30.名ばかりの演奏会
いよいよ、ラインハルトが開催する演奏会の日がやってきた。開始は夕刻なので、ヨハネスはチェンバロのレッスンと仕事をこなしてからの出席となったが、朝からそわそわして落ち着きがないのは端から見ていても明らかだった。娘にからかわれ、ヘルベルトに揶揄されて散々なヨハネスは、仕事を早めに切り上げて駆け足で家に戻る。
程なくしてベアトリクスが予約した大型馬車が建物の前に横付けされると、正装したフリッツとユリアと二人の娘が、いつもの服装のヨハネスとベアトリクスとドロテーアを伴って、馬車を揺らしながら乗り込んだ。どう見ても上流の平民の家族が使用人を伴って貴族の家を訪問する格好だ。ドロテーアは晴れの舞台に立つ師匠がみすぼらしい格好であることに不満を抱いていたが、当のヨハネスは初体験の豪華な馬車の乗車に落ち着きがなく、緊張で顔が硬直し、頬が紅潮している。何とか師匠に気遣いの言葉をかけたいが、ベアトリクスが使用人は無言でいることを自ら態度で示し、目で圧をかけてくるので何も出来ず馬車に揺られていた。
フリッツはユリアと娘相手の会話に終始していて、その会話の内容からラインハルトの演奏会は初めてではなさそうだった。ヨハネスは、控え室があるかとか演奏者向けの細かい情報は必要ないが、せめて会場の様子くらいは口に上るかと思って聞き耳を立てていたが、誰も詳しいことは語らなかった。この様子では、現地へ行って状況から判断しないといけないようだ。
ラインハルトの地位を示すような立派な屋敷は隣町にあり、今回の開催場所は彼の屋敷の大広間だった。すでに十人くらいが広間の壁際に置かれた6つの丸テーブルのいくつかを占有し談話していた。真ん中はダンスが出来るように空けられている。この状況から、自分が演奏する舞曲に合わせて紳士淑女が踊るのかも知れない。あるいは、それはお抱えの音楽師の役割か。貴族だから、楽団を所有しているかも、などと想像が膨らむ。
フリッツたちは、知り合いを見つけてさっさと行ってしまい、使用人は壁紙の模様と化した。ヨハネスはキョロキョロと目だけで辺りを見渡していると、続々と来客が現れるだけで、一向に声がかからない。手筈はどうなっているのだろうとイライラしていると、見たことがある男が目を吊り上げ、手招きをしながら足早に近づいてきた。ベルンハルトだ。
「おい、お前。何をぼさっと突っ立っている!? 早く来い!」
「申し訳ございません」
身分の違いがあるので、こういう状況では謝罪から入る。たとえ、自分が悪くなくてもだ。何も知らされていないのに何という言い草だと怒りがこみ上げてくるが、表情には出さず、ベルンハルトの方へ近づく。
「適当に数曲弾け。もういい、と言うまでだ」
「承知いたしました」
気持ちとは裏腹の言葉が反射的に出てしまう。もう慣れたものだ。
それにしても、演奏会なのに適当に弾けとはどういうことだ?
ヨハネスは、こうなったら自作の曲でも弾いてやろうかと思ったが、今まで身にしみている経験から、著名な作曲家の舞曲をメドレーで弾くことにした。庶民相手の流行りの曲を披露すると、なんとなく貴族からいちゃもんを付けられそうな気がしたからである。こういうのは、直感に従う方がベストである。
部屋の片隅にあるチェンバロに向かい、高さの合わない椅子は調整の仕方がわからないタイプなのでそのままにし、早速曲を弾き始める。すると、後ろに立っていたベルンハルトが警告する。
「音が大きい。もっと静かに」
これだけ広い場所で隅々まで人に聴かせる音を出すのが当然だと思っていたのに、おかしなことを言い出す。せっかく、遠くにいるドロテーアにも聴いてもらいたいのに。
「承知いたしました」
不承不承に音を小さめに弾く。音が小さいから聞こえない人も出て来るだろうと気の毒に思っていると、さらに人が集まってきて、自分の音が聞こえないくらいの談笑と高笑いがそこかしこで巻き起こる。横目でチラチラと観客の様子を窺うと、誰も自分の方を向いていない。
ヨハネスはやっと自分の立場を理解した。
彼らの会話の背景に流れる音楽を弾かされているのだ。
これが演奏会の正体なのだ。
それから、大広間は――服装から察するに――貴族やら有力者らが三十人くらい集まって、ヨハネスが奏でる完璧な演奏がかき消されるくらいに、わいわいがやがや。イライラしてきたヨハネスは、頭の中で鍵盤に両手を叩きつけて『俺の演奏を聴けええええええええええっ!!』と怒鳴る。そんな感情が表情にまで表れてきた頃、
「もうよい」
背後からベルンハルトが声をかけてきた。直ぐさま交代すると、ベルンハルトが颯爽と舞曲を弾き始める。
「おっ、ベルンハルトが弾いているぞ」
誰かの声に、ザワザワが潮を引くように消えていき、たちまち10組ほどの紳士淑女のペアが大広間の中心へ集まってきて、優雅に踊り出した。
ヨハネスは横目で彼らの舞踏を見ながら、壁伝いに歩いてドロテーアの所へ戻る。そこには、悲しい顔をしたドロテーアが師匠の帰りを待っていた。ベアトリクスがそばにいるので言葉は交わせないが、二人は目で会話する。
『師匠。これはあんまりです』
『仕方ないさ。前座だし』
『あのベルンハルトをいつかは追い抜いてください』
『ああ。必ず』
これは、演奏会ではない。舞踏会だ。それを演奏会と称するのはいかがなものか。ヨハネスが怒りを胸にベルンハルトを睨み、遅れてやって来たラインハルトも睨み付ける。
5曲ほど舞曲が続くと、休憩になった。再び騒々しい空気が大広間を満たす。すると、大型リュートを持った壮年の音楽師が現れた。彼も参加者の声にかき消される背景の音楽を弾き始めたのだが、興味を持ったヨハネスが壁伝いに歩いて行って音楽師の方へ近づいた。そうして、弾き方の子細を観察する。
実に巧みに難なく弾いている。年齢から考えて、おそらく、この道のベテランだ。彼もまた、腹の中では『黙って俺の演奏を聴け!』と思っているのかも知れないが、その柔和な表情からはうかがい知れない。
彼が、さっきからじっと見ているヨハネスが気になったらしく、チラチラと視線を送ってくる。だが、演奏を終えて、バイオリンやチェロやフルート等を持った六人の楽団と交代した後、ヨハネスを一瞥もせずに去って行った。
再び大広間の中心に男女のペアが集まって、楽団の演奏に合わせて優雅な舞踏が始まった。その演奏の下手さに呆れたヨハネスは、楽団に背を向けて失笑し、壁伝いに定位置へ戻った。
結局、ヨハネスが猛特訓したリュートのお披露目はなく、『何の意味があったのか』としょげることになった。
これが貴族の演奏会。ヨハネスの初体験は、深く心に刻まれた。




