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風待ちの猫  作者: 更級
3/12

風待ちの猫/2

 

「やっぱりこいつはバカだ」

 翌日の朝、坂道を登って再びやって来た人間を見て、トラ猫はそうぼやいた。

 しかめっ面のトラ猫とは対照的に、人間はやわらかな微笑を浮かべながら小皿を取り出して、昨日と同じようにキャットフードと水を用意した。その動作はとても二度目のものとは思えず、まるで何年も続けてきた習慣をこなしているかのような、ごく自然なものだった。

 ──他にも、世話をしている猫がいるのかもしれんな。

 ぼりぼりと、キャットフードを食べながらトラ猫は思う。

 この人間は底抜けのバカで、同時に猫好きなのだ。だからこうも世話を焼ける。猫が好きだから、猫が嫌がることはしない。自分が拒否する限り、この人間が自分を飼おうとすることはなく、しかし放っておくことも出来ないから、メシには困らない。

「便利な奴め」

 だが無論、そうでない可能性もある。

 なにしろまだ二度目だ。たった二回の親切で相手を──しかも自分と同じ猫ではなく、人間を──分かった気になるのは危険である。この人間も明日は来ないかもしれない。それどころかケージを持って現れるかもしれないし、今度こそ不味くて汚い水を飲まされるかもしれない。

 油断は出来ない。そう考え、トラ猫は顔を引き締める。引き締めようとする。

 けれどもこの人間の表情はどうにもトラ猫の気概を削いでしまう。悩みごとも心配ごともなさそうな、青空のような笑顔。トラ猫にとっては、あからさまな敵意を向けられることよりも対処に困る。

 いっそのこと、懐からナイフでも取り出してくれた方が楽なのに。

 そうなればこちらも自前のナイフを出せばいい。引っかいて噛み付いて、相手が逃げ出せばこちらの勝ちだ。実に明快だ。

 トラ猫の中でそんな思いが燻っていた、その最中。

 人間が、ふいにナップザックの中に手を突っ込んだ。

 ナイフを取り出す気か!? 身体中にさっと緊張が走り、トラ猫は即座に爪を出した。ナップザックから今まさに引き抜かれようとしている人間の手を注視しながら、まずは武器を叩き落とすべく右の前足を構える。さあ来い、と後ろ足に力を込め、トラ猫は飛びついた。

 人間が取り出した、猫じゃらしに。

「……」

 トラ猫の思考は、実に三秒も止まった。

「……なんじゃこりゃ」

 情けない呟きであった。

 プラスチックの茎に、カラフルな穂。エノコログサを模したおもちゃの猫じゃらしは、鋭い猫パンチを喰らってびよんびよんと右に左に揺れている。当然ながらそれは武器などではなく、あからさまな敵意を形にしたものでもない。となると、やはり対処に困るシロモノであった。

 捨て猫暮らしのトラ猫は、猫じゃらしで遊んだ経験さえない。

 しかし身体が勝手に動いてしまう。猫じゃらしが左に振れれば左に、右に振れれば右に、渦を描けばトラ猫は狭いダンボール箱の中をぐるぐると回ってみせた。

 こんなものに、なぜこうも心が揺さぶられるのか理解できない──トラ猫は、猫じゃらしの穂を両前足で押さえ込んで、がじがじと噛み付きながら思った。その直後、隙あり、とばかりに素早い動きで猫じゃらしが逃げる。トラ猫はすぐさま起き上がり、引きこもりの痩せっぽちとは思えぬ敏捷さでそれを追う。こいつに目の前でうろちょろされると、どうにもじっとしていられない。狭苦しいダンボール箱など蹴り飛ばして、もっと広い場所で、自由に走り回って追いかけたくなってしまう。

 その思考に、違和感。

 ──もっと広い場所で、自由に?

 そして、いかずちのような右フックが再び猫じゃらしを捉えた。

 べしん、と痛恨の一撃を受けた猫じゃらしは、為す術もなく左右にぼよんぼよんと揺れる。だがトラ猫は、しとめた獲物に噛み付こうとしない。

 それは一秒前の、自分の思考のせいだった。

「……なるほど。そういう算段か」

 一歩下がり、人間を睨む。

 対する人間は、急におとなしくなったトラ猫に首をかしげながらも、めげずに猫じゃらしを動かしている。

「そいつでおれをねぐらの外に引っ張り出す気だろう。その手には乗らんぞ」

 トラ猫は身体を丸めてそっぽを向いた。

 おのれ人間め、とトラ猫は思う。メシとおもちゃで警戒心を解きほぐし、自らの足でねぐらの外に出たところを、捕まえる。自分の意思で外に出たのならば文句はあるまい、という筋書きに違いない。トラ猫は、もう惑わされんぞ、と心に誓い、耳元でぱたぱたと動き回る猫じゃらしの誘惑に耐え、ただ耐え、ひたすら耐えた。

 そして、そのまま一分が過ぎようとしたとき、ピピッ、ピピッ、とアラームが鳴り出した。

 それは人間の腕時計から発せられている。

 すると人間は急に慌て出した。腕時計に目を遣って時間を確認したのち、二枚の小皿と猫じゃらしをナップザックの中に突っ込んで立ち上がり、手を振って「また明日ね」と言い残すと、足早に去っていってしまった。

 あっという間の出来事。

 そっぽを向いていたトラ猫は、そっぽを向いたままきょとんとしていた。やっと諦めたか、と呟いてみるが、どうもそんな様子ではなかったように思う。何か用事でもあったのだろうか──トラ猫は尻尾をはたりと動かしながら、いくつかの理由を考えてみようとする。

 しかしすぐに飽きて、こう結論した。

「おれには関係のないことだ」



 人間は、次の日も当然のようにやってきた。

 その次の日も、そのまた次の日も、さらに次の日もやってきた。人間が訪れる時間はいつも決まっていて、やることもまた、いつも決まっていた。まず餌を与え、食べ終わったら猫じゃらしで遊ぶ。ただし猫じゃらしは毎回違うものだった。恐らくは、最初の猫じゃらしに対するトラ猫の反応を見て、飽きっぽい性格だと勘違いし、人間なりに変化を持たせているのだろう。

 まったく、ただの捨て猫を相手にしているとは思えない手の尽くしようである。

 一方のトラ猫はというと、未だに訝っていた。

 やはりこいつは自分を飼う気で、じっくりと時間を掛けて手懐けようとしているのだ。そう思う気持ちと、ここ数日の変化のなさを見るに自分の考えはただの杞憂であり、この人間は正真正銘のお人よしである、という気持ちが白黒はっきりせずに右へ左へと転がっている。

 現状は、後者の方がやや有力だ。

 というのも、人間が帰る時間はいつも時計のアラームが知らせ、人間はそのアラームに必ず従うからである。

 来る時間と同じように、帰る時間も決まっているということは、その時間にはいつも予定が入っているということだ。加えて、あの餌を用意するときの手際のよさ、周到としか言えないナップザックの中身、実に手馴れた猫の扱い方。

 ──やっぱりこいつは、おれ以外にも面倒を見ている猫が何匹もいるのだろう。

 今日も今日とて人間はやってきて、メシと水を小皿に注ぐ。トラ猫がそいつを綺麗さっぱり平らげると、次に人間はナップザックの中から手まりを取り出した。ころん、ねぐらの中に手まりが転がる。トラ猫はやや思案したのち、これなら外を駆け回りたくなることもないだろう、と納得して、前足で手まりをいじくり始める。毎度毎度、そのように納得しなければおもちゃで遊ぶこともできなかった。

「悔しいが、狭いな」

 手まりを弄びながらトラ猫は嘆息する。

 無論、ねぐらのことではない。こういうとき多少なりともねぐらの外に出られるならば、人間の後をこっそりと追ったり、野良猫に訊ねてみたり、と人間の本性を知る術はいくつもあるに違いない。だが捨て猫である以上は情報が制限される。この人間に出会ってトラ猫は初めて、捨て猫の視野の狭さを痛感した。

 とはいえ、今のねぐらを捨てる気など、トラ猫にはなかった。

 捨て猫として生まれ、捨て猫として育ってきたトラ猫は、捨て猫としてしか生きられない。どれほどの誘惑も、トラ猫をねぐらの外へと引きずり出すことは出来ないだろう。たくさんの餌も、ふわふわの寝床も、身体の芯がうずくような数々のおもちゃも通用しない。外へ出ることへの抵抗感はトラ猫しか知り得ない。

 とはいえ、それでは進まない。

 いつまでもこの人間を警戒し続けていては、ストレスではげだらけになってしまう。

 どうしたものか──とトラ猫が手まりに齧りついていると、腕時計のアラームが鳴った。いつもの時間だ。人間はナップザックを背負い直し、トラ猫に『いらなくなるまで使っていいよ』と声を掛けると、トラ猫には知る由もない場所へと走り去っていった。

 トラ猫は横目でそれを見送り、耳をぴくんと動かす。

 その後は、ただ手まりを齧り続けた。考え事を追い出すかのように、両前足で押さえ込んで一心不乱に齧りつく。しばらくの間そうしていたので、トラ猫は手まりしか見ていなかった。そんな状態のところへ、急に声が降ってきた。

「あ、手まりだ。いいなあ」

 いきなりだったので、トラ猫はみっともないくらいに驚いてしまった。

 羞恥半分と怒り半分でたちまち怪訝な表情が出来上がり、威嚇するような勢いで頭上を睨みつける。するとそこにはトラ猫と同じトラ柄の猫がいて、ねぐらの縁に前足を掛けてこちらを覗き込んでいた。

 そいつはやけに人懐っこい表情で、やけに人懐っこい挨拶をしてきた。

「やっほー、はじめまして。ひげの調子はどう?」

 底抜けに明るい奴。こういう相手は苦手だ。トラ猫は返答に窮し、三秒ほど考えたのちに、こう返した。

「なんだ、おまえ」

「ねえねえ、お友達になろう?」

 また、変な奴が来た。



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