1.歓喜の風
〜 ユーテシア王国 ガルト帝国国境付近 〜
「…まったく、なめられたものね」
そう呟いた少女は、白皙のほっそりとした美しい顔を苛立たしげに歪めて、頬にかかる髪を後ろへはらった。背中まである金色に輝く髪が光の粉を振り撒いたように舞う。
少女は自分を取り囲んだ男たちを見回した。おそらくその辺のゴロツキ傭兵であろう。切れ味の悪そうな中剣や斧、鉄球に鎖をつけたようなものを持つ者もいて装備はバラバラだ。その中に1人、武器を持たず、黒いローブをまとって異彩を放っているのは、おそらく精霊使いだろう。全部で15人。窮地に追い込まれているはずの少女は、しかし平然としていた。
中剣を構えた男が、口元をニヤけさせながら少女へ向かって一歩踏み出した。
少女はそれをチラッと見やると、おもむろに男に向かって右手を振り上げる。
「フレイム」
短い一言の直後、少女の右手から火球が飛び出す。
「な!?」
突然の攻撃に驚愕した男は、慌てて後ろに飛び退った。火球は狙い違わず、直前まで男がいた場所で火の粉を散らして爆ぜた。
「な、何しやがる! この野郎!」
「わたしは、野郎じゃないわよ」
がなり立てる男に、少女はサファイア・ブルーの瞳を細めて冷たく言い放った。思わぬ突っ込みに男はぐっと詰まる。
「こ、この野郎…」
「だから野郎じゃないって言ってるでしょ!」
またしても突っ込まれた男は、青筋を立てて顔を真っ赤にしてプルプルと身体を振るわせた。それを見やった少女は、してやったりという顔で笑顔を浮かべる。
「…さすがですね」
今にも飛び掛かろうとする男を片手を挙げて制止した黒ローブの男が言った。
少女が怪訝そうな顔を向けると、黒ローブの男は目深に被っていたフードを取る。
「ショート・スペルからの発動。しかもかなりの精霊力。さすがは、大精霊使いサリア・デル・レイラントのお孫さんというところですか。レミューリア・イオ・レイラント」
青白い頬のこけた顔の男がそういうと男たちがどよめいた。
「大精霊使いサリアの孫!? この娘が?!」
「どうなってんだ!?」
「旦那! 話が違うじゃねぇか!」
男たちが口々に文句を言うのを、黒ローブの男は無表情に受け流した。
「なにも話は違いませんよ。私は少々手強い小娘を片付けて欲しいと言っただけですから」
「少々だと?! ユーテシアのレミューリアって言えば、その筋じゃ有名な精霊使いじゃねぇか!」
先ほど少女、レミューリアに攻撃された男が唾を飛ばしながら言い返す。
「あら、わたしってそんなに有名なんだ?」
しれっと言うレミューリアに、黒ローブの男は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「…ご尊名は聞き及んでおりますよ。若くして高位呪文をほとんど取得されたとか」
無表情に答える黒ローブの男に、他の男たちが言い募る。
「どうすんだよ! 旦那! こちとら精霊魔法なんざ使えねぇぞ!」
動揺が見える男たちに、黒ローブの男は口元を吊り上げながら言った。
「だからこれだけの人数を揃えたんですよ。いかな精霊の使い手と言っても、これだけの人数を一度に相手などできようがないですからね。それに何のために、あなた達の防具に耐性魔法を掛けたと思っているのですか?」
それを聞くと男たちはお互いを見やってニヤリと笑い、余裕な態度に変わった。
「そういや、そうだったな。連続呪文にも限界があるな。しかもこの人数じゃあ、なー」
「そうだなー それに良く見りゃ結構な上玉じゃねぇか。すぐに殺っちまうには惜しいなー ひひひ」
男たちは今までの動揺もどこへやら、打って変わってそれぞれに下卑た笑いを、その薄汚れた顔に張り付けてた。
「良く見ないとわからないなんて、その目、節穴じゃないの?」
あくまで冷静なレミューリアの突っ込みも、男たちは今度は余裕で受け流す。
「ひひひ。いつまでそのくそ生意気な口が続くかなー?」
「…まったく、なめられたものね」
レミューリアが先ほどと同じ呟きをもらすのと同時に、左右の男が申し合わせたように、同時に武器を振り上げて飛び掛ってきた。
レミューリアはそれをチラリと見ると、両手をそれぞれ左右に向けて、なにか聞き取れない言葉を短く紡ぎ出した。すると右手から火球、左手からは水の矢が飛び出した。
「ぐおっ!」
「がはっ!」
無防備に斬りかかってきた男たちは、それらの直撃を受けてその場に膝をついた。防具に掛けられた耐性魔法のお陰で致命傷には至らなかったが、それでもかなりのダメージだ。
無表情だった黒ローブの男が、それを見て初めて動揺した。
「オーバーラップ・スペル!?」
精霊魔法を同時に発動させる方法はいくつかある。単にショート・スペルを連続で唱えるものや、スペルを一音ずつにばらして交互に発音していくものなどがある。どれもそれなりの高位の精霊力が必要であるが、その中でも最高位のものがオーバーラップ・スペルである。これは複数のスペルを同時に発音させるもので、風系精霊魔法を極めて、初めて習得できるものだった。
精霊力によって自らの声を変化させて複数のスペルを重ね合わせた音を紡ぎだす。そうして発声された音は人間にはもはや聞き取れない。そのためスペルによって発動する精霊魔法を気取られないほか、理論的に同時に発動できる精霊魔法は無限と言われている。しかしこれは誰にでも習得できるものではない。複数の精霊魔法を生み出せる精霊力と、頭の中でそれぞれの精霊魔法をイメージして、正確な音を紡ぎ出さなければならないため、極度の集中力が必要である。
同時に発動させる数が多いほど音は複雑になるため、普通の者では二つくらいが限度で、まして集中し難い戦いの場では、ほとんどの者は使うことができない。これを実戦で使いこなすことができたのは、大精霊使いという称号をもつサリア・デル・レイラントただ一人と言われている。また実に12もの精霊魔法を同時に操ったと言われ、それが大精霊使いと伝えられる由縁であった。
それを目の前の小娘は易々と操って見せた。黒ローブの男は、憎悪と羨望の入り交ざった視線をレミューリアに向ける。
「少々侮っていたようですね。オーバーラップ・スペルまでお使いになられるとは、さすがに驚きましたよ」
レミューリアはそれに軽く肩を竦めただけであった。
「サリアは12まで同時に操ったと聞きます。さて、あなたはいくつまで使えるのですかな? …全員、一斉に掛かるのです!」
男たちはそれぞれの防具を盾に一斉に身構えた。
それを見たレミューリアもさすがに表情を改めた。周りを囲む男たちの挙動を油断なく確認する。
誰ともなく男たちが一斉に動こうとした瞬間、歓喜の風が一陣、レミューリア達の周りを吹き抜けた。
〜 県立青陵高校2年4組 2時限目 〜
静かな教室で、一人の男子生徒が立って一生懸命に教科書の英文を訳している。
「…その老人は、ちょうど、その角を曲がった、ところだった… えーと、」
よく日焼けした整った顔に、広い肩幅。着痩せして見えるが制服の上からでもしっかりした体つきであることがわかる。その男子生徒は、英語はあまり得意ではないのか、妙に生傷の多い端正な顔に冷や汗を浮かべて、ちょこちょこと隣の女子に教えてもらいながら必死に訳していた。
「そ、その老人は、その家の前で立ち止まっ」
男子生徒の声が突然途切れた。教卓に座って教科書に視線を落としていた英語教師が顔を上げる。
「またか…」
そういうと教師は溜息をついて立ち上った。
必死に英文を訳していた男子生徒が消えていた。視界から見えなくなったとかいうレベルではなく存在そのものが消えているのだ。しかし、人が一人突然消えたにも関わらず騒ぐ者はいなかった。
「御子神のやつ、またか。今度はどんな格好で現れるかなー」
「この前は、入浴中とか言って、素っ裸だったもんな」
他の男子生徒がなんでもないことのように話している。
「今度は、もっとインパクトが欲しいな」
「だな。女と真っ最中とか? くくく」
「…あなた達、バッカじゃないの。御子神くんはそんなことしないわよ」
近くで聞いていた女子生徒が呆れたように言った。
「静かに!仕方がない。…高橋、続きを訳せ」
「はーい」
消えた男子生徒の隣にいた女子生徒が立ち上がって、続きを訳していく。
何事もなかったように授業は再開されていた。