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幼稚園の頃はわたしもまだ小さかったので、真々子の頭の悪さには気づかなかった。本格的に頭が悪いのではないかと疑いだしたのは中学の頃だ。
いくらわたしが学年の上位に入っているからって、つまり、すごく勉強ができるからって、真々子が勉強ができないぐらいで彼女のことを頭が悪いなんて、そんなケチなことはいわない。
わたしがいうところの頭が悪いというのは、毎日鉄平のために、昼と部活の二食分のばかでかいおにぎりを作ってきて、それを鉄平の教室までもって来て、世話をやきながら一緒に食べるのだが、それを鉄平が迷惑におもっているということに気がつかなくて、なんでそこまでやるかな、というか、自分が周りからどう見られているかわからないのかなとか、恥ずかしくないのかなとか、マジ真々子、おまえ、頭がずれまくりだろとわめきたくなることだ。
鉄平も鉄平で、なんでおとなしく真々子のいいなりになっているかな。怒った顔して、真っ赤になって、変な汗かいたりして、まわりの視線を意識しまくっているということが丸わかりなのに、なんではっきり拒否しないかな。
わたしは同じ教室の廊下側の、前から三番目の席で、そんな鉄平と真々子の様子を中学のあいだ三年間も見せつけられてきた。でも、わたしと真々子と鉄平は、来春、高校進学という分かれ道に来ており、わたしと鉄平は成績がいいから偏差値の高い高校を狙えるが、真々子はせいぜい頑張っても公立の下から三番目あたりが関の山だった。
放課後、鉄平が部活を終えて教室に戻ってくるのを待って、教室に誰もいないのを確認してから声をかけた。
「ねえ角田。あんた、高校、どうするのよ」
鉄平はちらりとわたしを見てからすぐ目を反らせた。ふくらんだスポーツバッグとスクールバッグを片手で掴んで帰ろうとする。わたしもスクールバッグを持ってあとを追った。
「ねえったら、角田鉄平」
「行くよ。高校」
「そりゃあ行くでしょうよ。きいているのは、公立か私立かよ」
「それなんだよな」
鉄平は、短い頭髪をかき回してため息をついた。
「なんで、ため息なんかつくのよ。なにを考えているのよ」
つい、突っかかるような言い方をしてしまう。
「まあな。おれはいいんだけどな」
思い悩むように目を伏せる。長いまつげだ。あのまつげにも真々子はキスをした。鉄平の体は、だいじなところだけ除いて、全部真々子がさわり済みだ。ほんと、頭にくる。いまでも平然と人目を気にせずに鉄平の体にさわったり撫でたり押したりしている。ふつう、この年頃になったら、恥ずかしくてさわれないって、男子の体なんか。腹が立つけど、うらやましい。
「角田。あんた、もしかして、真々子のことを気にしてる?」
「あいつ、いくら勉強を見てやっても、すぐ根気が切れて寝ちゃうんだよな」
ため息を漏らしながらスポーツバッグをリュックのように背中に背負った。しばし無言で廊下を歩き、階段を降り、昇降口で靴を履き替え、糸杉が両側に並んでいる舗装されたアプローチを歩いて校門を出た。
わたしたち三人の家は、小学校を真ん中にして、正三角形を描いた三点の位置にあり、小学校の外側を歩いて行けばカップ麺ができあがるころにはついてしまう。真々子はそうやって鉄平の家に遊びに行き、食べごろになったカップ麺をすすりながら鉄平の部屋に上がり込むのだ。
「真々子が行けるのは、公立の下から三番目の三つ星高校どまりだよ」
わたしはぶつけるようにいった。鉄平は、黙ったまま地面を向いて歩いていたが、「三つ星高校はガラが悪いんだよな」と、つぶやいた。ヤバイな、とおもった。へたしたら鉄平のやつ、真々子を放っておけなくて三つ星高校へ行きかねないぞ。
「角田。いいかげんにしなよね」
そろそろ我慢が切れかけていた。鉄平がちらりとわたしの顔色を窺った。すぐに目を反らす。そういうしぐさは、小さかった頃を思い出させた。気が弱くて甘ったれで、すぐにピヨピヨ泣いて真々子に抱きしめてもらうのを待っている可愛らしい幼稚園児。くそ、ほんと、鉄平は可愛かったのだ。
「坂巻はやっぱ、公立の七ッ星高校だろ?」
「決まってるじゃない。公立のトップ高よ。東大合格者を十五人も出しているんだから」
「五十年の歴史の中で、だろ」
「十五人は十五人よ。わたしが十六人目になってやる。鉄平は十七人目になりなさい」
「言うだけなら何でも言えるからな」
「わたしは本気よ」
「坂巻らしいや」
「で、真々子のことよ」
「うん。三ツ星高校には入れたくないんだ」
「しょうがないじゃない。そこしか入れないんだから」
「真々子は苛められるかもしれない。女子から」
「なんで女子限定なのよ」
「真々子はミツバチみたいに可愛いからだ。女子から嫉妬される」
「角田。だれも真々子のことなんて、かわいいとおもってないよ。あの子、振り子が振り切れちゃってるもの。まともじゃない。あんたもね」
「真々子は可愛い。おれの胸のあたりまでしかないんだ」
「それがなんだっていうのよ。背が伸びなかっただけでしょ」
「真々子は、おれがいないとダメなんだ」
殴ってやろうかとおもった。どこまでおめでたくできているのだ。呆れて物もいえない。わたしは、荒ぶる胸を撫でさすりながら鉄平に言い聞かせようと足を止めた。
「あ、真々子だ」
鉄平が前方を向いたまま呟いた。真々子が小学校の校門の前にあるコンビニから出てきたところだった。アンパンを食べながらこちらに歩いてくる。小学校の角のところでわたしたちと真々子が向かい合って足を止めた。
「お帰り。鉄平」
ハチドリのような声で真々子が鉄平に声をかけ、今まで食べていたアンパンを当然のように鉄平の口にもっていった。それを鉄平がぱくりと食べた。
「はい。トコちゃんにも」
こんどはわたしの口に持って来る。
「食べかけなんかいらないよ」
「おいしいのに。ねえ、鉄平」
ちょっと悲しそうな顔をして、甘えるように鉄平のほうを向く。そういうところが男ごごろをくすぐるんだよ。
わたしは、アンパンを持っている真々子の手首を掴んで、残りのアンパンを全部食べてやった。真々子の食べかけではなく、鉄平の食べかけだとおもえばいいのだ。
真々子が生き生きと目を輝かせ、うれしそうにジャンパーのポケットから菓子パンを取り出した。チョココルネとクリームパンとレーズンパンだ。
「好きなのを選んでいいよ」
トランプのババ抜きのように三個の菓子パンを広げて見せる。鉄平は迷わずレーズンパンを選んだ。
「トコちゃんの番だよ」
「うう~ん」
チョココルネは、ねっとりしたチョコがたまんないし、クリームパンは甘すぎない甘さが飽きがこないし、うう~ん。
「トコちゃんてさ、いつも考えてばっかだよね。真々子だったら、両方取っちゃうけどな」
うふ、と肩をすくめて笑う真々子が、小悪魔にみえた。