表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界風ヤング・バッハ(第1部)  作者: s_stein
第1章 貧困からの脱出
24/40

23.小さな罠

 ヨハネスが屋敷に入ると、廊下の向こうでドロテーアが手招きをしているのが見えたので、ミッヘルの姿が見えなくなったのを確認してソッと近寄ると彼女が耳打ちをした。


「シュヴァルツコップ様の契約が今日までって聞いていらっしゃいますでしょうか?」


 ヨハネスは無言で首を横に振る。


「ベアトリクスさんから聞きましたが、延長する条件は、師匠より演奏が上手だった場合だそうです。頑張ってください、師匠」


 ドロテーアの肩を軽く叩いて頷くヨハネスは、微笑んだ。


 ミッヘルが「クビ」とか「敗北」とかを口にしていた理由がこれではっきりした。ミッヘルの進退がかかっている演奏勝負なのだ。いや、ドロテーアは心配させまいと口にしていなかったのかも知れないが、もしかして、自分自身の進退も決まる勝負なのかも知れない。でなければ、脅しでもない限り「お前はクビになる」なんて言わないだろう。


 ますます燃えてくる。あの憎きミッヘルを追い出すチャンスだ。


 勝負に勝って娘にチェンバロを教えることになれば、堂々とあの宝の山の部屋に入って楽譜をいつでも自由に閲覧できるかも知れない。さらに、フリッツの友人に紹介されて、いろいろな人に演奏を聴いてもらえる機会が増えるかも知れない。そこで有名になれば、噂が町中に広まるだろう。楽譜をたくさん買うフリッツと楽譜屋のつながりから、自分の作品を売り込むことが出来るかも知れない。


 夢は、一気に膨らむ。


 ――この人生の転機と思える機会を逃してはならぬ。必ず勝利するのだ。


 自分にそう言い聞かせながら、ヨハネスは拳を固く握りしめる。そうして、洗面所で手を洗った後で応接間に入った。


 部屋の中には、フリッツとユリア、そして娘のクララとアンゲリカが椅子に座って待っていた。ミッヘルは、チェンバロのそばに立っていて、最後に現れた挑戦者を睨み付けた。なんだか、捻挫したらしい左足を気にしているようで、体が右に傾いている。


 フリッツがヨハネスに向かって目配せする。先に弾けということのようだ。それを察したミッヘルは、チェンバロから離れた。


 少し低すぎる椅子は、娘の身長に合わせた物だが、初めて見る椅子なので調整の仕方がわからず、まごつくくらいならこのまま弾こうと決めた。


 ちょうどその時、ベアトリクスとドロテーアも応接間に入ってきて、二人は部屋の隅で控えるように立った。これだけ知り合いのギャラリーが揃うと、緊張しないというと嘘になるが、嬉しさの方が勝ってワクワクしてくる。


「ちょっと、音慣らしを」


 そう言ってヨハネスが鍵盤の左端に左手を伸ばしたら、ミッヘルから物言いが付いた。


「その薄汚れた手で弾くのか? 失礼極まりない。手袋をせよ」


「仕事を終えた後は、しっかり手を洗っております」


「いいから、この手袋をせよ」


 ミッヘルが、背広のポケットから白い手袋を取り出してヨハネスへ突きつけた。身分の低さを訴えたいのだろうが、あまりに露骨すぎる。手袋を右手で払い落としたくなる衝動に駆られるが、()(しよう)()(しよう)に受け取った。すると、ドロテーアが進み出て「お待ちください」と言う。


「おや、どうかいたしましたかな?」


 態度と声をコロッと変えるミッヘルに、いつかは拳をお見舞いしたくなるヨハネスだが、ドロテーアが手袋をジッと見つめたまま近づいてくることに、一抹の不安を覚えた。


「ちょっと失礼いたします」


 手袋をヨハネスから取り上げたドロテーアが、両方の手袋を裏返した。すると、床の上からわずかな金属音が聞こえ、何か硬い物が落下したことを告げる。


「手袋の中に何か入っていたようです」


 そう言って、ドロテーアはハンカチをスカートのポケットから取り出してしゃがみ、つまんでからササッと拭き取った。小さすぎてよく見えなかったが、金属片でも入っていたのだろう。


 フリッツが短くため息を吐いて「そのままで良い」と許可を与えたので、ヨハネスは「では」と言って、素手で最低音から最高音まで半音階で全ての音を一気に弾いた。指慣らしでも始めたのかと思っていると、クララが首を傾げた。


「なんか変」


 ヨハネスは、ニコッと笑ってクララの方を向いた。


「さすがはお嬢様です。いくつかの音がずれているのがおわかりですね」


 クララが笑顔で頷くと、ヨハネスはミッヘルの方へ向いて真顔になった。


「さて、いくつずれているでしょう?」


 口をへの字にしたミッヘルは答えない。


「3つです。このA(アー)、このCis(ツイス)、このGis(ギス)


 そう言いながら、ラの音、ド#の音、ソ#の音を鳴らす。


「調律がおかしい音とは違いますね」


 ヨハネスが立ち上がって、チェンバロを上から覗き込んで、弦の辺りへ手を伸ばした。


「何か挟まっていますね。それとも、物が器用に転がって入ったのか?」


 ミッヘルがまだ口をへの字にしたまま軽く頷いた。


「取りましたから、もう一度さきほどの3つの音を弾いてみましょう」


 今度のラ、ド#、ソ#は、明らかに違った音になった。それから、最高音から最低音まで半音階進行で一気に弾く。


「さて、これで治りました。では、以前さわりの部分だけお聴かせいたしましたヨハン・アダム・ラインケンのトッカータを頭から弾きます」


 ヨハネスの指が奏でる豊潤な音楽が応接間を満たす。フリッツは音楽に合わせて体を揺らし、クララは身を乗り出して聴いているが、アンゲリカは足をプラプラと揺らすだけだった。


 ブランクがあるのに、それを感じさせない完璧な演奏。ミッヘルはわずかなミスでも聴き逃すまいと神経を集中したが、無駄に終わった。


 演奏が終わると、ミッヘルとベアトリクス以外は拍手を送った。ただし、ドロテーアはベアトリクスの目があるので控えめな拍手で、アンゲリカは1発鳴らしただけだった。


 拍手が終わると、フリッツが立ち上がった。


「では、二人に初見で弾いてもらおう」


 ミッヘルが「何の曲でございましょうか?」と尋ねると、フリッツはニヤリとした。


「テレマンだ。最新作を予約で手に入れたので、是非とも弾いてもらいたい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
cont_access.php?citi_cont_id=746373233&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ