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羊の短編集。

会いたい。

作者: シュレディンガーの羊
掲載日:2011/09/21




黒を淀ませて、掻き混ぜて。

その中に沈み込んだ。

濃密な夜を肌に感じていれば、次第に思考が睡魔にさらわれていく。

そして。

また君の夢を見た。




「こんな時間に何?」


ドアを開けた君は、私の姿を認めると眉をひそめた。

私はそれだけで呼吸が楽になる。


「月が綺麗だったから」

「はぁ?」

「教えてあげようって」


不安なんて知らないふりをして、小首を傾げてみせる。

案の定、君には伝わらなかったみたい。

大きなため息がひとつ。


「それで、こんな深夜に訪ねてきたのか」

「うん」

「馬鹿か」

「かもね」


上目遣いに見遣れば、もうひとつため息。

困ったように髪をかく仕草に、圧迫されていた心がふわりと軽くなる。


「なんなんだよ、本当」

「せっかくだし、散歩しよう」


自然に手をとって促す。

私は笑い出したくなるのを堪えて、さらに腕を引く。


「だって、せっかくの綺麗な月夜」




夢を見た。

目が覚めると広がる天井。

その閉塞感。

夢を引きずる虚無と寂漠。

いてもたってもいられなくなって、気づけば家を飛び出していた。

闇夜を駆けて、足は君のアパートに向かう。

泣きたいほどに月が綺麗で、わけのわからない気持ちに占拠されたままインターフォンを叩いた。

会いたい――――それだけの理由が許される距離を私は多分、愛してる。




「樫野は」


闇に溶けそうな声音が耳朶に触れる。

キィとブランコを漕ぐのを止めて、私は続きを聞こうと口をつぐんだ。


「なんで俺に会いに来るの」


聞き手のいない独り言のように言葉は夜に溶けていく。

夜の公園はなんて静か。

みんな死んでしまったみたい。

私は口笛を吹く。


「聴いてる?」

「聞いてる」


二人きりなら、私たちはアダムとイヴになれるのに。

君に私しかいなくて、私に君しかいないなら、私たちは愛し合えるだろうに。

そんな世界があればいいのに。

あったらいいのに。


「会いたくなったから」

「それは感情論。俺は理由を聞いてんの」

「たぶん」


言ってもわからないよ、と言いかけて続きを飲み込む。

月が綺麗な夜は言ってしまったことが、ひとつひとつ照らされてしまいそう。

そうしたら、君には決してわかってもらえないと世界に認めらるようで怖い。

それは多分とても恐ろしい。


「たぶん?」


途切れた言の葉を君が拾い、私を促す。

私は違う言の葉を取り出し、適当に投げつける。

ひらり、ひらりと伝わらない速度で言の葉は世界を震わせた。


「君の家が近いから」

「はぁ?」

「訪ねていくのにちょうどいいの」


キィとブランコを軋ませる。

心がつられて軋むように痛んだけど、気にしない。

嘘はついていないもの。

これだって本当のことだもの。


「樫野はずるい」


君が隣のブランコに腰掛けて言う。


「ずるい?そんなの初めて言われた」


「ずるい、ずるい、ずるいずるいずるい」

「あははっ」


なんだかくすぐったい気持ちになって、声を上げて笑う。

対する君は不機嫌そうに、声のトーンを落とした。


「樫野は誰にでもそうなんだ」

「そうって?」

「逃げてくみたいに軽やかだ」

「妖精さんみたい?」


足を曲げて伸ばして曲げて伸ばして。

高く高く漕いでいく。

ブランコがまた軋んだ。


「羽根をもいでしまいたいくらいには」


君はブランコを漕がない。

椅子のように座るだけ。

君のブランコは軋まない。


「羽根はもがないでほしいな。痛そう」

「痛いものか。樫野は無痛症だろう」


私は答えない。

手に食い込んだ鎖が痛いのかもわからないから。

片手を離して、月に伸ばす。


「月は痛そう。穴ぼこばかり」

「綺麗なところしか、見えないけどな」

「なんだか、素敵な月夜に相応しい会話」


揺れるブランコ。

痛いっていうのはわからないけど、それは軋んだ音のようなものだと私だって知っているよ。

君にはどうしたって理解出来ない檻の中。

まるで、シュレディンガーの猫が死んでいるような世界で。

前に後ろに世界は揺れて、進み戻りまた進む。


「夢を、見たんだ」


不意な一言。

私はブランコを漕ぐのをやめた。

そして、君を見つめた。

君は私を見ない。

鼓動が耳の奥で騒ぎ立てる。

私も――口を開く。


「私も夢を見たの」


だから、会いに来たの。

糸を手繰るように君は続ける。


「世界から区切りがなくなる夢だった。みんな一緒くたになって、ぐるぐる丸くなる。それを俺は口に入れた。でも、飲み込めなくて苦しくて、かみ砕いて飲み下した。そうしたら、心臓が言うんだ」


君の瞳が私を写し込んだ。

声が出ない。

瞬きも出来ない。

私はひそやかな問いを瞳で訴える。

なんて?なんて言ったの?

君は笑った。


「覚えてないさ。そのすぐ後にチャイムが鳴ったんだ」


私は笑えなかった。

私は覚えている。

夢の捨て台詞。

私を空にする文字の群集のその意味。

君はキィとブランコを動かす。


「正直、覚えてなくてよかった」

「そんなひどいこと、言われたの?」

「多分な」

「そう」

「だから、ありがとな」


ブランコは軋まない。

心が軋むだけ。

私は痛みを知らない。

知ったら、多分おそらくきっと死んでしまう。

羽根をもがれた妖精みたいに簡単に。


「帰ろ」


立ち上がる。

君は少しだけ驚いて、苦笑した。


「だな」

月が陰る。雲が星を隠して流れる。

雨が降ればいい。私は空に息を吐いた。




「送る」

「いい」

「送るって」


繰り返された問答に嫌気がさす。

唇を噛む。

力加減がわからず、血の味がした。

君に会えば、いろんなことが透き通る気がした。

だから、会いに来たのに。

軽くなった心は軋むばかりで、楽になった呼吸は心臓をはやらせるだけ。

こんなこと今までなかったのに。

私は羽根をもがれたのか。


「羽根をもいでどうするの?」

「……さっきの話し?」

「標本にでもするの」


苛立つような刺を放つ。

狙いは君の心臓。

君の心が軋んだら、一体どんな音がするのだろう。

私はいま、それが知りたい。


「人間にするんだ。飛んで行かないように」

「私は人間だよ」

「だろうな」


無感動な返事。

月は隠れて、暗闇が手を引くばかり。

いつもと違う私が顔を出す。

終わりにしてしまおうと、唐突に思った。


「私は多分、君が好きだよ」

「だろうな」

「でも、それは会いたくなる時に、会えてしまうから」

「だろうな」

「否定してくれないんだ」


笑う。

淋しくって笑う。

とうとう言ってしまった。

決して、言うつもりはなかったのに。


「だから、もう会いには来ない」

これは私の我が儘だったから。

私はイヴじゃないし、君もアダムじゃないから、私たちは愛し合えない。


「おやすみ」


さよなら代わりに言ってみる。

真夜中の散歩は今日でおしまい。


「俺の気持ちは聞いてくれないわけ?」


君が問う。


「樫野が夜中に会いに来て、俺がどんな気持ちだったか」

「聞いたってどうなるの?」


泣きそうになる。

なるだけだけれど。

いま、世界が終わるなら私は君の手を迷わずに掴める。

それはわかる。

でも、世界は終わらない。


「言わないで」

「俺は」

「私は聞きたくない」


耳を塞ぐ。

肩が震える。

喉の奥がひどく熱い。

それでも、自分の身勝手さに笑えてくる。

もう終わりにするしかないんだと、改めて思う。

いつも投げるだけの私の言葉を拾うのは君だ。

私が君を傷つけて悩ませる。

月が羨ましい。

裏には沢山の傷があるのに、あんなに綺麗なんてずるい。

それとも傷があるから、美しいのか。

痛みが美しくさせるのか。

なら、私には無理だ。

痛みを知らない私には無理だ。

私は綺麗じゃない。

君が私を呼ぶ。


「樫野」


私は何も言わずに踵を返す。

家の方角に足を進めようとする。

瞬間、全身を照らした眩しい光に目をつむった。

見知らぬ厳しい声が瞼の裏の暗闇で響く。


「君たちこんな時間に何してるんだ」


微かに目を開ければ、自転車のライトと佇む警察官の姿。

あぁ、世界は二人きりではなかったんだった。

場違いにそんなことを思う。


「おい。君、聞いているのか」


立ちすくむ私に警察官が訝しげに近づいてくる。

途端に後ろから腕を引かれた。


「樫野っ」


私の手を握って君が走り出す。

後ろで警察官が何かを言っている。

けれど、振り返れなかった。

夜の町を二人で逃げていく。

めちゃくちゃに駆けていく。

景色と光が後を引くように次々と流れて、視界から消える。

君が走る速度はとても速くて、すぐに息が苦しくなった。

強く掴まれた手が微かに軋む。

それでも、もつれそうな足で必死に君についていく。

そして、いつに間にか私は笑い出す。

いろんな思いを道端に落しながら、可笑しくて苦しくて笑ってしまう。

どこかで虫が鳴いている。

夜の風は澄んだ水のように心地好い。

気づけば君も笑っていた。

それに気づいた瞬間、急に涙が溢れた。

力の抜けた私の手をそれでも君は離さない。

私は泣きながら、力強い君の手に引かれてただ走る。

いま世界の終わったら、私は君と手を繋いだまま死んでしまえるのに。

そう思ってまた泣いた。




疲れた足がだんだんと速度を落とした。

数え切れない角を曲がった後、やっと立ち止まる。

なんのために走っていたかも途中でわからなくなった。

涙を静かに拭う。

熱が引くように昂揚の波紋が静まっていく。

それでも、心には心地好い熱が残った。

手を離して君が静かに振り返る。

振り返った君がまるで、海月を食べたみたいな変な顔をしていて、笑ってしまう。

なんだか今までの笑い方が嘘みたいに、幸せな気持ちで笑えた。


「どうしたの。変な顔してる」

「思わず、逃げてわりぃ」


ぼそっと言われたその一言にまた笑ってしまう。

君はそんな私を見て、少し驚いてから、優しく目を細めた。


「送る」

「うん」


今度はうなづく。

私はもう羽をもがれたのだから、妖精じゃない。

だから、逃げない。

頭上を見上げる。

月が柔らかい光を与えてくれる。

月が美しい夜は口にしたことが本当になりそう。

だから、私は言う。


「君はきっと私を好きになるよ」


不敵に笑う。

宣戦布告をするように。

君が何かを言う前に私は歩き出す。

月が綺麗だと、君に教えたくて来たんじゃない。

夢を見たから会いにきた。

心が澄んで晴れていく。

曇りない顔で月に笑える。

心が優しくなれる気がした。

だから、私は君に会いにきてよかった。




会いたい――それだけの理由が許される距離を私は多分、愛してる。

だから、君のことを愛してる。




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