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異世界風ヤング・バッハ(第1部)  作者: s_stein
第1章 貧困からの脱出
33/40

32.曲芸演奏の連発

 酔った狐族の貴族はニヤリと笑い、耳をピクピクさせた。


「大きく出よったな、流しの一族め。だが、面白い! その申し出に偽りはないな? もし、リズムが狂って踊れなくなったら、あるいは誰かが音を外したことに気づいたのなら、即刻退場だがよいな?」


 そこへ、ヨハネスの返事より先に、不安げな面持ちのフリッツが貴族の背後から声をかけた。


「フックスヴァルト様。この者が失態を演じましても、手前どもには責任は一切ございませんので、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます」


 フックスヴァルトと呼ばれた貴族は振り返り、ニヤッと笑う。


「使用人の失態は主人の失態。ゆえに、発言にその覚悟が必要であることは、こいつにも当然教育しておるだろう? ならば、覚悟の上の発言のはず」


「…………」


「主人の失態とあらば、貴殿との取り引きは今後一切なくなるが」


 これには、ヨハネスはおろか、フリッツもドロテーアまでも肝が冷えた。


「申し訳ございません! この者の無礼を平にご容赦――」


「何を言う? まだ失敗もしてはおらんだろう? もし目隠しでの演奏が出来た暁には、褒美をやる。そうだな……5タレル金貨2枚でどうだ?」


 5タレル金貨は帝国の最高額の通貨。それを2枚渡すと言うことは、住み込み女中の月収10ヶ月分を与えるということだ。たちまち、騒めきが大広間に波状を成して広がった。


「そうそう。本当はこっちの話を先にしたかったのだが、このフォイエルシュタインをうちの合唱団に雇いたい。どうだろう?」


 フックスヴァルトは値踏みをするようにドロテーアを見つめた後、フリッツの方へ振り向いた。当惑顔のフリッツはベアトリクスの方へ二度振り返り、弱々しく「承知いたしました」と答えると、咄嗟にドロテーアは言葉を挟んだ。


「師匠と一緒が条件でございます」


 二度も聞かされたフックスヴァルトは、苦笑して「まあ、待て」と言ってから黒帯を持ってきた使用人の方へ手を伸ばした。


「その帯を貸せ。透けて見えないか、改める」


 黒帯を受け取ったフックスヴァルトは、頭の周りに1回巻いて目を隠す。


「これならよし」


 そう言って帯を解き、ヨハネスを椅子に座らせた後、自らヨハネスに目隠しを施すが、「下の隙間から鍵盤が見えるといけない」と言って、眉から鼻の上まで4重に巻き付けた。きつく巻き付けられたので痛むヨハネスだったが、「緩めてください」と申し出ると不正を働くと疑われるので、やむなく我慢した。


 機転を利かせたドロテーアが、ヨハネスの右手を取って、人差し指を真ん中の鍵に置いた。


『ド――』


 ハ長調の主音が静寂の広間に広がり、聴衆の鼓膜を揺らす。手の柔らかさからドロテーアだと気づいたヨハネスは、心の中で感謝した。


 直ぐさま、ベルンハルトが鼻高々に演奏した曲を弾き始めるヨハネス。その奏でられた豊かな表情の音楽に人々は驚嘆し、リズムに体を動かし、再度ペアを組むため互いのパートーナーを求める。そうして、大広間の中心に優雅な舞踏の輪が大輪の花のように咲いた。


 しばらくヨハネスを観察していたフックスヴァルトは、音楽に心が躍り、パートナーを求めて舞踏の輪に加わった。


 曲目は3曲。そのどれもが正確無比の演奏。奏者は、まるで、目隠しなど何の意味もないとでも笑っているかのようだ。


 演奏が終わると、ドロテーアより控えめな拍手が鳴った。ベルンハルトの時は拍手などなかったので、これは異例である。すっかりお株を取られたベルンハルトは、その表情に演奏の正確ぶりを表している。しかし、フックスヴァルトはそんな彼には一瞥もせず「ザックス、ここへ!」と声を上げた。


 ザックスと呼ばれた男がフックスヴァルトの所に駆け寄った。彼も狐族だが、使用人とは違った上品な服を着ている。


「フックスヴァルト様。お呼びでございましょうか?」


「この者の演奏は、1音も間違ってはおらぬな?」


「はい。正確に弾いておりました」


 人々の間に感嘆の声が上がる。一方、まだ目隠しを外されないヨハネスは『そろそろ痛くてたまらないから外して欲しいんだが』と賛辞よりも解放を願っていた。


「だが、ザックスもこの程度なら出来るであろう?」


「もちろんでございます」


「ふむ。であれば、ザックスが難しいと思うことで試してみよ」


「ならば――」


 ザックスがヨハネスの所へ行って「立て」と促し、ヨハネスの肩に手をやってチェンバロに背を向けさせた。


「これで、簡単な曲でもいいから何か弾いてみろ」


 要するに、目隠しをしたままチェンバロに背を向けて弾けというのだ。ドロテーアがまた助太刀をしようと手を伸ばすと、ザックスが「手を出すな」と制した。


 彼女が心配そうに見守る中、右手の人差し指で1つの音を確認したヨハネスは、そこから鍵盤と指の位置関係を瞬時に把握して、舞曲であるジーグの繰り返しなしのバージョンを弾いた。しかも、1音も外すことなく完璧に。


 人々は、あまりの出来事に声も出ない。その静寂を破ったのはザックスだ。


「ふむ。やるな。ならば、これでどうだ。おい! 誰でもいい! 4人集まれ!」


 近くにいた使用人たちが顔を見合わせ、4人が駆けつけた。


「お前たち。こいつの体を持って仰向けに倒し、空中で床と並行になるようにしろ。そうして、こいつが腕を伸ばした位置に鍵盤が来るようにするのだ」


 ヨハネスの胴体と足を4人で分担して持ち上げ、言われたとおりに体を空中で仰向けにする。腕を伸ばしたヨハネスは、再び右手の人差し指で1つの音を確認した後、遅めのサラバンドの舞曲を弾き始めた。ハラハラする曲芸演奏だが、これも難なくクリアした。


 元の状態に戻されたヨハネスは、ザックスのいるであろう位置に向かって一礼したが、それはドロテーアの正面であった。


「これは驚いた……」


 感心するザックスの横にフックスヴァルトが並んだ。


「ザックスがたまげるということは、こいつの腕前は相当だということだ。だが、チェンバロのポストにはザックスがおるから、チェンバロで採用するのは無理だ。他に何か弾けるか?」


「はい! 大型リュートと――オルガンでございます!」


「リュート? まあ、あってもなくてもいいが、よかろう。何か弾いてみよ」


「その前に、目隠しを外してもよろしいでしょうか?」


「ああ。リュートならいい」


 目隠しを外し、涼しい空気が顔に当たってホッとするヨハネスは、使用人が持ってきた大型リュートを手にして椅子に腰掛け、1曲披露した。チェンバロと違い、レパートリーは少ないが、自信を持って感情を込めて弾いた。フェルナンダの励ます顔が脳裏に浮かぶ。その顔に微笑み返す。


「うむ。なるほど。リュートで採用しよう。さて、ヴァルトシュタインはどこに……? おお、そこにおったか。二人をこちらで抱えるが、よいか? 使用人を二人も引き抜くから、今後のことも考えるが」


 今後のこととは、取り引きのことだ。ヴァルトシュタインは胸に右手を当てて一礼した。


「もったいないお言葉、恐悦至極に存じます」


 ヨハネスとドロテーアは、顔を見合わせて微笑んだ。


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