15.作曲家ヨハネス・ゼバスティアン・バッハ
明け方から宿を出たヨハネスとドロテーアは、朝からやっている市場でパンを買って軽く腹ごしらえした後、徒歩で3時間かけて比較的小さな隣町まで移動した。
狭い広場では、すでに2組の音楽師が客を集めていたので、ここで3組目が入ると客の取り合いになるというより相手の演奏の邪魔になるので、喧嘩にならないよう演奏が終わるのをひたすら待つ。
1組目が終わったので、ヨハネスたちが場所を確保して10曲ほど披露すると、客が予想以上に集まって硬貨を投げてくれたので、二人で3日は宿あり3食ありの生活が出来るほど稼げた。硬貨は1ペニヒ銅貨がメインで、1銀グロシェン銀貨があったかと思えば悪貨の方なので、宿代は割り増しになるが、それでも3泊は出来る。
だが、安心は出来ない。この商売は天候に左右されるのだ。1日で二人の3日分の生活費を稼いだと思っても、嵐が3日も続けば無一文になる。小雨程度なら雨天決行だが、傘を差す習慣がない通行人は道を急ぐので、立ち止まって聴いてくれるのはよほどの音楽好きで、1日一人分の生活費がやっとということもざらにある。
こうなると食事を切り詰めるとか、ドロテーアに楽器を持たせて宿に泊まらせ、ヨハネス自身は野宿して宿代を浮かすということもやった。
ドロテーアの美声とヨハネスの名演奏で、行く先々の町で評判が立ち、いつも人垣が出来た。倹約の効果もあって、1ヶ月後には二人で10日は楽に暮らせるほどの蓄えが出来た。
「ドロテーア。お願いがある」
ヨハネスが体を90度曲げて膝まで手を下ろした最敬礼でドロテーアに頭を下げる。
「師匠。何でしょうか?」
「紙とインクとペンを買いたい。そのためにお金を使っていいだろうか?」
目的は言わなくてもわかっている。ドロテーアは、「私が買ってきます」と言って商店街の方へ向かった。黒ローブ姿でフードをすっぽり被って顔を上半分でも隠せば、道行く人は評判の音楽師とは気づかず魔女に見えるという目算もあるからだ。
広場の噴水のそばで、ヨハネスがそわそわしながら彼女の帰りを待っていると、手ぶらで戻ってくる姿が見えた。
「えっ? まさか、追い払われたとか?」
ドロテーアがニヤニヤしながらローブの裏側から紙の束を出した。
「しめて、良貨で4銀グロシェンしました」
「インクは? ペンは?」
「師匠には申し訳ありませんが、一番安い物にしました。これらは合わせて6銀グロシェンです」
「えええっ!? 3分の1タレルも使ったの!? 本当に、いいの!?」
驚くのも無理もない。住み込み食事付き女中が手にする月収の3分の1だ。
「はい、師匠」
ヨハネスは、瞬く間に視界が滲み、ドロテーアの顔がぼやけていった。
夕方、安宿に戻ったヨハネスは、魔力で青白く光る球体を宙に浮かせ、それを灯りにしてベッドの上でうつ伏せになって一心不乱に作業に取りかかった。まず、どこかから拾ってきた薄い板きれを定規代わりにして、紙に狭い五線を書き込めるだけ記入した。端から見て感心するほど線をまっすぐに引いている。
出来上がったのは、市販されている物より2倍の密度の五線譜だ。その狭い五線に、器用に音符を記入していく。ちょっとでも手元が狂うと、線と線の間に音符があるのか、線の上に音符があるのかわからなくなる。息が止まるような緻密な作業だが、頭から溢れる音楽をそこに延々と書き留めていく。
横には、師匠の作業を見守るドロテーアがいる。
見ている方も固唾を呑むほどの作業だ。声をかけることも憚られ、空腹で腹が鳴ることも許されないような緊張感が辺りに漂う。
ドロテーアは、隣室の客が立てる音にいちいち腹が立った。酒をあおりながら談笑しているのか、宴会みたいな騒ぎが薄い壁を通して聞こえてくる。
だが、ヨハネスはそれが聞こえていないらしい。師匠の周りだけは空間が断絶されていて、別の世界で作曲をしているかのようだ。
「ふううっ……」
突然、ヨハネスが紙を枕の方へどかして、ベッドに顔を沈めた。
「師匠。大丈夫でしょうか? お疲れではないですか?」
「大丈夫。単なる、マナ切れ……」
その言葉と同時に、青白く光る球体が消滅した。
「もうちょっとで、フーガが完成したのに……残念」
ドロテーアは、暗闇の中でヨハネスに声をかける。
「師匠はフーガを書いていらしたのですか?」
「ああ。ドロテーアと最初に会ったとき、ニ短調のトッカータを聴いてもらったよね?」
「はい。あのティリリー、ティララララーラーですね」
「よく覚えていてくれたね。……うちの母さんは、チロリーン、チロロローンって言ってたけど」
そう言って母ニーナから平手打ちを食らったことを思い出す。
「強烈な印象でした。誰も聴いたことがない、衝撃的な音楽です。後に続く不協和音が、地の底から何かが湧き上がってくるようで、最後は天から光が降り注ぐようなDメジャーで解決するのですから」
「その続きを書いて、さらにフーガを加えたのさ。名付けて、『トッカータとフーガ ニ短調』」
「是非聴いてみたいです!」
「今持っている安物のオルガンじゃ、ダメだ。僕の頭の中にある音は表現できない。これを是非、教会の大きなオルガンで弾いてみたい! そのために、紙を買ったら真っ先に書きたかったんだ」
「この曲を売り込みに行きましょう!」
「ダメダメ。楽譜屋に持っていったら、身なりを見られて、塩を撒かれるよ」
「聖歌隊にいたとき、自作の曲を売り込んできた人が何人かいました。そんな感じで、教会に売り込みに行くのです。いかがでしょう?」
「それ、職業の作曲家じゃないかな? たぶん、中流以上の平民だと思う。それに、教会には専属のオルガニストがいて、自分で曲を作っていると聞いたことがあるよ」
「なら、ちょっと弾かせてください、ってお願いするのはいかがでしょう? 名演奏に感動して、オルガニストに採用してもらえるかも知れません」
「門前払いだよ」
「強行突破して、オルガンの前に座って弾いてしまうとか、いかがでしょう?」
「えっ?」
「俺の音楽を聴けええええええええええっ! って」
「オルガンを汚い手で触るな、って放り出されるよ」
「師匠は野望をお持ちでないのでしょうか?」
ヨハネスは、ハッとした。駄目出しばかりして、何も実行することを考えていなかったのだ。だが、現実を考えると、今の身分ではどうにもならない。それがもどかしい。
「あるよ、もちろん。僕は、自分の音楽には自信があるし。でも、まずは生活の基盤を固めないと」
ヨハネスの目から熱い物が流れた。
「いつかきっと、僕の音楽を聴衆が受け入れてくれる日が来ると思う。でも、その日が来るまでの間、霞を食って生きていくわけにはいかないんだ。人間である以上……」




