4.精霊たち
〜 ユーテシア王国 アルジェント伯爵領 〜
優とレミューリアはレナディオ川を定期船で南下して王都ユフテルに近いアミトール港に着いた。アミトールは王都への玄関口
として重要な港で、常に活気に溢れ王都に次いで大きな街になっている。
そこから二人はレミューリアが預けておいた馬に相乗りしてアルジェント伯爵領へ向い、伯爵領西端のレミューリアの家に着く
頃には、陽はとっぷりと暮れていた。
「ただいま」
レミューリアが戸口で声を掛けると、レミューリアの母トエトは夕飯の支度をしているところだった。
「おや? 帰ったのかい? 今日はてっきり帰らないのかと思ったよ」
トエトは振り返りもせずに、鍋を掻き回しながらぼやいた。
「まったく、そんなに何度も何度も行ったって、帰ってきてくれるもんじゃないだろうに。気長に待つしかないんじゃないのかい
?」
レミューリアは溜息をつきながら家に入ると、優もその後に続いた。
「ただいま、トエトおばさん」
そう優が声を掛けると、トエトは驚いて味見しようとしていたスプーンを取り落とした。
「まあ! まぁまぁまぁ! ユウじゃないかい! 帰ってきたんだね! 元気にしてたかい?」
トエトはユウの手を取って嬉しそうに言った。レミューリアにそっくりな青い瞳に明るい茶色の髪で、今でこそ全体的にふっく
らとしているが、若い頃は相当な美人だったことが分かる。
「お久しぶりです。おばさんも元気そうでなによりです」
「そうだねー、でも最近は色々と動くのが億劫でねぇ。どこかの放蕩娘はちっとも家の手伝いなんかしてくれないし、食欲もでり
ゃしないよ」
それを聞いたレミューリアは呆れたように言った。
「よく言うわよ。いつも私の倍は食べているくせに」
「あら? そうだったかねぇ?」
そういってトエトはからからと笑った。そんなトエトを優も笑顔で見つめた。優は早くに母を亡くしているので、トエトは母の
ような存在だった。
「さあさあ、お入り。お腹空いただろう? ちょうどスープが出来たところさ」
「またお世話になりますが、よろしくお願いします」
優はこちらの世界にいる間はレミューリアの家に居候していた。王城にとの話もあったが、現代日本人の優には城の生活は窮屈
この上なかった。ラトウェルにも、ならば伯爵家にと誘われたが、庶民的とはいってもやはり貴族のお屋敷では居づらかったので
、結局精霊魔法を習うにも都合が良いということで、レミューリアの家に世話になることになったのである。事情を聞いたトエト
も、女手しかなくて何かと物騒だから来てくれれば助かると快諾してくれたのだった。
「やだよ、なに他人行儀なこと言ってるんだい。さ、そこに座ってておくれ。すぐ用意するからね。…レミューリアは手伝ってお
くれ」
優と一緒に座ろうとしたレミューリアに釘を刺して、トエトはぱたぱたと3人分の夕飯の用意を始めた。
この日の夕飯は優にとっても、レミューリア家にとっても久しぶりに楽しいものとなった。
翌朝、まだ朝靄の残る中、優は長剣をゆったりと構えていた。
「ヒュッ!」
静から動へ、鋭い気合で剣を振るう。その足は一時も留まらず、舞うように剣が走る。
「ハッ!」
最後に大上段から岩をも砕く勢いで振り下ろす。流れてきた朝靄が剣勢によって分断された。
≪なんだってユウは、あんなもん振り回してんだ? あたいに言えばみんなやっつけてやるのにさぁ≫
燃えるような赤い髪の“火の精霊”のアツコが不思議そうに優を見ながら言った。
≪それは、あなたがところ構わず火をつけてしまうから、できるだけ剣で戦うようにしているのですよ≫
水色の長い髪を揺らしながら“水の精霊”リョウコがアツコを皮肉った。
≪あんだと! そういうお前だっていつもそこらじゅう水浸しにしてんじゃないか!≫
まさに烈火の如くアツコが言い返すも、リョウコは涼しい顔で受け流す。
優は剣を振り下ろした状態でプルプルと震えている。
≪それはあなたがつけてしまった火を、私がひとつひとつ消してあげているからですよ≫
≪あんだと! このぉ!≫
≪あら? やりますの?≫
さすがに火と水では相性が悪いのか、お互い睨み合う。
しかし一触即発の雰囲気になったところで固まっていた優が叫んだ。
「だぁー! うるさいー!!」
精霊たちの声は直接頭の中に響くので、近くで騒がれると頭がガンガンしてしまう。
「近くで騒がないでくれよ!」
優に怒られてリョウコとアツコはしゅんと項垂れた。
≪すみません…≫
≪ごめん…≫
「まったく…剣の稽古をしているときは静かにしてくれって、いつも言ってるだろ」
優は溜息をつきながら二人の精霊をたしなめた。
≪やーい。怒られたー≫
“風の精霊”のフウコがフワフワと風に浮かびながら茶々を入れた。灰色の髪がそよいでいる。
≪あんだと! この野郎―!≫
途端にアツコが怒って、フウコを追い回す。しかし風の精霊に敵うはずもなくフウコは難なく躱している。
≪やーい。やーい≫
≪待てぇ! このー!!≫
それを止めようとカールしたような緑の髪の“木の精霊”のミドリが追いかける。
≪やめなさい! 今、ユウに注意されたばかりでしょ!≫
結局大騒ぎになってしまい、優は痛む頭を抑えつつ深い溜息をついた。
こちらの世界に来た当初、精霊というお伽話かゲームの世界にか存在しないはずのものが実際に存在していて、人の生活に深く
関わっていることに優は大変驚かされた。電気も機械もないこの世界では、精霊魔法は生活の手段として使われている。ライター
の代わりに火の魔法、照明の代わり光の魔法というような感じである。
精霊魔法が使えないと非常に不便なので、優もレミューリアに精霊魔法を教わっていたが、どんなに頑張っても単純な火熾しの
魔法でさえ満足に使うことが出来なかった。しかしなぜか優の周りにはいつも精霊が集まっていて、通常は正式な手順で召喚しな
いと現れないような上位の精霊もいた。精霊戦士たる由縁かもしれないが、レミューリアにはそれで何故魔法が使えないのかが不
思議でならなかった。
精霊に慣れてくると優はその声も聞こえることに気付いた。話ができるのは姿が見える上位の精霊に限られていたが、精霊もち
ゃんとした意識を持っていて会話をすることができたのである。しかしそのように精霊と話ができるのは優だけのようで、レミュ
ーリアでも呪文によって使役することしかできないという。この世界にはおそらく精霊と話せる者は他にいないだろうとのことだ
った。話ができるとすれば、それは精霊王だけだが、未だかつて精霊王と接触できた人間はいないという。
そんなあるとき、蝋燭に火を点ける魔法を練習していたが、どうにもうまくいかず、半ば投げやりで近くにいた精霊に、これに
火を点けてくれよとつい言ってしまった。まじめにやってよ!とレミューリアが怒ろうとしたとき、その精霊は優の言う通りにあ
っさりと目の前の蝋燭に火を点けてしまった。優もレミューリアもそれには唖然とした。試しに色々頼んでみると、どれも言う通
りに動いてくれたのである。それを見ていたレミューリアは、まじめに精霊魔法を習得するのが馬鹿らしくなったと後に話してい
た。以来、優は魔法の習得は半ば諦め、集まってくる精霊たちに、特に上位の精霊とは話ができたのでその子たちに頼むようにな
っていった。
そのうち、精霊たちにも個性があることが分かり、見分けがつくようになった。そこで優は頼み易いようにと、いつも来てくれ
る精霊たちに名前を付けることにしたのである。レミューリアにそれを言うと、そんなの聞いたこともないと呆れていたが、精霊
たちはこの提案を面白がった。元々、個という概念が無かった精霊たちにとって、名前というのは非常に楽しいことのように思え
たようであった。
しかし、なかなか精霊たちが気に入ってくれる名前が決まらなかった。最初は“ウンディーネ”とか“シルフ”などという優の
世界では基本的なものを言ってみたが、精霊たちは気に入らなかった。個の概念がなかった割りには好みがうるさく、小さいが見
た目は外人っぽいので西洋風な女性の名前を考えられる限り挙げてみたが、どれも駄目で、最後に諦め半分で日本風な名前を挙げ
てみたら、これがあっさり気に入ってくれたのである。良くわからないが響きが気に入ったとのことだった。
それ以来リョウコたちはいつでも優の呼び掛けで現れて、よく優の意図を汲んで下位の精霊たちを統率してくれていた。優が頼
まなくても助けてくれたことも何度もあった。レミューリアが言うには、本来、上位の精霊にしてもそのようなことはしないと、
おそらく優に名前を付けてもらったことで彼女たちの中で何かが変わったんだろうということだった。
「羨ましいわ…」
振り返るとレミューリアが裏口に立って、こちらを見ていた。
「そうか?うるさいだけだよ」
そう優が苦笑していうと、リョウコたちはレミューリアの周りに寄っていって朝の挨拶をしていた。レミューリアもリョウコた
ちが何を言っているかは分からないが笑顔で見返していた。
「でも私もみんなとお話がしたいわ」
ちょっと寂しそうに言うレミューリアの周りを一周すると精霊たちは姿を消していった。
「そうだな。レミューリアにも聞こえればいいのにな」
「ま、言っても仕方ないわね。朝ご飯できているわよ。早く食べて出ないと着くのがお昼になっちゃうわよ」
今日はこれから王城に行く予定だった。優は帰還の報告とレミューリアは視察の報告をするためである。
「わかった。すぐいく」
そういうと優は、背中を向けておもむろに上着を脱いだ。無駄のない引き締まった背中が、薄っすら浮かんだ汗で朝日に輝く。
レミューリアは思わずそれにボーっと見惚れていた。
「ん? どうした?」
優が不思議そうに声を掛けると、我に返ったレミューリアは耳まで真っ赤にして慌てて言った。
「ば、馬鹿! い、いきなり脱ぐんじゃないわよ! しゅ、淑女の前で失礼でしょ!」
そういうと顔を真っ赤にしながら足元にあった水桶を引っ掴んで投げつけた。
晴れ渡った気持ちの良い朝に、カコーンという乾いた音が辺りに響き渡った。