2.アルテミラスの薔薇
~ ユーテシア王国 アルテミラス伯爵邸 ~
レミューリアは一の郭に訪れていた。ユウは朝から王宮の方へ行っているので今日は一人だ。
その一角は一の郭の中でも最も中央寄りで最も王宮に近い。それはそのまま王国内の権力を表わしていた。アルテミラス伯爵家。王国第一位の権力を有する五大伯爵家の一つである。
その権力を示すように敷地は広大。自然のままの森を多く残しており、森を通る小道を歩いていると、そこが郭内であることを忘れさせる。心地よい風がそよぎ、風の精霊や木の精霊がフワフワと踊っている。
森を抜けると目の前に重厚な作りの屋敷が現れた。壁の低い部分や柱に絡んだ蔦がその歴史の古さを物語っているが、古めかしい印象は受けない。扉や窓枠に設けられた飾り彫はきっちりと手入れが行き届き、白く輝いている。
レミューリアが屋敷の入り口に近付くと、来訪を告げる前にその大きな扉が開かれた。初老の執事が顔を出し、レミューリアが何か言う前ににこやかに屋敷内に招き入れてくれた。
執事がいつものように、後ほどお飲み物をお持ちしますのでと言って下がっていくと、レミューリアは二階へと上がって行った。普通、貴族の屋敷で来客が、しかも庶民が一人で勝手に歩き回ることなど有り得ないがレミューリアは特別だった。屋敷の中も外観と同様に落ち着いた雰囲気にまとめられている。所々に置かれた花瓶の花が香る廊下を行き、一つの扉の前に立った。ノックをしようとして部屋の中から聞こえる音に思い留まって、音を立てないようにそっと扉を開いて中に入る。
大きな窓からの明るい日差しが部屋の奥まで届いていて、白を基調とした調度品が部屋をより明るくしている。窓際で一人の女性がリュートを奏でていた。長い黒髪をゆったりと背中へ流していて、サイドの髪の一房に付けられた金の髪飾りが光を反射してキラキラと輝く。色白の顔は少しふっくらとしていて優しげな輪郭を形作っている。目を閉じてリュートを奏でる姿はまるで絵画のようで、清楚としている中にも色香が感じられる。
レミューリアは演奏の邪魔をしないように扉の近くに静かに立って、伸びやかなリュートの音色に聴き惚れる。
演奏が終わって余韻が収まるのを待ってから、その女性は顔を上げて目を開いた。
「いらっしゃい。レミューリア」
薄茶色の瞳を優しげに細めて言った。
「こんにちは。ファティシアさま」
その女性、ファティシア・ローズ・スウ・アルテミラスはふわりとした笑顔でそれに応えた。
「こちらへいらっしゃいな。美味しいお菓子が入りましたのよ。一緒にお茶にしましょう」
「はい。喜んで!」
レミューリアも笑顔で答えたところに、タイミング良く執事がお茶を運んできた。
窓際のテーブルでファティシアの向かいに座ったレミューリアは、テーブルに並べられるお菓子に目を輝かしていた。
「さあ、頂きましょう」
ファティシアは優雅な手付きでクッキーを一つ取ると、そっと一口食べた。
「美味しいですわ。どうぞ召し上がれ」
ファティシアより先に食べる訳にもいかずレミューリアはうずうずしていたが、ファティシアに勧められて遠慮がちにクッキーを口に運んだ。バターの風味が効いていて口のなかでとろけるようなクッキーだった。レミューリアの顔が綻ぶ。
「とっても美味しいです!」
「そうですか。よかったですわ。遠慮なく召し上がりなさいな」
嬉しそうな顔でクッキーを食べるレミューリアをファティシアは笑顔で見ていたが、ふと軽く首を傾げて切り出した。
「…彼が、帰ってきたのね」
あまりに突然の突っ込みにレミューリアは咽て、クッキーを噴き出しそうになる。慌てて紅茶を一口含んでから驚いた顔でファティシアを見る。
「ど、どうしてそれを…あ、もう知らせが届きましたか?」
王宮のお膝元である一の郭では、当然王宮での出来事はすぐに耳に入る。精霊戦士の帰還は王国にとっても重要なことなので、昨日の今日で知らせが届いてもおかしくはない。
ファティシアは口元を抑えて楽しげに笑った。髪飾りがチャリンと綺麗な音を立てる。
「いいえ。知らせはまだ来てませんよ。そんなのあなたの嬉しそうな顔を見ればすぐ判りますよ」
そう言われたレミューリアは真っ赤になって俯いた。
「…やっぱりファティシアさまには隠し事はできませんね」
「ふふふ。あなたが分かり易いのよ」
それにはレミューリアも苦笑するしかなかった。でも決して自分が顔に出易いとは思わない。ファティシアが鋭いのだ。ファティシアはアルテミラス伯爵の一人娘である。そのおっとりとした雰囲気に反して、頭の回転が速く、洞察力に優れている。父親の補佐として実務をこなしていて、既に伯爵家の跡取りとして周囲に認められていた。年上の貴族をやり込めることもしばしばあって疎まれることもあるが、それ以上の人望と実力、そしてその権力によって確固とした地位を築いていて、その発言力はすでに父であるアルテミラス伯爵をも凌ぐと言われている。美しい外見で判断して舐めて掛かると、とんでもないしっぺ返しがくる。まさに棘を持った薔薇であった。
そんなファティシアにレミューリアは本当によくしてもらっていた。いかに大精霊使い並みの力を持っていようとも、庶民で階級を持たない者が王宮で自由になどできようはずもない。それをファティシアがレミューリアの後見人になって支えてくれているのだ。以前に一度どうしてそんなに良くしてくるのかを訊ねたら、ずっと一人っ子だったから可愛い妹が欲しかったのだと優しい顔で言っていた。
「それにしても、私の可愛いレミューリアをこんなに待たせるなんて! まったく困ったご仁ね」
言葉は少し強いが目は笑っている。
「ほんとですよねー 待ちくたびれてしまうところでした」
「それでもまたあなたのところへ帰ってきた。それが嬉しいのでしょう?」
はっきり言われてレミューリアは赤くなった。
「はい…」
「あらあら、ご馳走様ですわ」
ファティシアにからかわれて、更に赤くなってレミューリアは俯いた。
「それで、少しは進展したのかしら?」
「い、いえ。まだ何も… あの、それに帰ってきたばかりだし…王宮での、仕事もあるし…」
少し肩を落としていうレミューリアをファティシアはじっと見ていたが、静かな声で言った。
「…ティアナ様ね」
レミューリアの肩が僅かにビクリとする。膝に乗せていた手に視線を落とす。
「やはりですね。ティアナ様も大きくなられましたものね…単なる憧れから恋愛へと気持ちが昇華されてもおかしくないお年頃ですものね」
ファティシアの話をレミューリアは俯いたまま黙って聞いていた。
「でも、それであなたが遠慮してどうしますの?」
「…だって…相手は王女さまだし……」
「そんなことは関係ありませんわ。それとももう諦めてしまったのかしら?」
ぴしゃりと言われてレミューリアは思わず首を竦めた。こういうときのファティシアは手厳しい。レミューリアも顔を上げて慌てて否定する。
「い、いいえ! 諦めてなんか…」
ファティシアは少し表情を和らげて言った。
「ならば、地位や身分で遠慮するのはおやめなさいな。彼だって貴族でも王族でもないのですから。そう…身分なんて関係ありませんわ…」
そう言ったファティシアの顔にほんの一瞬だけ翳がさしたが、再び俯いてしまったレミューリアは気付かなかった。
「で、でも…ゆくゆくはユウにも爵位をっていう話もありますし…」
「あら?彼は身分を欲しがるような方でしたかしら?そういったものには興味ないような方とお見受けしていましたが。私の彼の印象を変えなければかしら?」
「いいえ!そんなことは決して!ユウは身分なんて欲しがってません!私が勝手に思っただけで…」
ユウのことを悪く思われては困るのでレミューリアは必死に弁解した。
ファティシアも、ユウのことになると必死になるレミューリアを心底可愛いと思いながら優しく言った。
「わかっていますよ。あなたが遠慮することなどないのです。自分の気持ちに素直になりなさいな」
「……はい。頑張ってみます」
レミューリアも少し表情を明るくして答えた。
「頑張りなさい。あまりのんびりしていると、私がもらってしまうわよ?」
追い討ちをかけるようにファティシアが悪戯っぽく言った。
「そ、そんな! …ファティシアさまでは…敵いませんよ」
レミューリアが絶望したような顔になっていうのを、ファティシアは口元を抑えてコロコロと笑った。
「安心なさいな。私は年下には興味ありませんから」
その後は話題を切り替えて2人は楽しい一時を過ごした。
明るい気分で家に帰ったレミューリアは、先に帰っていたユウから更に嬉しい知らせを受けた。南方のユグド共和国にあるレミントン商業自治都市への視察任務。しかも2人きりで。
期待と不安がない交ぜになってレミューリアはその夜はなかなか寝付けなかった。