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風待ちの猫  作者: 更級
8/12

風待ちの猫/7

 

 眠っていたのか起きていたのかも分からない。

 気がつくとツーは両目を開いて身体を起こし、ねぐらの中から人間たちの町を眺めていた。

 広範囲に渡って深い霧が掛かり、町は白に浸かっていた。さらに言えば、昇ってきた朝日の逆光が乳白色の中にビルや鉄塔のシルエットを浮かび上がらせ、それが朝霧ををより色濃く見せている。

 ミルクの海に没したかのような景色は現実感が乏しく、ツーは異世界に来てしまったのかとも思ったが、どうやら違うらしい。ねぐらの傍を一人の人間が通り過ぎていく。

 人間は厚着をして、ポケットに両手を入れて、白く染まった息を吐く。

 横目でそれを見たツーは首を傾げた。自分の呼吸は透明だったし、毛皮に守られるまでもなく寒さなど感じなかったからだ。

 しかし、よくよく辺りを見回してみれば、垣根や塀から顔を出した木々はすっかり葉が落ちており、朝焼けの空には灰色の雪雲が流れている。

 冬だ。

 冬? 馬鹿な、とツーは思う。しかし深く考えることも億劫で、ツーは浮かんだ疑問の解決を時間の流れに委ねることにした。頭を空っぽにし、冬の景色を眺める。冬の町は、刻一刻と変化していく。

 太陽はのろのろと昇っていき、やがて南からやって来た雪雲に隠れ、まれに通り過ぎる人間たちの吐息はより一層白くなった。

 見上げれば空はすべて雲に覆われており、雪が舞い始めている。ツーは舞い降る雪をぼんやりと目で追う。よほど長く眠っていたのか、意識はまだはっきりとしてくれない。この空と同じように、頭の中に重たげな雪雲が被さってしまったかのようだった。

 はっきりとしない頭のまま、ただひたすら冬の町を視界に映す。

 色彩を欠いた世界で、時間はとてもゆっくり過ぎていった。うっそりと蠢く灰色の空、巨大な雪雲、しんしんと積もり続ける結晶、次第に音が消えていく、アスファルトが白く染まっていく。水墨画のような……とまでは行かないが、町はものの数十分でその様相をがらりと変えた。

 それはねぐらのダンボール箱も例外ではなく、ツーの足元はすっかり雪に沈んでいる。けれども寒さは感じず、冷たくもなく、しかしツーはそのことよりも、ねぐらの頭上に違和感を覚えた。

 傘が、なかった。

 あれはいつ頃のことだったか、ツーがここに来てから始めて味わう強雨で、ねぐらもツーもずぶ濡れになってしまった日のことだ。ツーの身体はすっかり冷え、震えも止まらなかった。だがねぐらから出ようとはせず、ふてくされた顔で今日と同じように町を見下ろしていた。

 傘が来たのは、その日のことだ。

 あの人間がやって来て、ツーが雨に降られることはなくなった。

 それから少しして、話し相手もできた。

 雨の日には傘の下で静かに過ごし、晴れの日にはチーと飽きるまで話をした。決して離れまいと思っていたこのねぐらから出てもいいと、そう思える程度には、充実した毎日だった。

 雪が舞う。

 あの人間も、チーも、姿を見せない。

 永遠に降り続けるのかと思わせるような雪だったが、やがてその勢いは衰えていき、しばらくすると日の光が差し込むようになった。雲は風に流されてまばらになり、雪化粧をした銀色の町が太陽の下できらきらと輝いている。二日も晴れが続けば雪はすっかり溶け、町は元の姿に戻っていた。

 ツーは知る由もないが、その数日後に年が明けた。

 年末年始といえば人間たちも浮き足立つし、変化を感じた野良猫たちもまた、日常とは違う行動に出ることがままある。

 それでも、あの人間も、チーも、姿を見せない。

 雪の日はそれから数回ほどあった。雨の日もあったし、もちろん晴れの日もあった。どの日であろうともツーは一人だった。気づけば厚着をした人間を殆ど見なくなった。朝はまだ冷え、霧の立つ日も多いけれど、冬はもう過ぎ去っていた。萌芽の季節が訪れていた。

 葉を落としていた木々に生命力が戻ってくる。人間たちもまた同じで、坂の上からでも活気付いてきた町の様子が伺えた。

 春告鳥が歌い、野良猫は日向で寝転がり、タンポポの綿毛がふわふわと坂道を横切る。花曇りの下で梅や桜が咲き乱れ、かと思えば春雨と共に花弁が落ちて行く。その瞬きのような散り様に、生え変わりもしない自分の体毛をほんの少しだけ気にしながら、ツーは朧月の浮かぶ春の町を見下ろす。

 騒がしくも朗らかな時が立ち現れ、だが息つく間もなく行き過ぎる。

 厚着をした人間がいなくなったかと思えば、長袖を着た人間さえすっかり姿を消し、太陽が昇っている時間は日に日に長くなっていく。そろそろセミが鳴き出すのかとツーは思うが、その前にカエルが鳴き出した。雨、雨、続く雨、アジサイの花が開く。ナメクジが大行進を始める。

 何かが足りない──ツーはそう思って空を仰ぐ。気が滅入るほどの曇天がそこにはあり、止めどなく雨粒が降り注いでいる。しかし何が足りなかったのか、ツーは中々思い出せないでいる。この心許なさの正体とはなんぞや。その答えが傘の有無であることに気づいた頃、梅雨はすっかり明けていた。

 夏が来る。

 瞬く間に来た。

 曇天は跡形もなく消え去り、今がチャンスだとばかりに地中から這い出たセミたちが一斉に鳴き声を上げる。降り注ぐセミの大合唱は、暑さを感じないツーでさえのぼせてしまいそうなほどの熱気である。

 夏は眩しい季節だった。そして子供たちの季節でもあった。大人はどいつもこいつも日陰を求めてさ迷う幽鬼のごとき足取りで往来するが、子供たちはこれしきの太陽光など意にも介さないらしい。

 ある子供はラムネ瓶のビー玉を鳴らしながら角を曲がる。ある子供たちは網とカゴを手にセミの鳴く方へと向かう。ある子供は手ぶらで坂道を駆け下っていく。行く先にある町は陽炎にゆらめき、青空は突き抜けるように高く、どこまでも丸い。聳え立つ入道雲は夏空を渡る舟のようだ。あの雲はどこへ流れて行くのだろうか、とツーは思う。

 行くべき場所があるのだろうか、と。

 空気が変わってきた。

 ツーは敏感にひげで変化を感じ取った。風がいつもより湿っぽい。夕暮れ時の空は紫色に妖しく照らされ、雲がいつもより速く流れている。外を歩く人間の姿はぱったりと失せ、何事かが起こる直前の、不気味な静寂がそこにはあった。

 そして、俄かに猛烈な風雨が襲い掛かってきた。

 横殴りの雨がアスファルトを叩き、塀を打つ。木々は引っこ抜けそうになるほどしなり、電線は狂ったように揺れている。渦巻く暗雲が恐ろしい速度で町の上空を侵略し、雨風の勢いはさらに増していく。

 ツーはその様子を呆然と眺めた。

 ただ眺めるよりほかなかった。かつて経験したどんな雨より強く、どんな風より激しいこの自然現象が、台風という名を持つことさえツーは知らない。遭遇したのが今というのは不幸中の幸いであろう。暴風域の只中でも、なんとか思考する程度の余裕がツーにはあった。

 こうも強い雨では、傘なんて意味をなさないだろう。

 こうも激しい風では、子猫なんて吹き飛ばされてしまうだろう。

 そう思うと少しだけ心が落ち着いた。なぜかは分からないのだけれど、巨大な台風が通り過ぎるまでの僅かな間、ツーは久しぶりに時間の流れをゆっくりと感じることが出来た。台風の通過を惜しいとさえ思えた。

 様々なものを吹き飛ばし、踏み潰し、荒らし尽くして、初秋にやって来た台風は日本海側へと抜けていった。

 台風一過。

 町はうそのように静まる。

 台風の影響で気温は少し上がったが、空気の澄んだ明け方の空に鰯雲が流れているのをツーは見た。新しい季節の訪れを感じる。

 残暑も九月の後半には鳴りを潜め、十月ともなれば最低気温は十五度を下回り始めた。人間たちは半袖をやめ、猫たちも短い毛をやめていく。乾いた空気を抱えた青空は清々しく、作物は実りの時期を迎える。天は高く、馬は肥ゆるのだ。

 今のツーではいまいち実感が湧かないが、秋は過ごしやすい季節である。人間たちはスポーツであったり、芸術であったり、それぞれの趣味に精を出す。ツーは何なのかと言えば、眺望の秋だった。

 昼は町を囲む山々が紅葉に燃える様子を眺め、夜は美しい月を眺めた。台風がやってくれば、轟々と北上する暗雲の不規則なうねりを眺めた。

 しかし、やがて山の彩りは薄れていく。台風も現れなくなり、あるのは夜空に淡く浮かぶ月のみとなった。

 だがそれも、夜だけのこと。

 春が終わり、夏が終わったのだから、秋の風情もまた終わる。

 そして秋が終われば──、



 ツーはねぐらの中から人間たちの町を眺めていた。

 広範囲に渡って深い霧が掛かり、町は白に浸かっていた。さらに言えば、昇ってきた朝日の逆光が乳白色の中にビルや鉄塔のシルエットを浮かび上がらせ、それが朝霧ををより色濃く見せている。

 ミルクの海に没したかのような景色は現実感が乏しく、ツーは異世界に来てしまったのかとも思ったが、どうやら違うらしい。ねぐらの傍を一人の人間が通り過ぎていく。

 人間は厚着をして、ポケットに両手を入れて、白く染まった息を吐く。

 横目でそれを見たツーは首を傾げた。草木の萌える春ではなく、逃げ水の揺らめく夏ではなく、ススキの穂が波打つ秋でもない。辺りを見回してみれば、垣根や塀から顔を出した枯れ木と、ささやかなイルミネーションで飾った民家、上空には灰色の雪雲。

 冬だ。

 冬? もうか、とツーは思う。あっという間に過ぎたこの一年間、ずっと何かを待っていた気がする。自分の中には決定的に足りないものがあって、それを補ってくれる何かを、ずっと待っていた。

 そうして今も独りだ。すっかり心の動きが鈍ってしまったツーは、ぽっかりと穴が開いたままの現状に対して何を感じればいいのかさえ分からなくなっていた。そんな自分が、少しだけ寂しかった。

 雪が降り始めた。

 ほどなくして積もり始めた。

 だがツーの頭上を遮るものは何もない。雪はツーの足元にも積もり、ねぐらの段ボール箱は中程まで雪に埋もれてしまった。

 だからといって、ツーが何かを想うことはない。

 ツーは、トラ猫は、白く染まりゆく人間たちの町を見下ろす。

 トラ猫には、捨て猫には、そうすることしかできない。



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