2.帰還
〜 ユーテシア王国 ガルト帝国国境付近 〜
一陣の風が吹き抜けると、レミューリアは輝くような笑顔を浮かべた。この風は知っている。これは精霊たちの風。すべての精
霊たちが喜びに触れたときに起こる歓喜の風。もう何も心配はいらない。彼が帰ってくるのだから。
そんなレミューリアの様子にも気付かず、先陣をきって大斧を構えた傭兵が斬りかかった。
が、その目の前に忽然と人が現れた。
「な!?」
「あ?」
その傭兵は振り下ろし掛けていた大斧を途中で止めることもできず、そのまま振り下ろす。
突然現れた者も呆然としていたが、目の前に迫る刃を見て咄嗟に手にしていた物をかざして、それを受け止めようとした。しか
し、それはあっさり真っ二つにされ、反射的に飛び退く。そのままでいたら自身も真っ二つにされていただろう。
「なんだ、てめぇは?! どっから湧いて出た!?」
斬りかかってきた傭兵が油断なく大斧を構えながら怒鳴る。さすがに動揺を隠し切れない。他の者も突然現れた見慣れない服装
の男に警戒して身構えている。
現れた男は、真っ二つにされた英語の教科書を眺めて溜息をついた。
「また教科書、買わなくちゃだな…」
そっと、呟いたところに背中から声が掛かった。
「…まったく、鈍ってるわね。ユウ」
レミューリアは先程の笑顔が嘘のように、不機嫌そうな顔で言った。
「やあ、レミューリア」
御子神 優は振り返って、精悍な笑顔を浮かべた。そうして周りを見渡して状況を把握すると苦笑して言った。
「相変わらず、人気があるようだな」
「あなたも、相変わらず突然ね」
レミューリアはつられて笑顔になるのをぐっと堪えながら、勤めて不機嫌そうな顔を作った。
黒ローブの男は、突然現れた男を注意深く観察した。レミューリアと知り合いのようなのでこの男も精霊使いかと思ったが、ほ
とんど精霊力は感じられなかった。相手の精霊力を感じ取れないようでは立派な精霊使いとは言えない。見慣れない服装をしてい
るが見たところ丸腰のようである。レミューリアに対しての数が減ってしまうが問題なしと判断して傭兵たちに言った。
「なにをしているのです!その男は精霊使いではないようです。まとめて片付けてしまいなさい!」
傭兵たちも突然現れた男が精霊使いでないと聞くと余裕を取り戻した。傭兵のうち2人が優に対して身構えて、残りはレミュー
リアに集中した。
それを見てレミューリアは一応確認した。
「ユウ?」
「問題ない」
優は短く答えると、足を軽く肩幅に広げてゆったりと構えた。
「おらー!!死ねぇー!」
一人が大上段から優に斬りかかってきた。優は、顔色一つ変えずに左手に持っていた教科書をそいつに向かって投げつけた。
「けっ!そんなもの!」
男は、苦し紛れの反撃にせせら笑いながら、飛んできた本を切り飛ばした。が、剣を振り抜いた直後には、教科書の方割れが目
の前だった。剣をとって返すのも間に合わず顔面に直撃した。それと同時に腹部に猛烈な衝撃が走った。
「ぐは!?」
堪らず膝をつくと、今度は首筋に痛撃を受けて白目を剥いて昏倒した。
一瞬の出来事だった。丸腰と見て無造作に斬りかかってきた男に、優は僅かな時間差で教科書を投げつけ、投げた教科書を追う
ように自身も前へ飛び出していた。まんまと囮に引っ掛かった男に強烈な膝蹴りを食らわせて、膝をついたところに手刀を叩きこ
んだのである。全く無駄のない、流れるような動作だった。
優は倒れた男から剣をもぎ取り、軽く振って具合を確かめ、その剣のガタガタの刃を見て顔を顰めた。
「こんなんで斬られたら痛いだろうな…」
表情を改め奪い取った剣を構える。不意打ちが効くのも最初の一回だけである。今度は傭兵たちも真剣にくるはずだった。
傭兵たちは一瞬の出来事に唖然としたが、今度こそ一斉に掛かってきた。
優は男たちと切り結びながら、レミューリアに精霊魔法を使い易くさせるため距離を置くように移動した。その間にも既に3人
切り倒していた。流れるように剣を振るう優に男たちは翻弄されていた。
レミューリアもオーバーラップ・スペルを多用させながら敵を寄せ付けない。相手の耐性魔法の付いた防具も更に強力な精霊魔
法には無意味だった。
優は相手の力を受け流すような剣技をもつ。その辺の傭兵風情では剣は掠りもしなかった。しかし、5人目を相手にしたとき、
慣れない剣のためたまたま相手の剣を受ける形になってしまった。すると甲高い金属音と共に優の剣が根元から折れてしまった。
「ち!」
「もらったー!!」
飛び退る優に剣を振り下ろす直前、男は背中に火球の直撃を受けてその場にくず折れた。
「世話かけないでよね!」
レミューリアは多人数を相手にしながらも優の動きをちゃんと追っていた。そこで優の剣が折れたのを見てオーバーラップ・ス
ペルで冷静に優を援護したのである。
「すまない。レミューリア」
「しっかりしてよ。だからいつも基本の精霊魔法くらい覚えておきなさいって言ってるでしょ!」
言いながらも飛んできた鉄球を氷の壁で弾き飛ばす。優はその鮮やかな魔法の使いこなしに、しばし状況を忘れて感心していた
。
「ええーい!なんと不甲斐ない!」
多勢に無勢にも関わらず優とレミューリアの方が圧倒的に優勢だった。数で押し切ろうとしていたが思わぬ乱入者でその予定も
変わってしまった。しかもその乱入者も精霊使いでないにしろかなりの剣士のようである。黒ローブの男は自らは手出しせずに済
ませようと思っていたが、次々に傭兵たちが倒されていくのを見て、そうもいかなくなってきた。
乱戦を見守りながら、ちょうど乱入者をレミューリアと挟むような位置へ移動していた。この位置ならば、レミューリアも乱入
者が邪魔して直接攻撃はできないはずだった。
「邪魔者には消えてもらいますよ!」
黒ローブの男は、ショート・スペルで黒炎球を優に向かって放った。
レミューリアの方を見ていた優は、それに気付かなかった。
「ユウ!!」
精霊力を感じたレミューリアが振り返って悲痛な声で叫んだ。対抗魔法を出そうにも優が邪魔して間に合わない。
「!?」
レミューリアの叫びで振り返った優は、間近に迫る黒炎球を見つめた。ひどく時間がゆっくりに感じられる。これはだめかなと
以外と冷静に優は思った。自分の死に対しての恐怖はないが、レミューリアを悲しませるのはやだなと思った。そう思った後に、
やっぱりまだ死ねないな、レミューリアの笑顔を見るまではと強く思った。
次の瞬間、優の目の前に水の障壁が立ち上った。黒炎球は水の障壁に当たるとバシューッと激しい蒸発音を立てて消え去った。
優は呆然とその水の障壁を見やったが、すぐに得心した顔で周りを見回した。
≪間に合いましたね。ユウ≫
涼しげな声が頭の中に響いた。すると目の前にフワリと水の精霊が現れた。
「来てくれたんだ。リョウコ」
≪はい。あなたが戻っていらしたは分かったのですが、どこにもどったのかを探すのに、少し時間が掛かってしまいました≫
すまなそうに言う水の精霊に優は微笑み掛けた。
「そんなことはない。助かったよ。ありがとう。よし、これで遠慮なく戦えるぞ」
気を取り直して辺りを見回すと、傭兵たちは皆すでに倒されていた。優の無事を確認したレミューリアが一気に片付けたようだ
った。
不機嫌そうな顔でレミューリアは優の横に並んだ。
「残るは、あなただけよ」
レミューリアは黒ローブの男を睨みつけるようにして言った。
しかし黒ローブの男はただ呆然と優を見て、自問自答していた。
「…なぜだ…あの男はスペルなど唱えてなかったのに…」
水の精霊がついているようだが、この男自身には精霊力はほとんど感じられない。ならばレミューリアが?いや、あの位置から
では不可能なはずだ。
「…ならば、なぜ精霊が動く…」
男に付いている精霊にしても、あれだけはっきりした形をとれるものは精霊界でもかなり上位のもののはずだった。それがなぜ
精霊力もない男についているのか。
何やらぶつぶつ呟いている黒ローブの男に、優とレミューリアは顔を見合わせて首を傾げたが、とりあえず締め上げて目的を吐
かせようと優が一歩踏み出した。
我に返った黒ローブの男は、慌てて優に右手をかざしてスペルを唱えようとした。
それを見た優はゆっくりと言った。
「…みんな、どいてくれないか?」
黒ローブの男が訝しんでいると、たった今、黒炎球を出そうと集めた精霊たちが自分から離れていくのを感じた。
「な!?」
そればかりではなく契約していた他の精霊たちも次々に離れていくのを感じ、慌てて精霊力を高めて拘束しようとしたが、意に
反して精霊たちは離れていく。
「ば、ばかな!?」
ほとんどの精霊を剥ぎ取られて黒ローブの男は呆然と膝を突いた。一度契約した精霊が自ら離れていくなど在り得ないことだっ
た。そんなことができるのは精霊界の最高位の精霊王か、もしくは… そこまで考えて、黒ローブの男は、はっと顔を上げて改め
て優を見た。見慣れない服装に、精霊力もないのに精霊たちが付き従う力。
「…ま、まさか! せ、精霊、…戦士…」
神王の世界からやってきて、精霊王の加護を持ち、精霊たちが無条件で味方するという、精霊戦士。今は行方不明だとか、神王
の世界に還ったとか聞いていたが、まさか目の前のまだ若い男がそうだったとは。黒ローブの男はがっくりと膝を落とした。
「なんだ? もう諦めたのか? レミューリア、どうする?」
拍子抜けしたように優が視線を外したのを、黒ローブの男は見逃さなかった。ローブの内側から薄っすらと光る小石を取り出す
と、それに向かって小さく呪文を唱えた。
その途端、小石から強烈な光が迸った、優とレミューリアは慌てて手で眼を庇った。
やっと光が収まって二人が眼を開けると、黒ローブの男は消えていた。男が使ったのは精霊石と呼ばれるもので、ある程度の精
霊力が封じ込められていて、一度限りでその力を開放させることができるものである。
「逃げられたか…」
辺りを見回してももうその姿はどこにも見えなかった。
「…やっぱり、だいぶ鈍ってるわね…」
刺々しいレミューリアの声に、優は冷や汗を浮かべながら振り返った。
「あ、いやー、あのー、そのー」
形のいい眉毛を吊り上げたレミューリアが憤然と優に詰め寄ってきた。
「あちらに戻って、随分と身体が鈍ったようね! この程度の連中に遅れを取るなんて! 大体ユウは剣ばっかりだからさっきみた
いにやられそうになるのよ! せめて召喚呪文くらいは覚えておきなさいっていつも言ってるでしょ! 私が援護しなかったらどう
なってたと思うの! いっつもいっつも心配ばかりかけて!」
早口でまくし立てられるのを、優は顔を引きつらせながら必死になだめようとした。
≪ユウ、わたしたちもそろそろ戻ります。泉から遠いと消耗しますので≫
レミューリアの様子にはお構いなしで水の精霊リョウコが言った。
「あ、ああ。ほんとに助かったよ。ありがとな」
≪いいえ。ではまた。レミューリアにもよろしくと≫
そういうと他の水の精霊たちを連れて消えていった。
「…って、ちょっと! 聞いてるの?!」
「あ? ああ。リョウコがよろしくって…」
半分上の空で言ってしまい、しまったと思ったが後の祭りだった。レミューリアは更に眼を吊り上げて盛大に文句を言いつのっ
た。それを優は冷や汗をたらしながら必死に宥め続けていた。
一通り言い終わったのか、レミューリアは肩で息をしながら俯いた。優が恐る恐る様子を窺っていると、レミューリアは優の胸
にそっと右手を置いて大きな溜息をついた。そして顔を上げると少し潤んだ瞳を輝かせて優しい笑顔を浮かべた。
「おかえり。ユウ…」
優はその輝く美しい笑顔を見て、改めて実感した。
帰ってきたんだ。この精霊の世界へ。ユーテシアへ。