風待ちの猫/3
野良猫に声を掛けられたことは何度もあったのだが、どいつもこいつもトラ猫を見下したような目つきをして、「無知蒙昧な新参者を導いてやっているのだ」と言わんばかりにふんぞり返り、必ず塀の上から話しかけてきた。その内容は様々だったが、総括すると「人間はろくでもない」といった愚痴が殆どだった。
そいつらに比べればこいつは幾分ましだろう、とトラ猫は考える。
「お前、おれみたいな捨て猫の友達になって、どうする気だ」
「ねえ、お友達になろう?」
たとえ話が通じなくとも、である。
無視を決め込んでやろうとも思ったが、その程度であっさり引き下がるような奴には見えなかった。取られたりしないよう、手まりを背後に転がしてから、トラ猫は言った。
「友達になるにはまず名前を知らなきゃいかんだろう。お前の名前はなんだ」
もちろん友達になる気などない。だがそいつは喜んで答えた。
「チー」
──チー?
「ぼくは飼い猫じゃないから、これは人間がつけた名前じゃないの。んとね、野良の集まりがあってね、そこで呼ばれてるの、チーって」
「ふん、ちっこい身体だしな」とトラ猫は憫笑する。「しゃべり方もガキっぽいし、チビ助の"チー"ってことだろ」
見下すような視線をチーへと向けるトラ猫に対し、チーはさして怒った様子もない。
それも当然のことで、チーは小首をかしげながらトラ猫の憐憫を真正面から受け止め、容赦なく言い切った。
「でも、君も同じくらいだよ」
衝撃の一言であった。
一体チーをどれだけチビ猫に見ていたのか、トラ猫は絶句して凍り付いてしまった。チーの「前足出して」という言葉にも呆然としたまま従い、段ボール箱の縁に右の前足を乗せる。その隣に自分の前足を合わせ、ほらね、とチーは言って、
「同じくらい。ぼくたちはトラ柄同士で、チビ猫同士」
前足を引っ込めて、チーは続ける。
「あのね、ぼくはこれでも、結構前から君のことを知っていたんだよ。えっと……、」
じとり、とトラ猫は顔を上げ、
「名前なら、ないぞ。捨て猫だからな」
その言葉にチーは驚いた。しかし直ぐに「それもそうだよね」と呟き頷き、さらに「だったら任せて」と身を乗り出す。そしてトラ猫の両目をじぃっと覗き込みながら、力いっぱいに宣言した。
「じゃあ、ツー! 君の名前は、ツー!」
「……ツー?」
「だって、君もぼくもトラ柄でチビ猫でしょ。だったら名前も似ていた方がいいじゃない?」
よく分からん理屈である。
思いつきだろうから仕方あるまい。トラ猫は不服だとも思わず、素晴らしい名前だとも思わなかった。もとより捨て猫なのだから、どんな名前がつこうとも自分は自分でしかない。チーとの会話がスムーズに行えるのならば、それこそ「君」のままでも構わないのだ。
「そう、トラ柄チビ猫、ぼくとお揃い。それに、ツーはその箱からちっとも出ようとしないでしょ? 面白い子だなって思って、だからたまにね、ちょっと離れた塀の上から、ツーのこと眺めたりしてた。だからぼくは結構前から、ツーのこと知ってたの」
「別に、眺めたって面白いもんでもないだろ」
「うん。面白くないよ」とチーはあっさり認めた。「でも、面白い子だなって思った。だって、本当に何があってもねぐらの外に行こうとしないんだもの。雨の日も、風の日も、暑い日も同じ。そんな猫、ぼくは見たことがなかったんだ」
だから、こうして会いに来た。チーは、そう言った。
「つまり、おれがねぐらから出ないことはお前も分かっているわけだ。そんな奴と友達になってどうする」
「どうするって、お友達なんだから、一緒に遊んだり、出掛けたり、車の下で寝ころがったりするんだよ」
「おれはここにいるんだ。そんなの無理だろ」
「するようになるの」
「だから、おれは外に出ないんだぞ。どうやって遊ぶんだ」
チーは嘆息する。
これは、ツーが捨て猫で、ずっとねぐらの外に出ず、他の猫とまったくコミュニケーションを取ってこなかったせいだろうか。
頼れる者が一人もいなかったから、己の身を守るためにひねくれた性格になったのかもしれない。ツーに言葉を掛けたとしても、ツーはそれを疑うことから始めてしまうのだ。
小細工は無用で無粋。伝えたいことがあるのなら、真正面から言ってやらなくては駄目なのだろう。
だから、チーは言った。
「チーが、そこから出してあげる」
ツーにとってそれは、もっとも意外な言葉だった。
しかしその言葉を、ツーは冷静に捉えた。そして瞬時に、余計なお世話だ、と呟いた。だがそれは心の声でしかなく、言葉として口から発せられたりはしなかった。ツーは自分自身を訝る。このねぐらを離れることなど有り得ないのだから、チーの提案など即座に拒否すればいい。心ではそう強く思っている、のに。
ツーは難しい顔をしてチーを見詰める。
対するチーは、ついに言ったぞ! と興奮している。自分の用件は伝えた。あとは相手がそれに同意してくれるよう、自分の案がいかに素晴らしいか、ねぐらの外がどれほど興奮に満ちた世界であるかのプレゼンテーションをしなくてはいけない。
ずい、と顔を近づけ、チーは持てる語彙をフルに使って続けた。
「外に出たら絶対楽しいよ。だって、ずっとその箱の中にいたら、」チーはまず坂道の頂上を、それから街の見える方向を見遣って、「あっちと、あっちまでしか見えないでしょ? でも外に出ればもっともっと色んなところが見えるし行ける。危ないこともあるけど……、あっ、でもそれは大丈夫。だって、ぼくはこうして元気いっぱいでしょ? だから平気。それに二人なら楽しいことの方が多いはずだよ。なぜって、二人は一人の二倍だもん。だから、ツーはそこから出るべきだって、ぼくは思うんだ」
どう? とチーは首を傾げる。
分かるような分からないような、実に微妙な話ぶりだった。ツーは憮然とした調子でそれに答えた。
「勝手にしろ」
ふん、とツーは顔を引っ込める。
チーの熱弁も空しい無関心ぶりであるが、チーは快然とした調子で頷いた。
「うん、また明日も来るね」
今日の用件はそれで済んだらしい。チーは道路をさっさと横切り、ポリバケツを足場に塀の上へ飛び上がる。こなれた足取りで塀の上を進んでいき、やがて曲がり角を折れてその姿が見えなくなる。
それをしっかりと見届けてから、ツーは背後に転がしてあった手まりを取り出した。齧りつく。まるで胸の内の靄がその中に封じ込められているかのように、力いっぱい、手まりに齧りつく。
──ふと顔を上げ、
「嵐みたいな奴だ」