風待ちの猫/1
そのトラ猫は、捨て猫として生まれた。
飼い猫にはならず、野良猫にもならず、道端に置かれたねぐらの中で暮らし続けていた。
トラ猫のねぐらは、身体を丸めて眠れる程度には広いダンボール箱だった。箱の底には安っぽい毛布が敷いてあって、ダンボール箱の正面には「オスです。かわいがってください」という定番の文句が書かれていた。
物心がついた頃から独りで、親の顔を見たこともない。
そんなトラ猫を見て、お節介な一匹の野良猫がこんなことを言う。
「坊や、そんなところで待っていたってね、誰も迎えに来ちゃくれんよ」
トラ猫は、その言葉にヒゲをぴくりと動かして答えた。
「別に誰も待っちゃいないさ」
トラ猫は、自分の境遇を嘆かなかった。
最初の記憶が始まったときからこの箱の中での暮らししか知らなかったし、その生活に不満を感じたことなど一度もない。それに、ねぐらに敷かれた安物の毛布、こいつの寝心地は中々悪くなかった。
トラ猫は、住宅街にある坂道の頂上に捨てられていた。
そこはトラ猫お気に入りの場所だ。といっても、もちろんトラ猫はそこ以外の景色を知らない。しかし、坂の頂上にはいい風がよく吹くし、太陽の光は程よく当たるし、なんといっても見晴らしがよかった。
ねぐらの側面から街の方角を眺めてみる。そこには真っ直ぐ伸びる坂道があり、見下すろと人間たちがうごめく昼下がりの街まで続いている。そしてその先には、見渡す限りをすっぽりと覆い尽くした青空が広がっている。
トラ猫は、そんな景色を気に入っていた。
トラ猫は前足をちょこんと外に出して二本足で立つと、視線で坂道を下って勢いをつけ、一気に青空を仰いだ。
すると、心の中に風が吹き込んでくるような爽快感を得ることが出来るのだ。
ねぐらから望む空は高く、雲は低かった。
トラ猫は遠く聞こえる街の喧騒を聞きながら、時折坂道を滑るように下っていく自動車や、ぷかぷかと流れていく雲をぼんやりと眺めて一日を過ごす。やがて太陽が西の空に傾き、夕日が沈んでいくのをじっと見詰めた後、ねぐらの毛布の上で身体を丸めて寝息を立て始める。
それがトラ猫の暮らしだ。
けれど、もちろん毎日がそのように穏やかだった訳ではない。
トラ猫の平穏を妨害する存在として、まず挙げられるのは人間の存在である。
特に子供は天敵だった。大半の子供はトラ猫に興味津々で、乱暴に撫で回すわ、尻尾は掴むわ、耳は引っ張るわのやりたい放題である。が、その邪魔者はやがて数を大きく減らした。無粋な手つきで触られるたびに、トラ猫が自慢の爪や牙で子供たちの手にいくつもの傷を付けてやったからだ。
もう一つの邪魔者は野良猫の存在であった。お節介な野良猫が、塀の上からこんなことを言う。
「坊やの望みは首にはめる輪っかかい? やめときな。人間なんざろくでもない。猫は野良に限るぞ。贅沢は出来んが、自由がある」
トラ猫は、人間たちの街を見下ろしながら答える。
「おれの望みはあんたが黙ってくれることだよ」
耳をぴくりと動かして、野良猫は塀の向こうに姿を消した。
それからしばらくは一人の時間が流れる。
一人の時間というのは即ち安息の時間だった。しかし同時に、空腹の時間でもあった。トラ猫は決してねぐらの外へ出ようとしなかったから、食料といえば人間たちが持ってくるパンやミルクが全てだったのだ。しかし、そんな人間もトラ猫自らが遠ざけてしまった。
だから、トラ猫はかなり腹が減っていた。
あの変な人間は、まるでそのときを狙っていたかのように現れた。
その日は雨が降った。雨が降ると、トラ猫は機嫌がよくなる。
なぜかというと、一人の時間が増えるからだ。
濡れるのが嫌なのは人も猫も同じことで、雨が降れば道行く人影は絶え、野良猫たちも姿を隠す。もちろん、トラ猫だって濡れるは大嫌いだ。けれど、邪魔者がすべて失せた、寂々たる雨音ばかりとなったひと時は好きだった。それに、ねぐらには端から雨除けなどないのだから、気にしたって仕方がない。
とは言っても、流石にこの強雨は身体によくないらしい。雨が降り始めて数十分、ねぐらの底にはすっかり雨水が溜まってしまい、足踏みすればじゃぶじゃぶと音を立てるほどである。溜まった雨水もそうだが、全身をしたたかに打つ雨粒は容赦なくトラ猫の体温を奪っていき、おまけにトラ猫はここ数日、殆ど何も口にしていかなった。腹は鳴り、身体の震えは止まらない。しかしトラ猫は不満を顔に出すこともなく、雨に降られる人間たちの街をじっと見下ろしている。
そんなときだった。
ふと頭上が暗くなって、全身を打っていた雨粒の感触が消えた。
不思議に思い、顔を上げると、そこに人間がいた。そいつは手に持っていた傘をねぐらに立て掛けて雨避けにすると、トラ猫を見下ろしてにっこりと笑った。
トラ猫はというと、露骨に訝った。
当然である。こんな雨の日にふらりと捨て猫の所を訪れ、おまけに傘まで貸すような人間をトラ猫は知らない。
警戒心を体毛の先っちょまでみなぎらせ、低く鳴いて相手を威嚇する。が、そいつはそんなことなど気にも留めない様子で、カバンの中からタオルを一枚取り出すと、手際よくトラ猫の身体を包み込んでさっと抱き上げてしまった。もちろんトラ猫は抵抗を試みようとするのだけれど、寒さと空腹でこれっぽっちの元気もなかったし、ずぶ濡れの身体には乾いたタオルの感触が不本意ながら心地いい。思わず力が抜けてしまう。
そうなってしまえば、後はもみくちゃだ。
人間はトラ猫を膝の上まで運ぶと、柔らかなタオルでトラ猫の全身をぐしぐしと拭きまくった。それは乱暴とも言える豪快な手つきであったが、しかしタオルの気持ちよさの方が先に立ち、どうにも文句を言う気になれない。もこもこした生地は毛に溜まった雨水を吸い取ってくれるし、やがて冷えた身体に多少なりとも熱が戻ってきた。すると正常な思考も一緒に戻ってきて、トラ猫はふと、気持ちいいけれどこの程度では屈さないぞ、と顔を引き締める。
──もしこの人間が自分を拾って飼い猫にするつもりなら、直ちに爪を立ててやる。
熱が戻ればやる気も戻る。
トラ猫はタオルの感触を堪能しつつ、人間の行動に注意を寄せ続ける。変な行動をとったら承知しないからな──そんな気迫を全身にみなぎらせて。
しかし、それから人間が取った行動は、何から何まで「変な行動」であった。
まず、いきなりトラ猫のねぐらをぶっ壊した。
あまりの出来事にトラ猫はただただ呆然とし、その間にも人間はてきぱきと行動をしていく。壊して潰したねぐらを退かし、ビニールバッグの中から新たなダンボールを取り出して素早く組み立て、元の場所へと設置する。箱の正面にはご丁寧にも「オスです。かわいがってください」の文字。さらに毛布を取り出して箱の底に敷き、とどめに傘の角度を調整すれば出来上がりである。
ねぐらは、ものの数十秒で新生した。
そしてトラ猫は、再びすっぽりとその場所に収まった。
傘の下から人間を見上げてみれば、笑顔でトラ猫を見下ろしていた。
「お前、何なんだ」
噛み付くような語調で言い放った。
が、猫の言葉である。もちろん人間に通じるはずがない。人間はトラ猫の言葉をどう受け取ったのか、今度は水の入った水筒と一枚の小皿を取り出した。差す傘もなく、自分はずぶ濡れになっているというのに、この人間は小皿に水を注いでトラ猫に差し出したのだ。
「お、おれを騙しているのか? お いしくない、きったない水だったりしないか?」
と言いつつも空腹には逆らえない。
十秒ほど逡巡したのちに、おそるおそる舌を出して水を舐めてみる。
普通の水だった。
匂いもおかしくない。
けれどもトラ猫は不服そうな顔を崩さない。雨もしのげて、身体も温まり、ねぐらも綺麗になって、おまけに空腹まで満たされ、それで一体全体どこが不満なのかといえば、さっきからずっと嬉しそうにトラ猫を眺めている、このおかしな人間の笑顔だ。
不可解ここに極まれり、である。
トラ猫が知っている人間は二種類しかいない。問答無用で頭を撫でてくる人間と、食い物をやるから頭を撫でさせろ、という人間だ。ゆえにこんな人間は知らないし、どういう反応をすればいいのかも分からない。
注がれた水をぺろりと飲み干すと、トラ猫はぎろりと人間を睨み付けた。一体どういう腹積もりのなか、と。
しかし、やはりというかなんというか、人間はその視線を思いっきり勘違いした。小皿をさっと取り上げて、今度は前より多めに注いでトラ猫に差し出し、そこでトラ猫のさらなる鋭い視線に気づいた人間は思案すること五秒。今度はもう一枚の小皿にキャットフードを注ぎ、たんと召し上がれ、とそれを水の隣に置くのであった。
──もしかして、バカなのか。
トラ猫はいよいよ呆れてそう考えた。この強雨の中で、傘は捨て猫にくれてやって、そのくせ予備の傘も持ってこないで、全身びたびたになりながらも、まるで陽の下にいるかのような表情をしている。それは、トラ猫にはとても理解できない行動だった。
結局、すべてを平らげてしまうまで、人間はずっとそこにいた。
たらふく食べて腹の膨れたトラ猫は、ほんの少しだけ迷ったのちに、そっぽを向いて身体を丸めた。再びあの笑顔と視線が合うのは癪だったので、顔を上げるのはやめにしたのだ。
それを見た人間は、満足したんだな、と解釈した。
トラ猫を刺激しないよう気をつけながら、空いた二枚の小皿を回収し、バッグに詰める。名残惜しそうに立ち上がり、ねぐらを覗き込んで軽く手を振る。
そして最後に、一言だけ残していった。もちろん相手は猫なのだから、その言葉が通じることはないのだけれど。
早足で去っていく人間の後姿を、トラ猫はダンボールの縁から見送った。
「おかしな奴だった」
そう呟き、まぶたを閉じる。雨が当たらなくなったねぐらの、ふかふかな毛布の上で、やがて寝息を立て始める。
猫には、人間の言葉が通じない。
人間が『また明日ね』と言い残していっただなんて、トラ猫は夢にも思わない。