25.意趣返し
誰の目から見ても、ミッヘルの敗北は明らかだった。ヨハネスは、手袋の中に細かな金属片を仕掛けたことと、チェンバロの音程を変えるため弦に細工をした卑怯な手段に怒りを覚えたが、最後は演奏が中断するという惨めな結果がミッヘルを打ちのめすだろうと考え、細工の暴露と追及は取りやめた。
「これで決まったな」
フリッツがフッと吐く息に混じって終了宣言を口にすると、ミッヘルがビクンとして雇い主の方を向いた。
「お願いです! お嬢様の読み書きと計算の家庭教師としてでも雇っていただけないでしょうか!?」
「その家庭教師なら、間に合っている。……今までご苦労であった」
ミッヘルは、項垂れたのか軽くお辞儀をしたのかわからないような態度を取り、頭を下げたままヨハネスの方へ憎悪を燃やす目を向けると、左足をかばうようにして去って行った。応接間の扉が閉まってミッヘルの姿が見えなくなり、玄関の扉が閉まる音が遠くから聞こえた頃、それを待っていたかのようにフリッツが口を開いた。
「これからは、二人にチェンバロを教えて欲しい。そのために、午前中は今の仕事をしなくて良い」
「承知いたしました。ありがとうございます」
深々と頭を下げるヨハネスを見て、ドロテーアもフリッツに向かってお辞儀をした。
「家庭教師の給料として、来月から毎月2タレル出そう」
フリッツが指をVサインのように出すと、ユリアが横から割り込んだ。
「あなた。3タレルでもよろしいのではないですか?」
「……まあ、よかろう」
ということは、ミッヘルには同額か、もっと支払っていた可能性もある。
「それに、今月分として1タレルを特別に出してはいかがですか?」
「よいだろう」
どうやら、フリッツはユリアに頭が上がらないようである。そのおかげで、ヨハネスの給料が初めて確定した。
「そうだ。楽譜を保管している部屋がある」
フリッツの言葉にヨハネスがドキッとする。
「その部屋にある楽譜は、自由に使って良い」
「承知いたしました」
すでに許可なく入っていて、曲をほとんど記憶してしまったヨハネスには有り難みがないが、大手を振って部屋の中へ入ることが出来るのは嬉しい。頭を下げるヨハネスは、勝利によって一気に運が回ってきた幸運に感謝し、喜びを噛みしめた。
翌日、朝食を済ませると、割と練習熱心だが好き嫌いの激しいクララに手を焼き、隙あらば逃げ出そうとするアンゲリカを根気よく教えた後、時間が大幅に超過したので急いで仕事場へ向かった。
すると、途中で建物の陰からこちらを覗いている仮面の男の姿が見えた。昨日見かけたあの男と同じ服装をしている。どうしてもこの道を通らないと行けないので、歩幅を狭めて警戒していると、男の後ろから、黒ローブを纏ってフードをすっぽりと被り、顔を半分隠している人物が現れた。直感的にだが、その人物は魔法使いであるようだ。
道の真ん中で魔法対決だけは避けたい。警備兵に現行犯逮捕されるからだ。やむを得ず魔法を繰り出すとしても、先に相手が手を出すように仕向けて正当防衛に持ち込みたい。だが、これは――相手次第だが――かなり危険を伴う。
「おや、魔法を警戒しているね」
黒ローブの人物が若い女の声でそう言って、白い歯を見せた。
「あの男に雇われたな?」
「雇われた? 単なる仲間ってとこさ」
「仲間の敵を討とうと?」
「察しがいいね。さすが、聞いていたとおり、下郎のくせに頭が良い」
「頭がいい? 僕のどんな噂が流れているのかな?」
「その頭とその指で、善良な市民を陥れると」
この言葉で、ヨハネスは脳裏に仲間の正体が閃いてニヤッと笑った。指とは、自分が音楽演奏をすることを言っているに違いない。その演奏が人を陥れるなどと因縁を付けているが、それは音楽の才能を妬んでいるからだ。ならば、思い当たる人物はただ一人。
ヨハネスは、仮面の男に聞こえるように大声で言った。
「あそこにいるお前の仲間は、ミッヘル・シュヴァルツコップだろう!?」
これには、女よりも仮面の男の方がたじろいだ。
「なるほど。勘も鋭いということか。だが、これは気づくまい」
そう言って女が右手を肩まで上げて、指をパチンと鳴らす。すると、ヨハネスの体が硬直し、声も出せなくなった。
「おやまあ。この術を破れないということは、上級魔法を会得していないな。これは都合がいい」
女がクルッと背を向けて仮面の男の方へ歩いていくと、どういう訳か、ヨハネスの体が勝手に女の後ろを付いていく。しかも、声が出ないので、助けを求められない。
「連れてきたよ」
仮面の男の前で女がそう言うと、男はヨハネスの胸ぐらをつかんだ。やはり、背丈はミッヘルと同じ。フードが膨らんで見えるのは角があるからだ。しかも、左足をかばうようにしているので、ミッヘルに間違いない。
――これは意趣返しだ。解雇されたことによる腹いせに相違ない。
「ここじゃ人目に付くから、奥へ行くよね?」
頷いた男が手を離した。女が路地の奥の方へ歩いて行くと、ヨハネスもひとりでにその後ろを付いて歩いた。
路地裏に連れて行かれたヨハネスは、例の屈強な男と痩せた男に出迎えられる。まず、仮面の男がヨハネスを何度も平手打ちをして、腹を数発殴り、さらに腹へ蹴りを入れた。そして、転がったヨハネスの頭を足で踏みつける。
「この下郎めが!」
声は、完全にミッヘルになっている。
「貴様がいなければ、あの守銭奴から金を巻き上げて貧しい子供たちに分け与えることを続けられたのに」
足で頭をぐりぐりと押す。
「女中から聞いたぞ。3タレルしかもらえないそうだな。私には10タレルも払っていたのに、安く見られたものだ」
ミッヘルはヨハネスの顔面に蹴りを入れると、男たちに指示した。
「指の骨を折れ。腕の骨もだ。それから歯も折れ。……そうだな。ついでに両足も」
「ちょっと待ちなよ」
女が笑いながら割り込んできた。同情ではない。何かもっとあくどいことでも思いついたのか。
「魔法をかけて体を硬くしているから、骨は折れないよ。魔法を解かないと」
「フン。どうりで殴っても妙に硬かったわけだ。それを先に言え」
「言う前から殴っただろう。早合点する方が悪いよ」
「なら、今すぐ解け」
「その前に――報酬の残り半分は? 捕まえたら払うはずだろう?」
「終わってからだ」
「あたしの役目は捕まえるところだけ。殴る蹴るを見させられて待つのはごめんだね」
「すぐに終わる。だから、待て」
「ダメだね。先によこしなよ」
「血を見るのが嫌いな魔女とは、情けない」
「どうしても、よこさないってんだね? 最初から払う気がないんだろう?」
ミッヘルは、ローブの内側からナイフを取り出して魔女の喉元に突きつけた。
「ないね」
「これは、どういうつもりなんだい?」
「魔女の魔法を強制的に解くのさ」
「なるほど……。殺ろうってんだね?」
「そうだ。こうなったら、転がっている野郎も、この現場を見られるから道連れだ」




