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風待ちの猫  作者: 更級
9/12

風待ちの猫/8


 一匹の子猫の話をしよう。

 そいつはかつて、人に飼われアパートに住んでいた。

 富裕層が集まるわけでもない、ごく平均的な住宅地区のただ中にありながら、そのアパートは異彩を放っていた。

 吹けば飛びそうな木造の二階建て。雑草だらけの敷地は湿気の海で、外壁はカビまみれのシミまみれで黒ずんでいるし、階段は手すりもステップも赤錆に食い散らかされ、廊下に設置された雨避けの波板に至っては半分以上が砕けており、脱落しそうになっていた。

 ボロアパートのお手本がそこにあるようだった。

 建っているだけで町の印象を悪くする、と大人たちは疎み、十年前に202号室で殺人事件があったんだって、と子供たちは噂した。

 小猫は、そんなアパートで飼われていた。

 おまけに件の202号室である。別に202号室で過去に何かが起きたわけではない。ただ、新聞屋も郵便屋も202号室の郵便受けだけは使ったことがないとか、ガラの悪い男が出入りしている姿を近隣の住人が見かけたとか、割れた窓ガラスをガムテープで補修した箇所が三つもあるとか、噂の煙は、そんなところから立ったのだろう。

 小猫にしてみれば、どうでもいい話である。

 アパートは築三十年の1DKで、玄関を開ければすぐに台所で、台所の先には六畳の和室があった。小猫はそこで飼われていた。ほこりとヤニにまみれた白熱電球の黄ばんだ光に照らされた、約10平方メートルのちっぽけな空間、それが小猫の世界だった。

 小猫の世界には同居人がいた。

 腰を下ろせば床に垂れて余るほどに長い黒髪をした人間の女で、あまり外に出ない為に肌は青白く生気がない。風変わりなのは見た目だけに留まらず、女は一日の大半を小猫の世話をするか、窓の外をじっと眺めるかだけで過ごす。

 人間の暮らしとしては明らかに異常だが、小猫が人間の正常性など知るはずもない。小猫にとって大事なのはこの女が味方か敵か、益か害か。もっと言えば、好きか嫌いかの問題である。

 もちろん、女は「前者」に分類された。

 女は常に穏やかだった。所作は緩慢ながらよどみなく、声は低いけれど暗くもなく、笑うときは短く静かに笑った。言うなれば低刺激人間である。大きな存在でありながら威圧感は欠片もない。女の前ならば小猫は気を張ることもなく、ごろりと転がってお腹を見せる。

 餌をもらい、水をもらい、女が転がす鞠を追い、時にはお腹を撫でられ、時には互いに通じない言葉で語り合い、時には寄り添って眠った。部屋は小さくて世界は狭いけれど、その分だけ一人と一匹の距離は近く、温かい。

 六畳間は充足で満たされた。

 小猫は、これがいい、と思う。

 これ以上はいらない。そもそも、これ以上があるのかも分からない。けれど、これ以下があるのは知っていた。だから小猫は、このままがいい、と思う。

 バカな話だった。

 都合の良い考えだった。

 ボロアパートと、滅多に姿を見せない女と、近隣の住人が見たというガラの悪い男。キナ臭いことこの上ない。このような状況が、小猫と女だけで完結するはずがないのだから。


 小猫がヒゲをぴくりと震わせた。


 すると、玄関のドアノブが回った。

 愚かな小猫の思考を揺さぶるように、重たく歪んだ音を立てて扉が開く。六畳間を満たしていた充足が扉の隙間からこぼれて逃げて、小猫の体毛はざわつき逆立つ。外界の光に照らされて、逆光の中にもう一人の人間が浮かび上がる。

 小猫にとって、「後者」に分類される人間だった。

 赤く染めた短髪の男。女より一回りも二回りも大きな身体をしている。男がここにやって来るのは週に一度か二度といった程度だが、この状況に二種類のパターンがあることを小猫は既に知っていた。

 すなわち、機嫌が良いときと、悪いときだ。

 その日は最悪だった。

 女は小猫よりも早く状況を察知した。自分の傍から小猫を逃がし、直後に女の身体は突き飛ばされた。振り返った小猫の視界に電撃が走る。男が手を出したか足を出したかは分からなかったが、女は俯き何度も咳き込んでいた。大きな手の平が彼女の髪を掴んで引き上げ、そこに浮かぶ苦悶の表情を見た小猫が何かを思う間もなく平手打ちが飛ぶ。右から一発、返す左側からもう一発。白かった女の肌は赤く腫れ上がり、小猫の全身に暗い力が漲った。あいつの喉を喰いちぎってやる──全身がわななき、一散に奴の急所へと飛び掛ろうと姿勢を低くして、

 凄まじい怒声が、その粉塵のような勇気を吹き飛ばした。

 はっとする。男は女に向けて、小猫の与り知らない事情について激昂し、怒りを罵詈雑言に変えてブチ撒けている。小猫にはその姿が異世界に済む魔物のように見える。

 叫び声は部屋中どころかアパート中に響き渡り、敏感なヒゲが空気の振動を捉える度に小猫の身体は萎んでいく。縮こまっていく。まるで男の声が見えない拳となって小猫を握り潰そうとしているかのように。

 あの腕はなんだ、と小猫は思う。

 あんな太い腕で殴られたら、首の骨が折れてくったりと死んでしまうに違いない。

 あの脚はなんだ、と小猫は思う。

 あんな硬い脚で蹴られたら、腹の中身が潰れて死んでしまうに違いない。

 心を握り潰され、勇気も威勢も残っていない子猫は恐怖に震え、そして人間の身体が叩きつけられる音を聞いた。が、引いたか押したか、蹴ったか殴ったかは分からないああ。なぜなら小猫の背後で起きた出来事だからである。もはや小猫にとって振り返ることと死ぬことは同義で、襖が少しだけ開いているのを見つけるや一目散に駆け込んだ。奥へ奥へひたすら奥へと潜り込んで行く。

 闇。

 男の声が遠い。

 女は呻き声一つ上げない。

 ほこりの匂いがする暗闇の隅で、小猫は震える以外に自分が出来ることを知らない。



 男がまた『最悪』を更新した。

 これで何度目だろうか。何度だろうと恐怖は恐怖のままで、男が姿を消してからも小猫は暫く動けずにいた。

 ようやく流しの下から這い出ると、女と目が合った。女は畳に身体を横たえたまま、小猫の姿を見て安堵し、微笑んだ。口の中を切ったらしく、微笑の端から赤い雫が滴り落ちている。

 小猫はうつむく。今回は流しの下に隠れた。前回はトイレの中。押入れに隠れるのをやめたのは、前々回のことだ。

 あの時、男が放った蹴りは、倒れた女の脇腹を狙っていた。しかし興奮のせいか、バランスを崩したのか、はたまた脅しのつもりだったのか、男の足は狙いを外れて襖を突き破った。その結果、乱雑に押し込められていた座布団やら毛布やらを足で押し込む形になり、それらと壁との間に小猫が隠れ潜んでいることを男は知らず──知っていたところで何が変わるわけでもないが──柔らかいものに圧迫された小猫はもがき、たまらず鳴き声を上げそうになったその時。

「ごめんなさい!!」

 女が叫んだ。

 たかが小猫に何が伝わったというのか。あるいはただ驚いただけなのか、出かかっていた鳴き声を小猫は飲み込み、石のように動かなくなった。

 こんなに大きな声を出したのはいつ以来だろう、と女は思う。

 女自身が記憶を探ってもおぼろげにしか残っていない珍事だったが、それだけの事態が、その時、起ころうとしていた。

 その日は男の様子が違った。女はもちろん気づいていた。いつも以上に支離滅裂な言動、血走った目は忙しなく泳ぎ、何度も身体を掻き毟っていた。男の奇異極まりない様子からは溢れて零れるほどの狂暴性が感じられて、もしも男の前に小猫が姿を見せたならば、──女は想像するのも恐れた。

 振るわれた暴力をすべて受け、謂れのない罵声をすべて聞いた。終いには何者だかが来るだの襲われるだのと妄言を吐き散らしながら逃げていった男に、女は最後まで「ごめんなさい」以外の言葉を発しなかった。

 やがて押入れからひょっこり現れた小猫を見て、女は囁く。

「ごめんね」

 以来、小猫は押入れに隠れるのをやめた。

 何故かと小猫に問えば、隠れてちゃあいつに勝てないからだ、と返ってくることだろう。勇ましく、猛々しいことこの上ない。小猫は滾る闘志に武者震いをする。牙を剥いて爪を研ぐ。

 男と対峙し、女を守るのだ。

 容易いはずだ。

 シミュレーションだってよくする。

 激昂する男の第一手は踏み付けだろう。するりとかわし、股下をくぐって男の死角へ。振り向かれるよりも早く跳びはね、衣服に爪を引っ掛け一気に駆け上がる。目指すは男の首だ。力いっぱい噛み付けばいい。鮮血が噴き出し男は苦痛にのた打ち回るだろう。

 容易いはずだ。

 そのはずだ。

 小猫は、暗闇の中で息を潜めながら、そう思う。

 今だ、飛びかかれ、引っ掻け、噛み付け、殺せ──心は止め処なく獰猛に吼えるのだが、不思議なことに身体は一歩たりとも動かない。心はこんなにも勇敢なのに、と小猫は誰に言うでもなく嘆く。

 やがて外は静かになり、この前はトイレから、今回は流しの下から、暴力の去った六畳間へと這い出る。

 みゃあ、と鳴く。

 女は腫れた箇所を濡らしたタオルで冷やしながら、それでも優しい手つきで小猫の首元をくすぐる。女の指は細く、肌は白く柔らかく、身体のどこを見ても、男のそれとはまったくの別物だった。繊細で柔らかい仕草は暴力とは程遠く、女の手は温もりと安心を与える為にあるのだと小猫は思う。

 この温もりを冷ましてはいけない。怖がっている場合ではない。チャンスが何度もあるとは限らない。小猫は女の身体に残る痣と傷を確認してから、自分の内側に向けて言い放つ。

 次こそ、あいつを噛み殺してやる。

 次こそ──、


 そして、いつもより強く固めた決意は、明確なイメージで以って小猫に牙を剥いた。


 ──次こそ、

 次こそ、自分は殺されるのではないか。

 細腕と称した女のそれは、自分の前足なんかよりもずっと太い。そして男の腕はもっともっと太く、尋常ならざる爆発じみた感情をエネルギーにして振り回される。

 触れれば弾けるに違いない男の頭にはいつでも血が上っていて、しかも近頃はとみに血の温度が増している。ならば弾けて噴き出すのは血液ですらなく、火炎かマグマか。

 小猫は窓に飛び乗り、ガラスに浮かぶ自分の姿を瞳に映す。

 小さく、か細い体躯に、申し訳程度の爪と牙。

 小猫は思う。男の心臓を抉るに足るものが、一つでもあるだろうか、と。



 猫には猫の、人には人の悩みがある。

 青タンが傷むたび、女は小猫のことを考えた。考えて、考えて、女なりに色々な方向から、様々な考えを巡らせてみた。非現実的なものから順に切り捨てていって、リスクが少ないであろうものをいくつか選び、そこから最も短時間で行えるものに決めた。

 あんまりといえばあんまりなその案に、女は少し苦笑する。

 翌日、女は準備を始めた。

 女にしては極めて迅速な作業だった。近所のスーパーから適当なサイズの段ボール箱を貰ってきて組み立て、底に毛布を敷いた。試しに小猫を寝かせてみると、小猫は喉を鳴らして丸くなった。女は満足げに頷く。

 箱の正面に一文を添えるときは、少し手が震えた。

 寂しくないわけがない。悲しくないわけがない。けれど、これが最善だと女は信じた。

 子猫が寝息を立て始めたのを確認し、女は動き出した。なけなしの持ち金でタクシーを呼び、男の行動範囲外に出たのが深夜の二時頃で、そこからは徒歩で進んだ。見たことのない町並み、知らない土地、方角すらよく分からないまま、段ボール箱を抱えて夜が明けるまで歩いた。

 女が立ち止まったのは、ちょうど日の出の時刻。とある坂道の頂上。

 遥か遠くに見える連峰の奥から太陽が昇り、白い光の筋が町に降り注いで朝の訪れを知らせる。雲はまばらで、空色は透き通っていながらも、濃厚な青。

 その景色に何を感じ、何を思ったのかは、女にしか分からない。

「ごめんね」

 女は最後に一言、小猫にそう告げると、ゆっくりと段ボール箱を下ろした。



 目を覚ました子猫が見たものは、四角くて狭い空だった。

 何が起きたのか理解できず、子猫はただただ呆然と空を仰いだ。止まっているのと変わらない速度で雲が流れていき、空の色は群青で、やがて朱色に、間もなく濃紺に、黒、再び青に。少し寒い。知らない顔の人間が覗き込んでくること数回。パンのかけらが放り込まれたのも数回。朱色が現れ、紺色が立ち消え、黒色が鎮座し、空はぐるりと回ってまた青へ。風が凪げば無音に近く、日差しが温かく、夕日は眩しく、月光は冷たく、ふてくされた痩せ猫が塀の上から見下ろして罵倒とも助言ともつかない言葉を置いていく。太陽は昇る。空の色は変わる。三度目の青空。

 そこは、とある坂道の頂上だ。

 小猫がようやく段ボール箱から顔を出した。辺りには誰もいない。飛びかかって倒すべき敵も、爪と牙で守るべき味方もいない。どうしてこんなことになったのだろう、と小猫は自問してみた。答えは一瞬のうちに出たが、小猫はまた一瞬のうちに否定した。

 その性根が、答えだ。

 そして結果がこれだ。笑い話にもならない。こんな弱虫は最初から捨て猫になる運命だったのだ。産まれついての捨て猫だ。親の顔だって知りゃしない。飼い主だった奴の顔でさえ、たったの三日でおぼろげだ。四日目にはどうなっているのだろう?

 言わずもがな、であろう。

 抗うことはしなかった。捨てた。小猫はひたすら捨てた。

 捨て猫として生まれ変わるためだ。臭いものには蓋だ。答えに見て見ぬ振りをして、小猫は元飼い猫ではなく、野良猫ですらなく、捨て猫であろうとした。

 そんな小猫を見て、お節介な一匹の野良猫がこんなことを言う。

「坊や、そんなところで待っていたってね、誰も迎えに来ちゃくれんよ」

 小猫は、その言葉にヒゲをぴくりと動かして答えた。

「別に誰も待っちゃいないさ」



 とある坂道の頂上に、一匹の小猫が段ボール箱に入れられて、捨てられていた。

 そんなに昔の話でもないが、どこへ消えてしまったのだろう。その小猫の姿は、今ではもうすっかり見かけられなくなってしまった。

 いい飼い主が見つかったのだろう、と付近の住人たちは噂したりしている。



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