別章アンドロマリウス6ー希望、その名は
荒涼と続く岩原を穴蔵から眺め、私はルシファーの言葉を思い出していた。
言葉の意味を思想する内に、一人の男が私の横に立つ。
アザゼルという名の男は私の事が気に食わんらしい。
向かう私に対するアザゼル。
対峙する二人の元にルシファーが訪れる。
彼は私達に希望を見せるという。
希望とは一体何なのか?
奈落の底には朝は無い。
いつの日も空は暗く光が射し込む事も無い。
狂う時の中、我らは眠りに落ちる。
皆の眠る穴蔵には、奈落を吹き荒らす熱風の音だけが聞こえる。
私は穴蔵の入り口に横たわり、奈落の景色を見ていた。
果ての見えぬ無色の平原、平原に生えるのは岩だけである。
私は岩原を見て、ルシファーの言葉を思い出す。
“私は貴方達を導く”
この言葉に偽りはない。
しかしこの先に導く道があるのだろうか。
……いや、見つけるべきは私か。
奴ばかりにすがる訳にはいかない。
私がそう思想する間に隣に立つ者がいた。
名は確かアザゼルと言ったか。
奴は私から数歩離れた位置で私の様子を伺っている。
「貴様、何の用だ」
「ルシファー様が君に特別目を掛けておられるようだったんでね、どんな奴なのか観察してやろうと思ったのさ」
「そうか、では観察して得られた物を教えて頂こう」
「少なくとも取るに足らないのは解ったよ。程度の低い獣と同じさ」
「ほう、貴様は虚しか見ぬ様だな。所詮は畜生と言った所か」
「言ってくれるね、駄犬くん」
アザゼルは顔を引きつらせながら笑う。
眉は釣り上がり眉間にシワがよる。
平然を装うよう自制しているつもりらしいが、シャクにきているのが見て取れる。
己を制し切れんとは、まだまだ青い。
「君さあ、ムカついてるの顔に出てるよ。案外幼稚なんだね」
「何だと!」
嘘を並べる奴の胸倉を掴み引き寄せる。
すると奴は私の脳天に頭突きをかまして来た。
頭に衝撃が走る。
私は思わず胸ぐらを掴む手を緩めてしまった。
「攻撃食らうまで待ってる敵なんて居ないんだよ、駄犬くん?」
嫌らしくニヤけながら奴は私から離れ距離を取った。
殺るか、ならば私も殺らせて貰おう!
私も体を屈め、筋のバネを縮めさせる。
来るか、出るか。
互いに相手の出方を視る。
奴は下がったまま、私の前に進む様子はない。
ふん、来ないか。
……ならば出てやろう!
アザゼルに向かい跳ぶ。
爪を尖らせ、狙うは首。
狙いに気付いたアザゼルは首を庇おうとするが、遅い。
ガラリと空いた喉首に爪を立てる!
「何をしていらっしゃるのですか?」
ルシファーの声に我に返る。
私は突き立てようとした爪を引っ込め、体をアザゼルから反らす。
無理に軌道を変えた体はバランスを崩し、地面に落ちる。
とっさに受け身を取るが推進力は殺し切れず、体がコロコロと回る。
回る体に壁が迫る。
このままでは正面から壁に当たる。
私は回る速度を速くさせ、背から壁に当たる。
当たった壁は脆く、煙を立てながら崩れて行く。
数センチ壁を薄くして、ようやく私の体が止まった。
壁が柔かったのが幸いして、痛みは無い。
壁から体がズルズルと下がる。
「じゃれ合いっこですか?良いですね、私も誘って下さったら良かったのに」
ルシファーは私の姿を見て口元を隠しつつクスクスと笑う。
「違う、貴様の犬が先にちょっかいを出してきたのだ。貴様、犬のしつけがなってないぞ」
「君がルシファー様を傷つけたのが悪いんだ!」
アザゼルは声を大にして突っかかるが、手は出してこない。
主君が目の前に居るからか。
「私が彼に求めたのです。アザゼル、彼を責めないで下さい」
「ルシファー様はなぜ彼を目に掛けるのですか⁉元は敵ではないですか!」
奴が主君にすがり尋ねる様は、ルシファーに拾われた時の私と同じだ。
「彼も貴方と同じなのですよ。だからこそ、私達は共に歩まねばなりません」
「ルシファー様の思いは僕も理解しているつもりです。しかし人は選ぶべきです!」
「では、刃向かう者は捨て置けとおっしゃるのですね。それでは父と同じです」
ルシファーの言葉にアザゼルは目を見開き、硬直した。
「気付きましたか?」
「……申し訳ありません」
そう言ってアザゼルはその場にひざまずき、こうべを下げる。
ルシファーはアザゼルの側にしゃがみこむ。
「謝る事はありません。顔を上げて下さい」
彼はアザゼルの頬に優しく手を当てて顔を上げさせた。
「そうだ、貴方も一緒に来ますか?」
ルシファーは唐突に質問をアザゼルにする。
奴をどこへ連れて行くつもりか。
「来る、とはどこへですか?」
アザゼルは至極真っ当な質問をルシファーに投げ掛ける。
ルシファーは質問を待っていたように満足気に口を開いた。
「私の部屋にです。アンドロマリウスに見せたいものがあるのです、アザゼル、貴方にもきっと為になる物です。二人とも一緒に来て頂けますか?」
ルシファーは私とアザゼルを交互に見やる。
見せたいもの……私は気掛かりになり質問する。
「貴様の見せたいものとは何だ、ルシファー」
「希望です」
一言だけ答えると、彼はアザゼルの手を掴み立つよう施した。
アザゼルは主君の要求に応え、立ち上がる。
「行きましょうか」
ルシファーに連れられ私とアザゼルは彼部屋へと訪れた。
部屋と言っても穴蔵の中を巡る通路に連なる小さな空間。
調度品も無ければ窓もない、がらんどうの穴があるのみである。
その狭い空間の中で揺らぐ、もやが一つ見える。
もやは人の形を作り、空間の中に縮こまっている。
「お待たせしましたソロモン、彼を連れてきましたよ」
ルシファーがもやに声を掛ける。
するともやは立ち上がりルシファーに駆け寄って来た。
もやはルシファーの着る衣にすがる。
「ほんと⁉どこに居るの?」
「私の後ろに居ますよ」
ルシファーの影になって、もやには私の姿が見えなかったらしい。
ルシファーがすがるそれをそのままに空間の奥へと移動する。
隔たりが無くなって、もやが私を視認する。
「ルシファー、男の人が二人いるけどどっちが先生の神様なの?」
もやが幼い声でルシファーに尋ねる。
これが希望なのか。
「ルシファーこれが貴様の言う希望か」
「その通りです。ソロモン、彼がその神様です」
ルシファーが私を指差す。
するともやはルシファーから離れて、私の元に寄って来た。
「あなたが神様?」
もやが首を傾げる。
しかし私はこれの尋ねることに答えられない。
私を知る民は死んだ。
なれば、これの求める神は誰だ。
私は口を紡ぐ。
「ルシファー様、この者は一体何者なのですか?」
アザゼルがルシファーに聞く。
「彼はソロモン。現在のカナンを治める王ダビデの子で、いずれ王となる者です」
私は言葉を聞き戦慄した。
カナンを治める王……我らが民を殺した賊の子か⁉
血が沸き立つ。
煮え繰り返る憎念が出口もなく我が身体を這いずり回る。
殺す、殺したい。
牙が、爪が憎悪に尖る。
「神様……?」
もやが溢れる憎悪に勘付いた。
ジリジリと憎念に押され後ろへと下がって行く。
「アンドロマリウス」
澄んだ声が叱咤する。
沸き立つ血が呼応して、感情を少しばかり収まる。
「話を聞いてください、アンドロマリウス。彼は貴方達を滅ぼした民の末裔ではありますが、貴方達の敬虔な信徒でもあるのですよ」
「信徒?」
「ソロモン、貴方の先生のことを教えてくださいますか」
私を恐れているのだろう、もやが震えている。
怯えるもやを抱きかかえて、ルシファーはもやが言葉を紡ぎ出すのを促す。
それは小さな声で語り出す。
「僕の先生はね、昔からエルサレムに住んでた人達の末裔なの。カナンの民だって。僕先生からいっぱい神様のことを教えて貰ったんだよ。大昔にはカナンの人達を守ってくれた神様がいっぱい居たって。とっても優しい神様がたくさん居たって。先生はみんなに内緒で僕だけに教えてくれたんだ」
もやの紡ぐ言葉は止まらない。
「先生はね、教えてくれたの。内緒にしてたら神様が僕をずっと守ってくれるって、神様は秘密の神様だから、みんなに秘密にしてないといけないんだよって。僕ずっと守ってたよ、父上にも母上にも内緒にしてたよ。神様、僕ずっと神様に会いたかったの」
口から出る声に嗚咽が混じる。
時折鼻をすする音も聞こえた。
「神様は僕のこと嫌いなの?」
絞り出されたその言葉は嗚咽に霞み消えそうなほど小さい。
私は震えるそれに手を延ばし、触れる。
触れる指が、こぼれる涙に濡れる。
「お前は私を知っているのか」
私の問いに彼はうなづく。
「しってる。貧しい人を守る神様でしょう?一番優しい神様だって先生教えてくれたもん」
その一言を聞いて後悔した。
そして安堵した。
私は自身で民を殺す所だった。
失う所だった。
しかし殺さなかった。
民は今ここにある。
私は膝を付き、頭を垂れた。
「怯えさせて済まなかった。君がカナンを脅かした者の子と聞いて、逆上してしまった。民を殺されたのを思い出して抑えられなかったのだ。しかし君は私を信ずる民、私は民を傷付けない。民よどうか私を許してくれ」
頭を垂れた私にふわりと暖かい物が触れる。
顔を上げるともやの小さな手が私の頭を撫でていた。
「神様僕怒ってないよ。神様ももう怒ってない?」
「ああ、怒っていない。」
「神様、泣いてるの?」
そう言われて、私は自身の頬に触れる。
頬から指を離し、見てみれば指は水滴に濡れていた。
気が付かなかった。
「泣いているらしいな」
「どこか痛いの?」
「いいや痛くない。嬉しいのだ」
「なんで?」
「君という民に会えたからだ」
「僕も神様に会えて嬉しい!」
彼は私に抱きついた。
私もその体を抱きしめる。
芯の無い体を潰さぬよう、静かに、静かに抱きしめる。
「ソロモンと言ったな」
「うん」
「私は永久に君を守ろう」
「うん!」
もやで出来た顔の表情は解らない。
しかしソロモンの喜びは表情など無くともこの身に伝わった。
「彼が僕らを救うのですか、ルシファー様」
「ええ、そうです。彼は王の子、今善政を敷く法を教えれば、いずれ彼は民に信頼される良き王と成るでしょう。そこに救いの糸があります」
「民に信頼される王ならば、改宗を促すのも容易と言う訳ですか」
「改宗はさせません。父に見付かる危険があります」
「ならばどうされるのですか?」
「策は実になった時に明かします」
ソロモンと抱き合う間にも、交される会話が耳に入る。
ルシファーはソロモンを利用して地上へ帰ろうと考えている。
民を守ると誓ったばかりで、私は信徒を裏切らなくてはならないのか。
奈落の底で今すがれる糸は一つだけ。
果ての無い地で再び糸を見つけるには、どれだけの時が必要だろうか。
同胞達は道を無くして耐えられるだろうか。
私は思考する。
民と同胞どちらを取るべきか。
選択すべき答えは明瞭である。
一人の民と無数の友、選ぶなら一つしかない。
しかし私は民を選びたかった。
私は心から民の答を捨てる。
私はソロモンを抱きながら、幼き民を欺く己の浅はかさを呪った。




