、無知を痛感した。


「……ってなわけだが」


「ありがとうございました。もう大丈夫です。覚えました」


「さすがだ。ヨハネスは、天才肌だな」


「いえ、それほどでも」


「謙遜するな。……それと、気を悪くしないで聞いて欲しいのだが、学校は行ったことあるか?」


「いえ、ありません」


「ならば、音楽以外の教養を身につけろ。音楽の世界での出世には、音楽の知識だけではダメだ。教養の有無が左右する。なんでそんな音楽に無関係ことが必要なのかと納得出来なくてもだ」


「わかりました。ご助言をありがとうございます」


 このアドバイスの後、ヨハネスは音楽以外の教養を身につけることにも全力を傾けることになる。


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