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マフラーをしても手袋をしても寒いものは寒い。でも、制服の上にコートは着ない。厚着はかっこわるいもん。
早いもので、あと一週間もすると冬休みだ。期末試験も終わり、その結果も出て、気が抜けて勉強する気にもなれない、だらけた空気の中、放課後の校庭では野球部のボールを打つバットの音がカッキィ――ンとひびいている。
わたしのテストの結果は、全教科の平均で99.4点だったが、これにお母さんは満足できず、塾の冬期講習に行くように命令されてしまった。
真々子は相変わらず元気で、ハエのように、ではなく、ミツバチのように学校中をブンブン飛び回っている。
本物のミツバチは冬は巣箱で過ごすのだが、真々子の場合は一年関係なく校内を飛び回っている。
あの子のテストの結果は、わたしから見れば目も当てられないのだが、本人がいうには、進級できればいいし、卒業できればいいのだと割きっている。心配だよ、真々子。学校は、無遅刻無欠席で、提出物や宿題をちゃんとやっていたとしても、テストの結果がすべてなんだよ。さいわい、この高校は追試をやってもらえるから、追試で受かれば留年を免れることができるけど、そうならないように、勉強はちゃんとしようよ。ね、真々子。
そんなわたしの老婆心など知らない真々子は、パッカ――ンと硬球が宙を飛ぶ校庭の隅をチョロチョロ走っていた。
二階の教室のガラス窓に顔を寄せて見ていると、真々子は野球のボールを遮るグリーンのネットが張ってある裏側に行ってしゃがみこみ、なにかこそこそやりはじめた。
「なにやってんだ? 真々子のやつ」
マウンドに立っているのは大谷君だ。背がすっごく高くて頭が小さくて、モデル並みにかっこいい男子だ。しかも肩が柔らくて、強い筋肉としなやかな筋肉のバランスがいいとかで、来年は甲子園にこの三ツ星高校がエントリーできるのではないかと期待されている。
その大谷君が、大きく振りかぶって、きれいなフォームでボールを投げた。
「ええっ?」
わたしはおもわず身を乗り出して窓ガラスに鼻をぶつけた。大谷君が投げたボールは緩やかな弧を描き、真っ直ぐ真々子に向かって飛んでいったからだ。真々子はネットの裏で地面に屈みこみ、何かしきりにやっている。大谷君は、ボールを投げたと同時に真々子に向かって走り出した。
わたしはスクールバッグを掴むと、猛ダッシュして校庭の真々子のところにとんでいった。
こんなに本気出して走ったのは久しぶりだ。自分のゼイゼイいう息遣いがうるさいが、大谷君が、真々子に向かって、「大丈夫だった? ボール、当たらなかった?」と、声をかけているのは聞こえた。
なにが当たらなかっただ。自分が真々子めがけてボールを投げたくせに。見てたんだぞ、わたしは。
「うん。当たってないよ」
立ち上がって、真々子はケロリと答えた。
「よく、そこに来るよね。しゃがみこんで、いつも何してるの」
大谷君はネットをまわって真々子の前に立った。練習を中断された野球部の連中が、ピッチャーの大谷君を待っている。
「ここにネズミの穴があるんだよ。真々子がパンのクズやチーズを持ってくると出てくるの。四匹いて、大きいのはママで、小さいのは子供たちなの。真っ黒で、ふわふわで、すっごくかわいいの」
と、真々子。
ひえええ。ネズミの巣だってええ? 驚いた。こんな都会の公立高校の校庭に、ネズミの巣?
でも大谷君は、長い脚を見せつけるように格好良く伸ばして腰に手を当て、キランと笑みを見せた。
「きみ、D組の伊坂真々子だろ? ぼくのこと、覚えてない?」
「ん?」
真々子は首を傾げた。
「ほら、小学校で一緒だった大谷だよ。覚えてない?」
「あ、あん」
「思い出した?」
「うん。思い出した。あのころは、真々子とおんなじ大きさだったのに。ムカつく」
「あはは。真々子は可愛いままだね」
へええ? 真々子って、呼び捨てにしたよ。馴れ馴れしいなあ。こいつ、ナンパしてるのか?
「真々子のことを、真々子なんて呼ばないで。真々子って呼んでいいのは鉄平とおまけの抱介とトコちゃんだけだから」
よくいった。真々子。
「角田鉄平と付き合ってるって、ほんと?」
「鉄平とは付き合ってないよ。鉄平は真々子の子供だから」
「じゃあ、ぼくと付き合ってもいいんだ?」
「いいけど、よくない」
「どうして?」
「真々子は鉄平の子育てに忙しいから」
「頭が悪いところも可愛いんだよね」
わたしはイライラしてきた。なんて感じが悪いんだろう。早く真々子をこっちに連れてこなきゃ。そう思って歩き出したら、後ろから鉄平と抱介がものすごい勢いで走ってきた。
ふたりは真々子を挟んで立ち止まり、大谷君に対峙した。
「真々子にかまうな」
鉄平がいった。
「へええ、噂は本当だったんだ。ほんとうに角田鉄平が飛んできたよ。おもしれえ」
抱介が前に出てガンをとばした。
「おまえ、ふざけるなよ。純情な鉄平と真々子をからかったら、おれが相手だからな」
「前の高校で暴力沙汰を起こして転校してきたっていうのは、おまえか。滝沢抱介」
野球部員が集まりだして、大谷君の周りを固めた。抱介の肩が盛り上がる。わたしは事の成り行きに驚いてしまって動けなくなった。