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「また来たな。伊沢真々子」
抱介は背が高い。鉄平と同じくらいある。だから、抱介が真々子にかぶさるようにして怒鳴ると、真々子はのけぞって見上げることになる。カップ麺のスープがこぼれそうになったので、わたしが持ってやった。
「抱介。真々子が倒れるから離れてよ」
わたしがいうと、「いやだ」と、真々子を睨んで見下ろしたままでいる。
「なんでよ」
不思議におもって訊いてみた。
「倒れそうになったら、おれに抱きつけばいいんだ」
「なんだそれ」
くだらない。抱介は鉄平じゃないっつうの。なに張り合ってんだ抱介は。真々子はのけぞったまま耐えているが、それもそろそろ限界だなあと、ぷるぷる震えている足を見ながらのんびり眺めていたら、横から誰かの手が伸びて真々子を掬い取った。鉄平だった。
「真々子にかまうな」
抱介を人睨みして手をつないで玄関に続いている飛び石のアプローチを歩いて行く。わたしもカップ麺を二つ持ってあとに続いた。追ってきた抱介が、カップ麺の一つを横取りしようとしたのでヒョイとかわした。
それを見ていた真々子が鉄平の手をほどいて戻って来て抱介に飛び蹴りをしたが、背が低いから飛んで蹴っても抱介のお腹には届かない。せいぜい太ももぐらいだ。
「それは真々子のおやつだからね。取ったら怒るよ」
真々子が怒っても可愛いだけだ。だから頭に来るんだよね。わたしはカップ麺を真々子に持たせた。真々子は割りばしを口で割って麺をすすり始める。やっぱり行儀が悪い。
引き戸の玄関を入ると、ピカピカにワックスで磨かれたフローリングの廊下が左側に一直線に伸びていて、部屋がいくつも並んでいる。玄関の前にも廊下が伸びていて、突き当りはトイレとか風呂場とか洗面所とか、そういうものがまとまっていて、玄関前の右にはリビングキッチンと客間がある。子供の頃はよく遊びに来ていたので懐かしい。でも、子供の頃の記憶と感じが違うな。だから、そのことをいってみた。
「子供の頃は、玄関の廊下のところに、北海道の大きな木彫りのクマがあったよね。あのクマに乗って遊んだよね。あのクマ、どうしたの」
すると、真々子がトンと踵で床を叩いた。
「よく気がついたねトコちゃん。あの、だいじなクマを、コブおばさんが捨てちゃったんだよ。ほかにもいっぱいあるよ。それをトコちゃんに見せたくて誘ったの」
「ふうーん?」
わたしは抱介の顔色をうかがった。抱介は困ったような顔をしていた。
「だってよぉ、お袋、あのクマ、ダサいって言うんだもの。趣味じゃないって」
真々子の顔つきが変わった。
「コブおばさんの趣味なんか、どうでもいいんだよ。あとからこの家に入ったくせに、鉄平のだいじな思い出を、片っ端から捨てちゃってさ、捨てたものは、全部、鉄平のママの思い出の品なんだよ」
ああ、それが言いたかったのか。真々子は鉄平が一番だいじだから、鉄平に代わっていってやりたかったんだ。すると、抱介の表情も変わってきた。
「あとから入ったやつは、過去の人にそんなに気を使って生活しなきゃいけないのかよ。過去よりこれからがだいじだろ。古いものに囲まれて暮らしているから過去を引きずるんだよ。だいいち、鉄平のお袋さんが亡くなって、十二年も経つんだろ。もういいじゃないか。お袋のしたいようにさせたって」
「返せ。コブおばさんが捨てた、鉄平の大切な宝物を、返せ」
真々子が怒鳴った。すると、リビングのドアが開いて、抱介のお母さんが出てきた。抱介のお母さんは、抱介と同じで背がすらりと高くて、茶色の髪は肩まであって、ロングスカートがよく似合うステキな人だった。
抱介のお母さんは、レース編みのストールを肩にかけなおして微笑んだ。
「そんなところに立ったままでいないで、リビングへいらっしゃい。お茶を入れるわ」
洗練された雰囲気のおばさんは、優雅なしぐさでわたしたちをリビングに誘った。抱介がリビングに入っていく。開いたドアから中をちらりと見たら、おじさんがソファで一人将棋をしていた。廊下にいたわたしたちの声は聞こえていただろうから、ちょっと気まずい。
ぐずぐずしていたら、鉄平が真々子の手を掴んで左側の廊下の奥にある自分の部屋に行きだしたので、わたしもついて行った。
鉄平の部屋は、記憶のままだった。壁際にベッドがあって、反対側に机と本棚。あとは雑多なものがごちゃごちゃ散らばっている。
真々子は入るなり、カップ麺を机に置いて、ベッドにジャンプした。
「鉄平の匂い、好き」
枕に顔を押し付ける。きゃあああ、恥ずかしい。あんなこと、できない。男子のベッドに、よく平気で寝っ転がれるよね。ヤバイ。ヤバイよ。
「トコちゃんもおいでよ。鉄平のベッドはお日様の匂いがするんだよ」
いえいえ、できませんって。そんなことできるのは、真々子だけですって。ねえ、鉄平。
振り向くと、机の前の椅子に掛けた鉄平は、肘をついて頭を抱えていた。
そうか。リビングには、親子三人、家族がいるんだよね。新しい家族でも、家族にかわりはないものね。鉄平は、お母さんだけでなく、お父さんも失ったつもりでいるのかもしれない。
真々子が枕から顔を上げた。
「だいじょうぶだよ鉄平。鉄平には真々子がいるからね。真々子は鉄平のママだからね」
鉄平が、頭を抱えたまま、小さく頷いた。わたしは、伸びてしまったカップ麺をすすった。スープが少し冷めて、伸びた麺は悲しい味がした。