18.多難なスタート
翌朝、ヨハネスとドロテーアが指定の場所で待っていると、フリッツが一人の男を連れてやって来た。その男は、人間の顔をして山羊の角を生やした山羊族で、気の毒なほど痩せ細り、ずり落ちる眼鏡を中指で何度も持ち上げる神経質そうな紳士だった。フリッツの立派な背広に対し、見劣りする背広を着ているので、中流の平民に見える。
「紹介しよう。この男は、うちの娘にチェンバロを教えている家庭教師のミッヘル・シュヴァルツコップだ」
ミッヘルが、また眼鏡の位置を指で直した後、
「ヴァルトシュタイン様から伺いました。貴方がドロテーア・フォイエルシュタインですね? ……で、こいつですかな? 流しの分際でチェンバロを弾いたことがあるとぬかしよる輩は」
ドロテーアには猫なで声を使って目尻を下げるが、ヨハネスには声を低くして軽蔑の眼差しを向ける。
「その不細工で汚れた指がチェンバロを弾くとは思えぬ。あの楽器は、貴婦人の美しい指で優雅に奏でるものなのだ。貴様は、せいぜい、そこの手垢で汚れたオンボロオルガンを弾くのがお似合いだ」
ヨハネスは、人を見下す無礼な男の眉間に拳を一発ぶち込んでやるという衝動をなんとか堪えた。
「お言葉を返すようで誠に恐縮ではございますが、わたくしめがチェンバロを弾けるのは事実でございます」
横柄な態度のミッヘルに丁寧語を使うのも頭にくるが、雇い主がいる手前、致し方ない。
「口では何とでも言える。……なら、そのオルガンで、何か弾いてみろ」
「承知いたしました」
ヨハネスが楽器を構えると、ミッヘルは「ただし、流行音楽という下品な物ではなく」と条件をつけた。このミッヘルの価値観を表す言葉に、端からそんな曲を弾くつもりはないヨハネスはさらに腹を立てたが、顔には出さず、涼しい顔をする。
「では、ヨハン・アダム・ラインケンのトッカータを」
「な!?」
ミッヘルは、口をポカンと開けて体が固まった。まさか、その有名作曲家の名前を口にするとは想像だにしなかったのだ。
「ただし、鍵盤の大きさに制約がありますので、さわりの部分だけとさせていただきます」
ヨハン・アダム・ラインケンは即興の名手で、劇的な効果をもたらす音の変化を得意とした作曲家。ヒルデガルトの所有する楽譜にあった彼の作品を、ヨハネスは好んで弾いていたのだ。
さびの部分を完璧に弾き終えたヨハネスが一礼すると、フリッツが大層感心した。
「うむ。ラインケンを弾けるとは思いも寄らなかった。後で残りを弾いてもらおう」
これに慌てたミッヘルは、思わずフリッツの袖へ手を伸ばし、つかみそうになる。
「でも、ヴァルトシュタイン様! 身分の低い者にあのチェンバロを弾かせるなど――」
「許可する」
「でも、間接的にお嬢様のお手が汚れますゆえ――」
「わしが良いと言っておるのだ。さあ、家に行くぞ」
さっさと立ち去るフリッツにドロテーアとヨハネスが付いていくと、その間に立ってフリッツの背中とヨハネスの顔との間に視線を往復させながら歩くミッヘルは、徐々に顔を怒りの色で染めた。
一行が5分ほど歩くと、立派な構えの3階建ての家が建ち並ぶ通りに出た。どの家も豪華で広かったが、その一つの重厚な扉を開いてフリッツとミッヘルが入っていくと、入れ替わりに服を持った猫族の女中が出てきた。ドロテーアと同じ人間の顔をして長い耳を持ち、質素な柄の長いドレスを着用している。彼女は「ベアトリクス」と名乗り、ドロテーアには笑顔を見せ、ヨハネスには軽蔑の眼差しを向ける。
「あなた達には、これからお風呂へ行ってもらいます。そこで体を洗ってからこの服に着替えて、今着ている服を洗濯してもらいます」
お風呂と言っても、町にある公衆の風呂場で水を浴びるだけだ。今着ている服は、着替えた後で市民が共同で利用する洗濯場で服を洗うことになる。
「代金は、天引きですからね」
人差し指を立てるベアトリクスの言葉に『そう来たか』と思ったヨハネスが、念のために尋ねる。
「代金とは風呂代と洗濯代だと思いますが、服の代金もでしょうか?」
「まさか。こんな高価な物を払えるだけのお金を持っているのですか?」
「なら、服はタダで貸していただけるのでしょうか?」
「何を馬鹿なことを言っているのですか? 服は有償で貸与です。その貸与の料金が天引きされます」
「では、風呂代、洗濯代、服の貸与代の全部で、おいくらでしょうか?」
「二人で2タレルです」
ヨハネスとドロテーアは、呆然とした。要するに、宿あり食事ありだが、1ヶ月ただ働きになったのである。
まだわからぬかと苛つくベアトリクスは、ヨハネスに顔を近づけてきつめの声で言い渡す。
「見習いだから、当然です! 屋根と温かい食事があるだけまし、と思うこと。いいですね!?」




