16.決意
隣の部屋から陽気な歌が漏れ聞こえてくる暗闇の中で、ヨハネスは悔しさに拳を握りしめ、歯がみする。
自分の曲があのように口ずさまれることはないだろう。
教会のオルガンで自作の曲を披露することはないだろう。
楽譜屋で自分の曲が販売されることはないだろう。
なぜなら、今の低い身分ではチャンスが巡ってこないから。
そういう後ろ向きの考えが始まると、坂を転がるように気持ちが落ち込んでいく。
自分の音楽で食っていくと意気込んで家を飛び出したことは、『向こう見ずな行動』だったのだ。
本当は、母親の暴力から逃れたいため、衝動的に飛び出したのだ。
現実を目の当たりにして、打ちのめされ、目が覚めたのだ。
ドロテーアが積極的に提案して応援してくれることは、裏返せば、自分が頼りないからだ。
頼りない自分を認めたくないから、彼女の意見を全否定しているのだ。
身分という一生ついて回るものを理由に掲げて――。
「師匠。もうお休みになりましたでしょうか?」
ドロテーアの声に我に返ったヨハネスは、少し頭を上げた。危うく、心が闇に沈むところだったので、少しホッとする。
「いや。マナを補充しながら、ちょっと考え事」
「もし、私の思いつきみたいな提案で悩ませてしまったのでしたら、申し訳ありません」
「大丈夫」
もちろん、嘘だ。彼女を安心させるための出任せである。暗闇で互いの姿は見えないが、きっと彼女は安堵の胸をなで下ろしたことだろう。
「言うは易く行うは難し、ですね」
「そうだね。……ちょっとずるい質問で悪いけど、もしドロテーアが僕だったら、どうする?」
「確かに、ずるいです」
「たとえ話だよ」
「私の意見を聞いてどうなさるおつもりでしょうか?」
「それは……」
「師匠は師匠です。師匠のお考えで行動なさってください。私は、師匠についていくだけです」
ある意味、ずるい回答だ。でも、ヨハネスは突き放されて、かえって弱気が吹っ切れた。
「どうやら僕は、行動を起こす前から『出来ない』と決めつけていたようだ。身分を絶対視していたから。伸し上がってみせるって決意した以上、身分を超えなければいけないのに、きっと臆病風に吹かれて怖くなったのだろうね」
「やったことがないことは、誰でも怖いものです。どうなるのか、先は見えませんから」
「きっとチャンスが来ると信じて、頑張るよ。……うん、頑張る。男に二言はない」
その後、再び魔法で灯りを出現させたヨハネスは、フーガの続きを描いた。何度か修正して完成したのは、翌朝のことだった。




