2.初任務
~ ユーテシア王国 レナディオ河 ~
ティアナ王女と初めて会ったのは、こちらの時間で2年前。優がこの世界に来てから約1年が経った頃だった。
伝説の通りにこの世界に召喚された優であったが、初めのうちは何もできない只の人だった。精霊魔法も使えなければ兵士としての経験もない、ましてこの世界のことを何も判らない者を、突然伝説の戦士として採り立ててやることなどできようはずもなかった。
そこで優のことは一部の者だけの秘密にして、とりあえず一兵卒としてサベンジ将軍の監視の下、王国騎士団に入隊させることになったのである。元の世界に帰る方法も判らない優にそれを拒否する術はなかった。拠り所のない優であったが、幸いレミューリアにも、その母のトエトにも暖かく迎えられたことが唯一の救いだった。
こうと決めたらいつまでも悩まない性格の優は、それから必死にこちらの世界のことを学び、毎日ヘトヘトになるまで訓練を受けていた。幼い頃から剣術で身体は鍛えていたが、兵士としての訓練は全く異なっている。徒歩による戦隊訓練から市街戦や森林戦、篭城戦、また騎馬による突撃戦、伏兵のための訓練など、全ては実戦を想定したもので、しかも生死に直結することなので苛烈を極めた。
負けず嫌いも手伝って優は目を見張るほどの上達ぶりを見せた。しかも御子神家に代々伝わる独特な剣術は実戦を想定したものであったので、入隊当初から剣に関しては他を寄せ付けなかった。半年を過ぎた頃には新兵の中でも一目置かれる存在になり、努力の末、1年経つ頃には騎士見習いとして採り立てられたのである。
そうして騎士見習いとしての初めての任務が、ティアナ王女の護衛だった。
ユーテシア王国の南方のユグド共和国において、ユーテシア王家と親交の深いラ・クルト公国が総督の任に就いた知らせを受けて、国王の名代としてティアナ王女が祝辞を伝えに赴くことになったのである。
今回の派遣団は、護衛騎士が10人と王女付きの侍女が5人、役人が2人の小規模なものである。これはレナディオ河を南下すればユグド共和国へ直接入ることができるので危険が少ないためであった。
出発前に恒例の顔見せが行われた。ユーテシアではこういった小規模の派遣の際には必ず王族、貴族が、同行する兵士たちに労いの言葉を掛けることが習慣になっていた。この習慣のお陰で上流階級の者と兵士との関係が良好に保たれている。
隊長格の騎士が王女に付いて一人一人紹介していく。優には初めてのことであり緊張でコチコチに固まっていた。今回騎士見習いとして参加しているのは優だけであった。通常、騎士見習いはこのような派遣団に編入されることはないが、おそらくは異邦人の優に国外を見せてやろうという、サベンジ将軍かあるいは国王陛下のご厚意が働いたものと思われる。
自分の番が来るまでの間、優は頭の中で必死に宮廷作法を思い出していた。色々な作法を学んではいたが実践する機会はこれまでなかったので、いざとなると焦ってしまう。そうこうしているうちに王女が目の前に来てしまった。そして王女を間近で見た優は呆然とした。
「こちらが、騎士見習いのユウ・ミコガミです。今回が初任務になります」
隊長が優を王女に紹介するのも上の空で、優は目の前の王女に見惚れてしまった。このように美しい少女を未だ嘗て見た事がない。可愛らしげな純白のドレスに白皙の肌とサラサラな銀髪が日の光に輝いている。まだ幼いながらもその気品のある顔立ちに見惚れてしまい、必死に思い出していた作法も一瞬で吹き飛んでしまった。レミューリアも初めて会ったときはその美しさに言葉を失ったが、王女はレミューリアとはまた違った美しさであった。レミューリアを明るい蘭の花に喩えるとすれば、王女は白百合のような美しさだった。
「どうか、なさいましたか?」
王女が軽く首を傾げて訊ねてきたが、優はまだ呆けていた。
「ユウ。…おい! ユウ・ミコガミ!!」
隊長に怒鳴られて、優はハッと我に返ると、あたふたと慌てて片膝をついた。
「し、失礼いたしました! お、お初に、お目もじ叶いましたこと、ま、まことに嬌悦至極に存知あげます!」
パニックになりながら必死に宮廷作法の台詞を言っていると、下げた頭の上から、クスクスと笑い声が聞こえた。訝しんでチラッと顔を上げると、口元を抑えて笑いを堪えている王女と、呆れたように溜息をついている隊長の姿があった。
「ユウよ。それは祝宴のときなどの祝辞の言い回しだ。今は普通の略式礼で構わない」
「あ…」
ユウは真っ赤になりながら、おずおずと立ち上がった。見れば他の騎士たちや王女付きの侍女たちまでクスクスと笑っている。穴があったら入りたいとはこのことだ。
「…申し訳ありません。不慣れなものなので…」
「いいえ。構いません。場合によって色々な作法がありますものね。わたくしこそ笑ったりしてごめんなさい」
歳のわりにしっかりした物言いをするのは、さすがに王女様か。優は改めて落ち着いて王女を見た。幼い顔立ちだが、真っ直ぐ見詰め返してくる緑の瞳には強い意志の光が見て取れた。
王女も背の高い優の瞳を見上げながら言った。
「綺麗な目をしていらっしゃいますのね。まるで星空のよう…」
優は元の世界では当り前な瞳をそんな風に言われて、なんだか気恥ずかしい感じがした。
「もったいないお言葉。有難き幸せに存じます」
ここで、顔合わせは終わりになり、いよいよ出発となった。
王女は侍女たちと共に輿付きの馬車に乗り込み、その前後を騎乗した騎士たちが固める。優は主に後方でラ・クルト公国への贈り物の宝物や随従の役人たちの警護に当たっていた。
アミトール港で王族専用の帆船に乗り換えて、レナディオ河をゆったりと下っていく。急ぐ旅ではないので船ものんびりと進んでいる。船に乗ってしまえば急に襲撃されることもないので、皆リラックスしていた。優も初めての船旅を密かに満喫していた。
王女も甲板に出て船乗り達に声を掛けて回っていた。その中でも他の船乗り達に比べて若干線の細い者がいた。精霊使いの船乗りである。どの船にも必ず精霊使いが1人はいて、特に風系、水系の精霊魔法に秀でた者たちだった。彼らの役目は重要で帆にはらむ風を制御したり、風のない時は水を動かして船を進ませる。嵐のときなども船が転覆しないように、あらぬ方角へ流されないように手を尽すのである。大きな船になると風と水でそれぞれに精霊使いを当てる場合もある。
王女は他の者と同様にその精霊使いの男にも声を掛けていた。
「あなたは、精霊使いさんですね?」
突然声を掛けられた男は、ビックリして手にしていた物を取り落とした。そしてそれを慌てて拾い挙げた。一瞬見えたそれは精霊石のようであった。
「お、王女さま! 驚かさないで下さい!」
男があたふたとして言うのを、王女は逆に驚いてしまった。
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったのですが…」
王族専用船なので、大半が見知ったもの達だったが、この男だけ見覚えがないので声を掛けたところった。
「ただ、前任者の方はどうされたのかと思いまして」
前任者の精霊使いは王女がまだ小さかった頃に、色々な精霊魔法を見せて遊んでくれてたので親しみが深かったのである。
「い、いや、あの、それは…」
男がしどろもどろにしていると、ちょうど船長が通り掛かった。
「王女様、何か問題でもございましたか?」
「いいえ。ただ前任者の方はどうされたのかと思いまして」
「ああーアルスのことですか? 確かに今回の出航にも同乗する予定だったのですが、これが3日程前に階段を踏み外したとかで足の骨を折ってしまったらしいのですよ。それで急遽、このディージットに代役を頼んだんです」
「まあ足の骨を? それはご災難でしたね。ディージットさまとおっしゃるのですね。ラ・クルトまでの道中よろしくお願い致します」
そういって王女が軽く頭を下げると、ディージットはしきりに恐縮して言った。
「お、王女さま! そんな俺、いや私なんかに! こちらこそ一生懸命務めさせて頂きます!」
「はい。よろしくお願いします」
「は、はい! お任せを。どういう訳がいつもより精霊の集まりが多くて楽に制御できてますので」
「そうですか。それはなによりです」
優しく微笑みかけると王女は侍女たちと中に入っていった。
その後ろ姿をディージットは珍しいものでも見るかのように見詰めていた。
「どうした?」
船長が訊ねると、ディージットは感心したように言った。
「いやー王族の姫君なんて、軽々しく一般人と口聞かずに、奥の部屋に踏ん反り返ってるものとばかり思っていたけど、ここのお姫様は違うんだなーと」
「そういえばお前は、ド・メルド王国の出身だったな。このユーテシアの王族はみんな庶民に理解があるからな。特にあのティアナ王女様は歳はまだお若いがしっかりしていて、どんな者にも分け隔たりなく接して下さる、優しいお方だよ」
「そうか…」
そういうとディージットは、複雑そうな顔で王女が入っていった方を見やった。
船上で一夜明けると、ユグド共和国まであと半日のところまで来ていた。
優はいつもの習慣で早朝の甲板で剣の素振りをしていた。一通りの型をこなして一息ついていると、柔らかい声が掛かった。
「早起きでいらっしゃいますのね」
振り向くと王女が立っていた。優は抜身で持っていた剣を慌てて鞘に戻した。
「おはようございます。ティアナ王女様。こんな時間にどうされましたか?」
「いえ。私も時々こうして早起きをして、一人で朝の空気を吸うのが好きなのです」
そういうと王女はゆっくりと深呼吸をする。
普段周りにとても気を使っていることは、このくらいの歳の子には大変なことだろう。たまには一人になりたいのだろうと優は思った。
「すみません、お邪魔をしてしまい。すぐに戻りますので…」
そういって踵を変えそうとする優を王女は引き止めた。
「いいえ、お邪魔など…わたくしの方が後から来たのですから。もしよろしければ少しお話させて頂けませんでしょうか?」
「あ、はい。私でよろしければ…」
「はい。もちろんです」
そういって嬉しそうに微笑む笑顔は歳相応のものだった。
「ユウさまのお名前は珍しくていらっしゃるのですね。あ、すみません。突然不躾なこと聞いてしまいまして…」
「全然構いませんよ。そうですね。こちらではあまり聞かない名前かもしれないですね。バース・ネームも付いていませんし」
バース・ネームとはファースト・ネームとファミリー・ネームの間に入る、生まれ月を示すものである。
「どちらのご出身なのですか? 先ほどなさっていた剣も見た事がない技のようでしたが」
そういって聞いてくる王女の目が好奇心で輝いていた。子供らしいところもあるんだなと優は微笑ましく思った。
「見ていらっしゃったんですか?あれは我が家に代々伝わる剣術です。出身は…遠いところです」
「遠いところ?ド・メルド王国ですか?」
小さく首を傾げて訊いてくる王女から、ふっと視線を外して優は少し寂しいそうに答えた。
「…もっと遠いところです。普通では行き着けないような…」
それを聞いた王女は、ハッと何か思い当たったように優を見上げた。
「それは…もしやあなたは…」
王女が言い掛けたところで、ドーンという大きな音と共に船が大きく揺れた。
「きゃーっ!?」
よろめいた王女は濡れた甲板に足を滑らせて倒れそうになる
「!? 王女様!」
慌てて優が飛び付いて辛うじて抱き止めた。
「大丈夫ですか?!」
「…はい。なんとか」
胸に手を当てて呼吸を整えながら王女は気丈に答えた。船内から、船長や騎士達が飛び出してきた。
「何事だ!? 何が起こった?! 敵襲か?!」
その間にも、船は徐々に傾き始めていた。