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異世界風ヤング・バッハ(第1部)  作者: s_stein
第1章 貧困からの脱出
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17.訪れたチャンス

 それから1ヶ月間のヨハネス一座の収支残高は、節約の甲斐があって、20銀グロシェンのプラスになった。1日平均8ペニヒずつ貯金しているようなものだ。たったそれだけ、という感じもするが、嵐や長雨で演奏できない日もあり、宿代や食事代を差し引いての残りだから、これでも頑張った方だ。なお、雨の日に日雇いの仕事を探したが、流しの音楽師ということで、相手にされずじまいだった。


 ヨハネスの作曲は、仕事の終わりに1日1曲書き上げるペースを崩さなかった。ほとんどが、舞曲だった。舞曲なら各地でニーズはあり、あわよくば売れると踏んでいたからだ。演奏できない日は3曲くらい書くときもある。結果的に、1ヶ月で50曲を書きためた。


 これをヨハネスが意気込んで楽譜屋に持ち込んだが、身なりで門前払いを食らった。ドロテーアだけ行かせたら、手作りの楽譜を見てくれるところまで進んだが、小さすぎて読めないと突き返された。紙の節約が(あだ)となったのだ。


 そこで、泣く泣く持ち込み用のためだけに高い五線紙を数枚買い、数曲書き写してから再びドロテーアに持っていってもらったところ、技巧的過ぎて素人には無理であり、平易な曲じゃないと買えないと言われた。


 ヨハネスは、断腸の思いで、初心者だと思うレベルに曲を改変し、さらに「バッハ」の名前では流しの音楽師であることがバレるので「ザックス」のペンネームで提出したところ、やっと売れた。しかし、それは五線紙の代金と同じだった。


 その後、何度か売りに行ったが、相も変わらず安値での取り引き。それでも、ヨハネスは「いつかザックスの曲が評判になるだろう」と呑気に構えていた。不審に思ったドロテーアが楽譜屋に行ってみると、ザックスの曲が店頭にないことに気づき、店主に問いただしたところ、印刷もしていないことが発覚する。それで、楽譜を買い戻し、ヨハネスのベッドの上に積み上げた。


「師匠の曲をただ同然に買い取って、おまけに放置しておく業者でしたから、怒って買い取りました」


「ありがとう。買ってくれるだけでも幸せなんて、甘い考えを持っていたのが恥ずかしいよ。大衆に売ってくれる業者を選ぼう」


「あてはありますか?」


「自信を持って言える。ない」



 それから3ヶ月が経った。収支残高は紙とインクを買ったので少し減って60銀グロシェン=2タレルのプラスになり、自作の曲は200曲にもなった。


 夏なので涼しいところへ移動しようと、二人は北方に足を進め、アルトブランデンブルク公国へ入った。ここは音楽が盛んなところで、聴衆も多い。需要が多ければ供給も多いのは当然で、専属の音楽師が多数いて、流しの音楽師たちも続々と入ってくるので、競争が激しい。あえてここに向かったのは、ドロテーアが「師匠の楽譜を売るのはここが最適」という考えがあったからだ。


 まず、場所取りが大変。次に、高いレベルの演奏家が競い合うので、気が抜けない。下手くその烙印が付いたら、相手にされないのだ。現に、ヨハネスたちが場所が空くまで待っていたところ、いまいちの演奏や歌の音楽師の前には風だけが通り過ぎ、空の皿を持って去って行った。


 これ幸いと、空いた場所に陣取ると、「そこは俺が目を付けていた」と割り込んでくる奴らがいる。ヨハネスは、何度も使い魔シュヴァンツを召喚して事を構えようとしたほどだ。そのたびにドロテーアに制されたのだが。


 やっとの思いで貴重な場所を確保し、日が傾いてきたので慌ただしく演奏を開始すると、ドロテーアの美声にたちまち人垣が出来て、ビックリするほど多くの硬貨が投げられた。もちろん、ほぼペニヒ銅貨だが。


 気を良くした二人は、それでも安宿を探して節約し、ここでしばらく構えて商売を始めることにした。



 4日間演奏を続けた時、二人は同時にあることに気づいた。上流平民の身なりをした狼族――人間の顔ではなく狼そのものの顔――の紳士がいつも一番前に陣取って、良貨の1銀グロシェンを投げるのだ。毎日来る客の中で、一番目立った存在だ。ヨハネスは(こう)()()のハンスを思い出し、長姉エレーナのケースと同じく、ドロテーア目当てに来ているのではないかと思うと、気が気でない。


 だが、その予想は的中した。5日目もまたその紳士が現れ、いつものように良貨の1銀グロシェンを落とす。そして、ヨハネスが店仕舞いをし始めると、紳士が「ちょっといいかな?」とドロテーアに声をかけてきた。


「何でございましょうか?」


「私はフリッツ・ヴァルトシュタインと申す。そなたの名前は?」


「ドロテーア・フォイエルシュタインです」


 フリッツは、哀れむような顔をする。名前と身なりから、落ちぶれた貴族と同情したのだろう。


「それは気の毒に……。どうかね? 私の所で住み込みの女中として働かないかね? 月給は2タレル出す。もちろん、食事付きだ」


 女中の月収の2倍だ。


「わたくしの師匠と一緒に雇っていただけるのでしたら……」


 ドロテーアの視線に合わせてフリッツがヨハネスを見て、眉根を寄せる。


「演奏家は間に合っているのだが……。私は歌い手が欲しいのだ」


 これで、2倍の月収を支払う意味がわかった。歌える女中が欲しいのだ。


「申し訳ございません。師匠と一緒ではないとダメなのです」


「君、名前は?」


 フリッツは、なんとなく名前がわかるが、一応は聞いてみるという様子だ。


「ヨハネス・ゼバスティアン・バッハです」


 ()()()のところで、紳士は眉を吊り上げた。


「チェンバロは演奏できるのかね?」


「昔、弾いたことがあります」


 ヒルデガルトの知人のチェンバロを弾いて以来だが、ヨハネスは自信ありげに答える。あの時は、演奏に耳を傾けるヒルデガルトたちがうっとりするのが嬉しくて、夢中で弾いたものだ。


「なら、普段の仕事は荷物運びでも良いか? ただし、二人で月給2タレルだが。もちろん、住み込み食事付きで」


 要するに、ドロテーアに金を払い、ヨハネスをただ働きさせると言うことだ。


 しかし、今まで3ヶ月で2タレル貯金出来たのが、宿あり食事付きで1ヶ月2タレルも貯金出来る計算だ。これは降って湧いたような幸運である。


 ドロテーアは(ため)()ったが、ヨハネスが乗り気なので承諾した。


「では、明日から来てもらおう。明日の朝、ここで待っていたまえ」


 紳士は微笑んで、クルリと背中を向けた。

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