19.使用人生活と音楽
ベアトリクスの案内で、二人はまず、公衆の風呂場へ向かった。彼女が与えた入浴――実際は水浴び――の時間制限は5分。二人はザブッと水を被り、彼女から借りた手拭いで手早く体を拭いて使用人の服に着替えるも、初めての服はボタンが多くて戸惑った。二人が急いで風呂場から出て来ると、懐中時計を片手にイライラしていたベアトリクスの一喝が待っていた。
「何のんびりと入っているのですか! どんな時でも、使用人は時間を守るのが第一です!」
プリプリと怒って去って行く彼女の後を追い、次は洗濯場へと向かう。ここで自分の服と手拭いを洗うのだが、洗剤などなく、施設に備え付けの棒を使っての叩き洗いだ。ヨハネスが怪しい手つきで服を洗い始めると、またベアトリクスの一喝が飛ぶ。
「洗濯の仕方もわからないのですか!? どうせ、川で適当に洗っていたのでしょう」
ヨハネスは、『これからこんな調子で怒られながら働くのなら、1ヶ月間のただ働きが判明した段階で逃げ出した方が良かったのか』と後悔し、憂いに沈む顔をドロテーアに向けると、彼女が目で励ましてくれた。
フリッツの家に戻った二人は、ベアトリクスに建物の中を案内された。表の構えから相当なお屋敷に思えたが、内装はそれほど絢爛豪華ではなく、廊下に飾られた5枚の絵はどれも自分の顔の大きさしかないほど小振りで、花瓶も絵柄は綺麗だが慎ましいサイズの物だった。もちろん、廊下にランプはなく、小さめの窓から入る光が唯一の照明なので、意外と薄暗かった。
と、その時、二人の足下を見たベアトリクスが息を飲む。
「なんと! わたしとしたことが、靴の貸与を忘れていました!」
二人とも、真新しい使用人の服の下は、体の一部くらい馴染んでいるオンボロ靴のままだったのだ。ドロテーアの長いドレスは踝がちょっと隠れる長さなので、服とミスマッチの靴が見えてしまう。あてがわれた靴はサイズが少し大きく、綿を詰めて調整した。なお、二人は靴の貸与代金の追加を警戒したが、服代と一緒と聞いて安堵の胸をなで下ろす。
ドロテーアの部屋はベアトリクスの隣で、ベッドと背の低い箪笥と手鏡しかない、寝るだけに特化したと言える物。一方、ヨハネスの部屋はドロテーアの2倍の広さだが、ベッドがない物置部屋。近くの積み上がった木箱が転がってこないか心配しながら、床に敷かれた薄い毛布の上で寝ることになる。
ドロテーアの仕事は、家の掃除、調理を含めた家事全般。それに、フリッツのやんちゃな七歳と五歳の娘クララとアンゲリカの面倒を見ること。さらに、フリッツの前で歌を歌うこと。チェンバロの伴奏は、妻のユリアが担当するか、娘たちの家庭教師ミッヘルが来ていればミッヘルだった。
一方、ヨハネスは、フリッツが経営する問屋から小売店へ荷車を引いて品物を搬入する仕事を与えられた。教育係は、若い狼族のヘルベルト・アンスバッハが担当した。フリッツが「後で残りを弾いてもらおう」と言った割には、ちっともチェンバロには触らせてくれず、葉巻、葡萄酒、麦芽酒、香辛料などの箱を積んでは配達して回ってクタクタになる毎日だった。
ヘルベルトは下流の平民で、自分が見下せる音楽師であるヨハネスの登場を歓迎した。最初は仕事にまごつくヨハネスを「馬鹿」「のろま」とからかっては悦に入っていたが、金額の計算が速く、取引先の名前や場所をたちどころに覚えてしまうヨハネスを見て、目を丸くする。
ヘルベルトの納品ミスで顧客が怒った時、ヨハネスが謝罪に行くこともあった。他にも面倒なことや厄介ごとを全部引き受けてくれるヨハネスを見て、ヘルベルトは「これ幸い」と自分の仕事に手を抜くようになった。これで誰の仕事が増えるかは、言うまでもないであろう。
そんな生活が10日間も続いた。未だに、チェンバロを弾かせてくれない。ドロテーアは毎日歌っているが、自分は肉体労働ばかりだ。夕食を終えて真っ暗な部屋に戻ったヨハネスは床に寝転がり、「このままでいいのだろうか」と悶々として眠れないでいると、廊下の外でフリッツとユリアがヒソヒソと話している声が聞こえてきた
「あなた。また楽譜を買ったのですか?」
「いいじゃないか。あのディートリヒ・ブクステフーデだぞ」
ヨハネスは「ブクステフーデ」の名前を聞いて、跳ね起きそうになった。その人物は、ドロテーアがオルガンの名手とあがめていて、自分の演奏と比較した人物だ。どうやら、フリッツがそのブクステフーデの楽譜を手に入れたらしい。
「いい加減にしてくださいよ」
「これだけは、やめられないんでな」
「置くところがないではありませんか?」
「ある。奥の部屋がまだ空いている」
胸の鼓動が高鳴るヨハネスは、今すぐにでもフリッツに会って「見せてくださいませんか?」とお願いしようとした。しかし、いつまでもチェンバロを演奏させてくれないので、相手にされないのではと思えてきた。そこで、奥の部屋に忍び込むことを決意する。




