21.演奏依頼
翌日、一日の仕事から解放されて固いパンと豆スープだけの質素な夕食を済ませたヨハネスは、自分の部屋で魔法による控えめな灯りの下で自作の五線紙に新作の舞曲を1曲書き終えた後、ゴロリと横になって皆が寝静まるのを今か今かと待っていた。フリッツの家は、もちろん他の家と同じく夜にランプもロウソクも使わないので真っ暗なのだが、寝ていると思いきや、時々娘たちが騒ぐ声が聞こえるので安心は出来ない。
そろそろ良い頃合いだと思って手探りで扉を開けると、今宵は満月を遮る雲がないので、廊下の窓から月光が差し込んでいる。この方が歩きやすいのだが、誰かに姿を見られる危険性があり、緊張で筋肉がこわばる。抜き足差し足で歩きながら何度も後ろを振り返り、昨日のように突き当たりの部屋へ体を滑り込ませてホッとする。それから魔法でほのかに光る球体を出現させ、それをランプ代わりに、棚にあるまだ目を通していない楽譜へ手を伸ばし、床に腰を下ろして片っ端から読みあさった。
フリッツが集めた楽譜は、そのほとんどがチェンバロの曲だった。中にはフルートソナタやバイオリンソナタがあるが、フルートの音もバイオリンの音もこの屋敷では聴いたことがなく、誰と演奏を楽しむために買ったものなのかと頭の上に疑問符が浮かび上がる。
「もしかして、いつかお嬢様がフルートやバイオリンを習って奥様と一緒に演奏するのを楽しみにしていらっしゃるのかな?」
フリッツが妻と娘の演奏に耳を傾けている微笑ましい光景を想像すると、口元がほころぶ。
「家族団欒のひとときを家庭演奏会で過ごすって、楽しいだろうなぁ……。僕も、こういう音楽をたくさん書いてみたいな」
天井を見上げながら家庭の温もりを感じつつ、新たな目標が一つ増えたところで、再び手元の楽譜に目を落とす。
夢中になっていると時が過ぎるのも忘れてしまう。あと1曲、もう1曲、これで最後と決めてページをめくるが、その最後がなかなか最後にならない。しかし、不思議なもので、何がきっかけになるのか、そろそろ誰かが起きて来るのではないかという不安に襲われる。これで、温めた床から腰を上げて冷気を感じる尻を手で払い、忍び足で自分の部屋へ帰るのだった。
ヨハネスの胸が躍る真夜中の楽しみは、誰にも邪魔されることなく5日間続いた。全ての楽譜に目を通し、もう読む楽譜がなくなったので、フリッツが新しい楽譜を買ってきてくれないかと願っていたところ、思いがけないチャンスがやって来た。
夜中に作曲をしていると、廊下でフリッツとユリアの会話が聞こえてきた。ヨハネスは筆を止めて、魔法の照明を消し、耳を澄ませた。
「あなた。またですか?」
「いいじゃないか」
前にも聞いたことのある短いやりとりだ。おそらく、また楽譜を買ったのだろう。
「今度は誰のです?」
「ゲオルク・フィリップ・テレマンのだ。予約の広告を見つけてな」
その名前を聞いて、ヨハネスは胸がときめいた。テレマンは多作家で、恐ろしいバイタリティーで曲を書き上げる有名人だからだ。新聞の広告で自作の曲の予約を受け付けるほどで、昨日も棚の中にあった彼の楽譜を夢中で読んだことを思い出す。膨大な曲を世に送るのだから、楽想が怒濤のように溢れるのだろう。その才能を、ヨハネスでさえ、少しでもあやかりたいと思っていた。
「いい加減にしてください」
ユリアの言葉にヨハネスがプッと吹き出すと、ドアがノックされた。まさか、失笑が廊下にまで届いてしまったのかと口に手を当てて警戒していると、
「ヨハネス。寝ているか?」
思いがけない呼び出しにドギマギして「なんでございましょう?」と返事をすると、フリッツは扉を開けずにまた声をかける。
「明日の仕事は、昼に上がってほしい」
こんなことを言われたのは初めてで、ヨハネスは面食らった。半日で肉体労働から解放される嬉しさよりも、その後で何があるかの不安の方が勝る。
「承知いたしました」
別の仕事に変えられるのか、何かまずいことをしでかしたのかと悪い方へ考えが行くと、フリッツが咳払いをした。
「チェンバロは弾けるな?」
想像もしなかった言葉にヨハネスはまたもや面食らい、今度は目の前に光明が差したような気がした。
「はい! もちろんでございます!」
「よろしい」
扉の前からゆっくり立ち去る足音と、その後を従う足音が聞こえてきた。
興奮で全身の血が沸き立ち、指がわなわなと震える。エアーでチェンバロを弾き始める。隠れて読みあさった楽譜が頭の中で鮮やかに蘇る。
「ありがとうございます!」
足音が一瞬止まった。しかし、フリッツの声は聞こえず、足音は遠ざかっていった。




