24.鍵盤上の対決
ヨハネスは、この初見対決の勝利を確信した。すでにあの部屋にある楽譜は目を通し、ほとんど記憶している。覚えていないのは――というより、覚える労力がもったいないので切り捨てたのは――練習曲だが、出されても何も問題はない。余裕綽綽でニヤリとしたくなるが、初見で余裕とは何か裏がある、もしやすでに楽譜を盗み読みしていたのではないかと疑われるので、ここは緊張している顔を作って誰にも悟られないようにした。
彼の表情が不安を表に出すまいと堪えているように見えたのか、ミッヘルが白い歯を見せた。
「初見だから、練習時間なしで弾くのだぞ」
「初見の意味は理解しております」
「生意気な……。あのテレマンの曲を弾けるとは思えぬが」
「大丈夫でございます」
「フン。冷静を装っていても、内心は不安で仕方ないことくらいわかっておる」
それとは真逆の今の心情を読み取れない節穴のような観察眼に、ヨハネスは笑いそうになるのを必死で我慢する。むしろ、不安がっていると思わせておいて完璧に弾くところを見せれば、より衝撃が大きくなるだろうから、反論せずに放置した。
しばらくして、フリッツが「これこれ」と言いながら応接室へ入ってきて破顔する。
「今朝仕入れた最新物だ」
これにはさすがのヨハネスも思わず『えっ!?』と言いそうになり、言葉を慌てて飲み込む。本当に初見になってしまったのだ。驚きの表情となって出てしまったことが、ミッヘルを元気づかせる。
「ほれみたことか。初見も出来ない輩は、図々しくそこに座っていないで、さっさと尻尾を巻いて去ることだな」
ミッヘルの言葉に横目で睨むヨハネスの顔に向かって、楽譜が差し出された。
「これを弾いてみよ。読む時間なしで、今すぐに」
いきなり弾けという。前にハンスに教わった時は、初見でも3分くらい楽譜を読み込む時間をくれた。だが、初見とはそういう甘いものではなく、これこそが本当の初見なのだ。
「承知いたしました」
恭しく礼をして受け取った楽譜は3枚。それを並べて一度鍵盤に目を落として手のポジションを確認した後、それからは手元を見ないで、楽譜の音符をひたすら目で追いながら弾き始めた。普通は、鍵の位置を時々確認するものだが、それを一切しないのは、鍵の位置が完全に頭の中に入っているようだ。
音楽を奏でるヨハネスの表情が明るくなった。テレマン独特の節回しが気持ちよく、何より、弾いていて楽しいからだ。愛好家のために予約広告まで出して売る人気作曲家だ。つまらない曲など売るはずがない。
『ああ、テレマンのようになりたい』
憧れで胸を躍らせながら、最後の一音まで完璧に引き切った。それは、ミッヘルにもわかったらしく、苦り切った表情を見せている。
次はミッヘルの番だ。彼は、ヨハネスが座っていた椅子の上をハンカチで拭いてから椅子の高さを調整して座り、目の前にある楽譜を見る。すると、クララが「お父様」とフリッツに声をかけた。
「一度聴いた曲を弾いてもいいの?」
子供にもわかるミスに、フリッツが「おお、そうだ」と言って部屋を出て行った。ヨハネスはフリッツが聞こえないくらいの音で舌打ちしたのを聞き逃さない。
ミッヘルにあてがわれたのは、2枚の楽譜。それを弾く前に、彼は近くに立っているヨハネスの姿で気が散るかららしく、ヨハネスを「シッシッ」と手で追い払ってから、フリッツに笑顔を向けて頭を下げる。
「では、始めます」
ミッヘルが弾き始めたそれは、ヨハネスが昨日見た楽譜の曲だった。しかも、3箇所も違う音を弾いている。
さあ、困った。ミスを指摘すれば、「なぜそれがわかる?」と問われる。あの部屋に侵入していたことがバレるのだ。
弾き終えたミッヘルは快心の笑顔になり、どうだと言わんばかりに胸を張る。その、もう勝利を確信したような先生の背中にクララが声をかけた。
「なんか変」
動揺を隠せないミッヘルがクララの方へ振り返ると、これはチャンスと考えたヨハネスが微笑してクララを援護する。
「ええ。3箇所、和声的におかしい箇所がありました」
クルッと振り返ったミッヘルが、ヨハネスの方を見て歯を剥いた。
「どこだ? 言ってみろ」
席を交代したヨハネスは、妙に高くなった椅子に少し戸惑ったが、ざっと楽譜を見て、
「まず、ここです」
そう言いながら、お手本を弾いた上で、「シュヴァルツコップ様は、こうお弾きになりました」と間違った弾き方を再現する。
「そう」
クララの同意に力を得たヨハネスは、残りの2箇所も指摘する。フリッツは手を叩いて喜んだ。
「さすがは、クララだ」
本当はヨハネスの方が、相手も間違いまで記憶しているのだから超絶凄いはずだが、フリッツは娘の方を持ち上げる。
ぐうの音も出ないという表情を見せるミッヘルは「ならば――」と切り出した。
「即興演奏で勝負だ」
「承知いたしました」
余裕を見せるヨハネスが気に食わないミッヘルは眉間に皺を寄せたが、少しすると、何か妙案が浮かんだらしくニッと笑った。
「私が今から即興で変奏曲を弾く。自作のテーマでだ。これは誰にも聴かせたことがないので、私しか知らない。この曲を聴いて、そっくり弾いてみせよ」
「承知いたしました」
「ただし、お前はこの部屋の外で聴くのだ」
「なぜでございましょう? この位置からはシュヴァルツコップ様のお手は拝見出来ません」
「いいから、外に出るのだ!」
「かしこまりました」
困った素振りを全く見せずに平然と答えるヨハネス。期待通りにならないので怒りに震えたミッヘルは、また手で「シッシッ」と追い払った。
ヨハネスが一礼して扉の外に出ると、ミッヘルが主題と変奏の自作の曲を弾き始めた。実に退屈な主題と変化に乏しい変奏。扉の外に出たヨハネスは、あくびを噛み殺すが、部屋の中で聴かされているアンゲリカは足をプラプラして大あくびをし、つられたクララはヨハネスと同じくあくびを噛み殺した。
3分くらいの面白みのない変奏が終わると、ミッヘルが「これと同じく弾いてみよ」と扉に向かって声をかける。現れたヨハネスは出て行ったときと同じ表情なので、困った顔を見たかったミッヘルが悔しがった。
「和声的におかしい――おそらくミスタッチが4箇所ございましたが、そのまま再現させていただきます」
動揺を見せるミッヘルを尻目に、席を交代したヨハネスが、淡々と退屈な主題と変奏を弾き始める。
――まるで完全コピー。間違いまで忠実に再現している。
アンゲリカとクララのあくびに、今度はフリッツ夫妻がつられた。必死に堪えていたのは、ベアトリクスとドロテーアだった。
弾き終えたヨハネスが、フリッツへ振り返る。
「ミスタッチを直して弾き直しますが、よろしいでしょうか?」
「もうよい!」
「では、次は私の即興演奏を、シュヴァルツコップ様がお聴きになって再現することでよろしいでしょうか?」
「ああ。……簡単なものにせよ。めちゃくちゃを弾かれては再現できぬ」
「めちゃくちゃは弾きませんのでご安心ください。では、シュヴァルツコップ様のテーマに基づいた主題と変奏を弾かせていただきます」
「半分の長さにせよ」
「公正な勝負のため、同じ時間の方がよろしいかと存じますが」
「お嬢様方がお疲れのご様子なので、短くせよ」
またまたアンゲリカが大あくびをした。生徒を利用するとはずる賢い奴だと思ったが、身分が低いヨハネスは、反論を諦める。
「承知いたしました。では、同じ曲でお嬢様方が飽きてしまわれないよう、わたくしめの主題に基づいた変奏曲をご披露いたします」
「な!?」
ミッヘルが、してやられたという顔をする。だが、ヨハネスは一瞥もせず、さっさと自分の作曲した主題と変奏の曲を弾き始め、1分半きっかりに終えた。
立ち上がったヨハネスと交代したミッヘルは、少し考えて「こうだったかな?」と弾き始めたが、明らかに主題の途中で音を外した。しかし、何事もなかったように続きを弾き始める。聴いている分には、そんなものだったかなと思わせる演奏だが、ヨハネスにしてみれば、10箇所以上も音を外しているので、聴いていられない。
そのうち、1分も経たないうちにミッヘルの指が止まり、彼は項垂れた。
フリッツがクララに「どうだったかな?」と感想を求めると、クララが首を傾げた。
「なんか変」




