28.演奏を一度聴いただけで完全コピー
ヨハネスがいつものようにクララのチェンバロ演奏を指導した後、交代でアンゲリカが楽譜を持って部屋にやって来たとき、追っかけでフリッツが入って来て「席を外しなさい」と言った。これでレッスンがないと思ったアンゲリカが外へ遊びに行ってしまい、やることがなくなったヨハネスは仕事をしにヘルベルトの所へ行こうとしたが、フリッツから「お前は来客を迎えて欲しい」と言われた。
訪問客の迎えならベアトリクスとドロテーアの仕事だが、それに加わるとはどんな客を出迎えるのだろうと思って、緊張しながら来客の支度に参加していると、昼前にその客が馬車で到着した。
現れたのは、仰々しい身なりの狐族の貴族と従者風の男が三人だった。狐族は顔が狐で、それはフリッツが狼族で顔が狼であるのと同じである。ちなみに、猫族のベアトリクスとドロテーアは顔が人間で猫の耳が付いている。
三人とも従者の割には立派な服を着ていて、ヨハネスは自分の着ている服がみすぼらしく思えた。この家に来る前、広場でミッヘルに会ったときに感じた服の格差が、そのままシフトしたくらいに感じる。
フリッツはユリアとともに貴族たちを出迎える。交わす言葉から、何度かここに訪問したことがあるようだ。
貴族の登場とあって、フリッツが極上のお茶と異国のお菓子とタバコでもてなす。お茶とお菓子の出し方がわからないヨハネスは、賓客の前で粗相をする恐れがあったので、ベアトリクスから役目を外され、応接室の外で待機していた。
しばらく談笑する声が聞こえていたが、何もすることがないからといって人の会話を盗み聞きするわけにも行かず、ジッと中からの指示を待っていると、会話が途切れた。次の会話のネタでも互いに考えているのかと思っていると、突然、チェンバロの演奏が聞こえてきた。聞いたことがない曲に興味が湧いたヨハネスは、真剣に耳を傾ける。
割と長い曲が終わり、音の違う3種類の短い拍手が聞こえたかと思うと、足音が近づいてきた。やって来るのは、自分に指示を出すフリッツか、それともトイレを借りに出て来る訪問客かと緊張しながら待っていると、顔を出したのはフリッツの方だった。
フリッツは、ヨハネスがいるのを確認すると後ろへ振り返り、上機嫌な声で言った。
「いいえ。もう一人います。貴方様の新曲を弾ける男が」
ヨハネスは、いきなり何を言い出すのかと面食らっていると、フリッツが手招きをするので、「何でございましょう?」と言って扉へ近づくと、フリッツは何も言わずに扉を開けたまま背中を向けて部屋の奥へ戻っていった。無言で「来い」と言っているのだ。
着席している貴族と立っている従者二人が、応接室へ入ってくるヨハネスを侮蔑する目つきで見ている。服の感じから身分が低いのは一目瞭然だから、ヨハネスはこのような視線には慣れている。もう一人の従者がチェンバロの前で半眼になって座ったままヨハネスを待ち受けた。彼は、フリッツを見て首を傾げた。
「この男が?」
フリッツが丁寧に頭を下げる。
「左様でございます」
「誰にも聴かせたことがない私の新曲をだぞ」
「はい」
「どうやって? 曲は私の頭の中にだけあるのだから、楽譜を見せろと言われても見せられない。それを、今ここで、こんな男が弾けるのか?」
確かに、チェンバロの所に楽譜は置かれていないので、男の話は事実のようだ。
「この男は、一度聞いた音を覚える特技がございます」
「ヴァルトシュタイン殿。ご冗談がきついですぞ。たっぷり5分は弾いた。こんな複雑な曲を1回で覚えられるはずがない」
「それが、この男は出来るのでございます」
そう言って、フリッツはヨハネスに目配せする。
「ほう。それほど自身がおありとは。……なら、1音でも間違えたら『弾けない』とみなすから、そのおつもりで」
鼻息も荒く男は立ち上がり、ヨハネスと席を交代した。
事前に言ってくれれば心の準備が出来たのに、自分の演奏がその場の余興みたいに扱われるのは気に入らなかったが、ヨハネスは鍵盤の上に指を走らせた。
この曲は、主題と変奏。その変奏には、複数の形式の舞曲が取り入れられている。リズムのオンパレードの後に、最後は3声のフーガで締めくくる。
これを作曲した男はすぐそばにいる。作者の前で弾いてみせる快感に包まれる。曲そのものも弾いていて楽しい。とても参考になる。
気持ちよく曲を弾くヨハネスは、応接室を音の洪水で埋め尽くした。
座っている貴族と両側に控えている二人の従者、およびフリッツとユリアは、同じ曲を2回聞いた気分になっていたが、完全に同じかは誰もわかっていなかった。
しかし、チェンバロで自作の曲を披露した男の表情が、ヨハネスの完全コピーの演奏を物語っていた。時間までほぼ同じの5分。違いは、曲を堂々と弾いていたことだ。
「馬鹿な……。あり得ない……」
この言葉に振り向いた貴族は、作曲家に念を押す。
「全く同じに弾いたと思ってよいな?」
「……は、はい」
「ふむ」
貴族が短く息を吐くと、杖の頭を両手で握ってジッと考え始める。
「ベルンハルト。何か課題を出してはどうか?」
ベルンハルトと呼ばれた作曲家は、「何か弾けるか? 楽譜なしで」とヨハネスに尋ねる。ヨハネスは、候補として3曲を挙げたが、全部弾けとなってしまった。
楽譜もない状態で弾くヨハネスは、次々と指定の曲を完璧に弾いてのける。それが合っているか否かはベルンハルトの判定しかないので、貴族たちは彼の顔色を窺っては、ヨハネスの方を向いて感嘆の声を上げる。
3曲を聴き終えた貴族は、軽く拍手をした後、
「ベルンハルトの前座でどうだ?」
この提案にベルンハルトは動揺の色を見せたが、貴族の圧を感じたのか、承諾した。
「ヴァルトシュタイン殿。この男の名前は?」
「ヨハネス・ゼバスティアン・バッハでございます」
ヨハネスの予感通り、貴族と三人の従者はあからさまにイヤな顔をしたが、「前座ならよいだろう」と一人納得していた。
「ラインハルト様。では、演奏会はいつでございましょう?」
ラインハルトと呼ばれた貴族は、「1週間後だ」と答えた。
こうして、ヨハネスは、貴族が主催する演奏会に出演することが決定した。広場で大衆相手に披露していた音楽一座から、ホップステップで晴れの舞台へ登場することになったのである。
「そうだ、バッハとやら。大型リュートは弾けるか?」
「弾いたことはございませんが、似た楽器でしたら演奏したことがございます」
「ならば、すぐにでも弾けるように」
大型リュートは13コース、つまり24弦あるもの。いきなり弾けというのは、かなりの難題だ。しかも、楽器がない。ヨハネスは承諾したが、いきなり大きな宿題を抱えてしまった。




