会いたい。
黒を淀ませて、掻き混ぜて。
その中に沈み込んだ。
濃密な夜を肌に感じていれば、次第に思考が睡魔にさらわれていく。
そして。
また君の夢を見た。
「こんな時間に何?」
ドアを開けた君は、私の姿を認めると眉をひそめた。
私はそれだけで呼吸が楽になる。
「月が綺麗だったから」
「はぁ?」
「教えてあげようって」
不安なんて知らないふりをして、小首を傾げてみせる。
案の定、君には伝わらなかったみたい。
大きなため息がひとつ。
「それで、こんな深夜に訪ねてきたのか」
「うん」
「馬鹿か」
「かもね」
上目遣いに見遣れば、もうひとつため息。
困ったように髪をかく仕草に、圧迫されていた心がふわりと軽くなる。
「なんなんだよ、本当」
「せっかくだし、散歩しよう」
自然に手をとって促す。
私は笑い出したくなるのを堪えて、さらに腕を引く。
「だって、せっかくの綺麗な月夜」
夢を見た。
目が覚めると広がる天井。
その閉塞感。
夢を引きずる虚無と寂漠。
いてもたってもいられなくなって、気づけば家を飛び出していた。
闇夜を駆けて、足は君のアパートに向かう。
泣きたいほどに月が綺麗で、わけのわからない気持ちに占拠されたままインターフォンを叩いた。
会いたい――――それだけの理由が許される距離を私は多分、愛してる。
「樫野は」
闇に溶けそうな声音が耳朶に触れる。
キィとブランコを漕ぐのを止めて、私は続きを聞こうと口をつぐんだ。
「なんで俺に会いに来るの」
聞き手のいない独り言のように言葉は夜に溶けていく。
夜の公園はなんて静か。
みんな死んでしまったみたい。
私は口笛を吹く。
「聴いてる?」
「聞いてる」
二人きりなら、私たちはアダムとイヴになれるのに。
君に私しかいなくて、私に君しかいないなら、私たちは愛し合えるだろうに。
そんな世界があればいいのに。
あったらいいのに。
「会いたくなったから」
「それは感情論。俺は理由を聞いてんの」
「たぶん」
言ってもわからないよ、と言いかけて続きを飲み込む。
月が綺麗な夜は言ってしまったことが、ひとつひとつ照らされてしまいそう。
そうしたら、君には決してわかってもらえないと世界に認めらるようで怖い。
それは多分とても恐ろしい。
「たぶん?」
途切れた言の葉を君が拾い、私を促す。
私は違う言の葉を取り出し、適当に投げつける。
ひらり、ひらりと伝わらない速度で言の葉は世界を震わせた。
「君の家が近いから」
「はぁ?」
「訪ねていくのにちょうどいいの」
キィとブランコを軋ませる。
心がつられて軋むように痛んだけど、気にしない。
嘘はついていないもの。
これだって本当のことだもの。
「樫野はずるい」
君が隣のブランコに腰掛けて言う。
「ずるい?そんなの初めて言われた」
「ずるい、ずるい、ずるいずるいずるい」
「あははっ」
なんだかくすぐったい気持ちになって、声を上げて笑う。
対する君は不機嫌そうに、声のトーンを落とした。
「樫野は誰にでもそうなんだ」
「そうって?」
「逃げてくみたいに軽やかだ」
「妖精さんみたい?」
足を曲げて伸ばして曲げて伸ばして。
高く高く漕いでいく。
ブランコがまた軋んだ。
「羽根をもいでしまいたいくらいには」
君はブランコを漕がない。
椅子のように座るだけ。
君のブランコは軋まない。
「羽根はもがないでほしいな。痛そう」
「痛いものか。樫野は無痛症だろう」
私は答えない。
手に食い込んだ鎖が痛いのかもわからないから。
片手を離して、月に伸ばす。
「月は痛そう。穴ぼこばかり」
「綺麗なところしか、見えないけどな」
「なんだか、素敵な月夜に相応しい会話」
揺れるブランコ。
痛いっていうのはわからないけど、それは軋んだ音のようなものだと私だって知っているよ。
君にはどうしたって理解出来ない檻の中。
まるで、シュレディンガーの猫が死んでいるような世界で。
前に後ろに世界は揺れて、進み戻りまた進む。
「夢を、見たんだ」
不意な一言。
私はブランコを漕ぐのをやめた。
そして、君を見つめた。
君は私を見ない。
鼓動が耳の奥で騒ぎ立てる。
私も――口を開く。
「私も夢を見たの」
だから、会いに来たの。
糸を手繰るように君は続ける。
「世界から区切りがなくなる夢だった。みんな一緒くたになって、ぐるぐる丸くなる。それを俺は口に入れた。でも、飲み込めなくて苦しくて、かみ砕いて飲み下した。そうしたら、心臓が言うんだ」
君の瞳が私を写し込んだ。
声が出ない。
瞬きも出来ない。
私はひそやかな問いを瞳で訴える。
なんて?なんて言ったの?
君は笑った。
「覚えてないさ。そのすぐ後にチャイムが鳴ったんだ」
私は笑えなかった。
私は覚えている。
夢の捨て台詞。
私を空にする文字の群集のその意味。
君はキィとブランコを動かす。
「正直、覚えてなくてよかった」
「そんなひどいこと、言われたの?」
「多分な」
「そう」
「だから、ありがとな」
ブランコは軋まない。
心が軋むだけ。
私は痛みを知らない。
知ったら、多分おそらくきっと死んでしまう。
羽根をもがれた妖精みたいに簡単に。
「帰ろ」
立ち上がる。
君は少しだけ驚いて、苦笑した。
「だな」
月が陰る。雲が星を隠して流れる。
雨が降ればいい。私は空に息を吐いた。
「送る」
「いい」
「送るって」
繰り返された問答に嫌気がさす。
唇を噛む。
力加減がわからず、血の味がした。
君に会えば、いろんなことが透き通る気がした。
だから、会いに来たのに。
軽くなった心は軋むばかりで、楽になった呼吸は心臓をはやらせるだけ。
こんなこと今までなかったのに。
私は羽根をもがれたのか。
「羽根をもいでどうするの?」
「……さっきの話し?」
「標本にでもするの」
苛立つような刺を放つ。
狙いは君の心臓。
君の心が軋んだら、一体どんな音がするのだろう。
私はいま、それが知りたい。
「人間にするんだ。飛んで行かないように」
「私は人間だよ」
「だろうな」
無感動な返事。
月は隠れて、暗闇が手を引くばかり。
いつもと違う私が顔を出す。
終わりにしてしまおうと、唐突に思った。
「私は多分、君が好きだよ」
「だろうな」
「でも、それは会いたくなる時に、会えてしまうから」
「だろうな」
「否定してくれないんだ」
笑う。
淋しくって笑う。
とうとう言ってしまった。
決して、言うつもりはなかったのに。
「だから、もう会いには来ない」
これは私の我が儘だったから。
私はイヴじゃないし、君もアダムじゃないから、私たちは愛し合えない。
「おやすみ」
さよなら代わりに言ってみる。
真夜中の散歩は今日でおしまい。
「俺の気持ちは聞いてくれないわけ?」
君が問う。
「樫野が夜中に会いに来て、俺がどんな気持ちだったか」
「聞いたってどうなるの?」
泣きそうになる。
なるだけだけれど。
いま、世界が終わるなら私は君の手を迷わずに掴める。
それはわかる。
でも、世界は終わらない。
「言わないで」
「俺は」
「私は聞きたくない」
耳を塞ぐ。
肩が震える。
喉の奥がひどく熱い。
それでも、自分の身勝手さに笑えてくる。
もう終わりにするしかないんだと、改めて思う。
いつも投げるだけの私の言葉を拾うのは君だ。
私が君を傷つけて悩ませる。
月が羨ましい。
裏には沢山の傷があるのに、あんなに綺麗なんてずるい。
それとも傷があるから、美しいのか。
痛みが美しくさせるのか。
なら、私には無理だ。
痛みを知らない私には無理だ。
私は綺麗じゃない。
君が私を呼ぶ。
「樫野」
私は何も言わずに踵を返す。
家の方角に足を進めようとする。
瞬間、全身を照らした眩しい光に目をつむった。
見知らぬ厳しい声が瞼の裏の暗闇で響く。
「君たちこんな時間に何してるんだ」
微かに目を開ければ、自転車のライトと佇む警察官の姿。
あぁ、世界は二人きりではなかったんだった。
場違いにそんなことを思う。
「おい。君、聞いているのか」
立ちすくむ私に警察官が訝しげに近づいてくる。
途端に後ろから腕を引かれた。
「樫野っ」
私の手を握って君が走り出す。
後ろで警察官が何かを言っている。
けれど、振り返れなかった。
夜の町を二人で逃げていく。
めちゃくちゃに駆けていく。
景色と光が後を引くように次々と流れて、視界から消える。
君が走る速度はとても速くて、すぐに息が苦しくなった。
強く掴まれた手が微かに軋む。
それでも、もつれそうな足で必死に君についていく。
そして、いつに間にか私は笑い出す。
いろんな思いを道端に落しながら、可笑しくて苦しくて笑ってしまう。
どこかで虫が鳴いている。
夜の風は澄んだ水のように心地好い。
気づけば君も笑っていた。
それに気づいた瞬間、急に涙が溢れた。
力の抜けた私の手をそれでも君は離さない。
私は泣きながら、力強い君の手に引かれてただ走る。
いま世界の終わったら、私は君と手を繋いだまま死んでしまえるのに。
そう思ってまた泣いた。
疲れた足がだんだんと速度を落とした。
数え切れない角を曲がった後、やっと立ち止まる。
なんのために走っていたかも途中でわからなくなった。
涙を静かに拭う。
熱が引くように昂揚の波紋が静まっていく。
それでも、心には心地好い熱が残った。
手を離して君が静かに振り返る。
振り返った君がまるで、海月を食べたみたいな変な顔をしていて、笑ってしまう。
なんだか今までの笑い方が嘘みたいに、幸せな気持ちで笑えた。
「どうしたの。変な顔してる」
「思わず、逃げてわりぃ」
ぼそっと言われたその一言にまた笑ってしまう。
君はそんな私を見て、少し驚いてから、優しく目を細めた。
「送る」
「うん」
今度はうなづく。
私はもう羽をもがれたのだから、妖精じゃない。
だから、逃げない。
頭上を見上げる。
月が柔らかい光を与えてくれる。
月が美しい夜は口にしたことが本当になりそう。
だから、私は言う。
「君はきっと私を好きになるよ」
不敵に笑う。
宣戦布告をするように。
君が何かを言う前に私は歩き出す。
月が綺麗だと、君に教えたくて来たんじゃない。
夢を見たから会いにきた。
心が澄んで晴れていく。
曇りない顔で月に笑える。
心が優しくなれる気がした。
だから、私は君に会いにきてよかった。
会いたい――それだけの理由が許される距離を私は多分、愛してる。
だから、君のことを愛してる。