第22章 Countdown10
第22章:単年度主義の鉄壁――嵐のなかに通貨を縛るもの
財務省・主計局の地下資料室。
分厚い法典と膨大な決算書類が積み上げられたテーブルの周りで、主席主計官と国家予算制度の専門家であるキャリア官僚が、国家の根幹をなす「会計の壁」について激しい議論を交わしていた。
「主計官……私たちのシミュレーションが描く『個別還付契約』や『財政による動的引き締め』を完璧に稼働させるためには、どうしても越えなければならない最大の制度的障壁がある」
若手官僚が、開いた『財政法』の条文を指で強く押さえながら言った。
「それが、『会計年度独立の原則(単年度主義)』です」
主計官は腕を組み、冷徹な視線を宙に漂わせながらうなずいた。
「ああ……日本の財政を縛る最も重い鉄枷だな。それを破らなければ、どんなに美しいインフレ抑制のサーモスタットも、単なる机上の空論で終わる」
一、財政は単年度ですべて使い切る――「単年度主義」という鉄則
主計官はホワイトボードに、日本の財政制度を支える大原則を書き殴った。
会計年度独立の原則の仕組み
日本の憲法および財政法において、国の予算は「その年度内(4月1日〜翌年3月31日)にすべて執行し、使い切る(あるいはその年度の歳出・歳入として厳格に処理する)」ことが義務付けられている。
一般会計の予算は、その年度の税収や国債発行によって得た資金を含め、原則としてその年度の枠内ですべて吐き出さなければならない。余った剰余金は、翌年度の歳入に繰り入れるか、国債の償還財源に充てることが法律で定められている。
「プールし続ける」ことの法的不可能
「つまり、『インフレが過熱しているから、今年度集めた数兆円の税収や強制徴収金を、政府の口座に現金のまま数年間ずっと貯め込んで(プールして)市場から隔離する』という動きは、通常の一般会計予算の枠組みでは完全に違法となる。予算は使い切るか、年度内に処理しなければならないからだ」
「唯一の例外は、特別法に基づいて設置される『基金』という特例の財布だけだ」と、官僚が付け加えた。
「だが、その基金も、インフレ抑制のために民間からマネーを永久に塩漬けにするためのものではなく、あくまで特定の政策目的を中長期で遂行するためのものにすぎない。目的外のプールは厳しく監査院に糾弾される」
二、国債発行・オプション・CDSによる「マネーの足止め」は可能か?
もし法改正を行い、「基金」のような特別な仕組みを拡張して、インフレ時に政府が市中のマネーを強烈に吸い上げようとした場合、金融手法の現場ではどのような矛盾が噴き出すのか。主計官はその残酷なメカニズムを紐解いた。
① 国債の新規大型発行による引き締めと「使ってしまう罠」
引き締め効果: 銀行や投資家、あるいは一般の世帯が保有している現金を使って、新種・大型の国債を政府が発行・販売する。これにより、市中の現金が物理的に政府へと吸収され、インフレ圧力を鎮める「引き締め効果」自体は理論上発生する。
致命的な矛盾: 「問題は、『吸い上げたその莫大な資金をどう扱うか』だ。通常、政府は国債で得た資金を公共事業や社会保障費としてすぐに市場へ放出して使ってしまう。これでは『吸い上げた瞬間にまた市場へバラまいている』のと同じであり、インフレ退治どころか火に油を注ぐことになる。現金を市場から完全に消滅させ、あるいは凍結し続けるためには、集めた資金を一切使わないという異常な政治決断と法改正が必要だ」
② オプション取引やCDSの幻影
中央銀行の領域への越権: 政府や政府系金融機関が市場でオプションやCDSを大々的に売買し、直接的に市中のマネーをガチガチに引き締めるというアプローチは、本来であれば中央銀行(日本銀行)の金融政策の専権事項だ。
市場の破壊とモラルハザード: これを財政政策として政府がやろうとすれば、かえって民間金融機関との間で激しい金利の歪みを生み出し、政府側が巨大なデリバティブの評価損を抱えて破綻するリスク(モラルハザードの温床)を孕むことになる。
三、近代財政と中央銀行の「越えられない境界線」
「結局のところ……」
主計官はチョークを置き、重苦しい静寂の中で呟いた。
「財政は単年度で使い切るのが鉄則であり、一般会計の資金を政府の手元で何年もプールし続けることは法的にできない。そして、国債を大量発行して市中から現金を吸い上げることでインフレを抑え込もうとしても、政府には『集めた金をすぐに使ってしまう』という業が備わっている」
「嵐が去るまで通貨を足止めしてプールさせておく――そんなスマートな防波堤を作るためには、現行の『財政法』の解釈を変えるだけではなく、中央銀行制度との権限の境界線を完全に塗り替えるほどの『全く新しい国家インフラの設計』が不可欠なのだ」
若手官僚は、目の前にそびえ立つ法制度と現実の壁の圧倒的な高さを実感し、深く息を吐き出した。
「……財務省の財布と、日銀の金融政策。その二つの巨大な歯車がかみ合わない限り、私たちはどんなに精緻なインフレ抑制の青写真を描いても、単年度の予算執行という名の荒波に押し流されてしまうということですね」
「その通りだ」
主計官は冷ややかに微笑み、資料の束を閉じた。
「制度の壁を舐めてはならん。改革とは、常にその不文律の岩盤をいかに砕くかという血みどろの作業なのだからな」




