ムカつく営業同期と付き合って、初めて飲みに行ったら終電がなくなりました
金曜日の夜、ようやくオフィスの空気が緩み始めていた。
時計の針はもう八時を回っている。営業部のフロアにはまだ人が残っていたが、さすがに一週間の終わりだけあって、みんなどこか少し気が抜けた顔をしていた。
あちこちで「お先に失礼します」「お疲れさまです」が飛び交い、パソコンを閉じる音や引き出しを開ける音が、いつもよりやわらかく響く。
澪もようやく最後のメールを返し終えて、小さく息を吐いた。
今週は長かった。大阪案件の受注から始まって、その後の社内共有、追加資料の対応まで、気が抜けない日が続いていた。
仕事としては充実していたけれど、そのぶん神経も体力も思った以上に使っていたらしい。
ノートパソコンを閉じると、視界の端に斜め前の席が入る。
神谷も、ちょうど同じタイミングで仕事を終えたところだった。
ネクタイを少し緩めて、デスクの上の書類を整えている。その横顔は会社で見慣れているはずなのに、金曜の緩んだ空気の中だと、どこか少しだけ違って見えた。
付き合い始めてから、会社の中ではなんとか普通を装えている。
少なくとも、表向きは。でも仕事が終わって、帰るだけの時間になると、急に距離感がわからなくなる。
視線を戻そうとした、その時だった。
「朝比奈」
聞き慣れた声に、澪の肩がぴくりと揺れる。
「……なに」
できるだけ平静を装って顔を上げると、神谷はデスクの脇に立ったまま、いつもの落ち着いた顔でこちらを見ていた。
ほんの少しだけ、仕事の緊張が抜けたようなやわらかい表情。
「今日も遅くなっちゃったね」
「まあね」
「金曜なのに、普通に残業だったし」
「だな」
神谷は小さく笑って、それから続けた。
「一週間お疲れ」
「この後さ、飲みに行かない?」
一瞬、意味が頭に入ってこなかった。
「……え」
あまりにも自然な言い方で、余計に心臓が跳ねる。
神谷と付き合ってから初めて、仕事終わりに二人きりで飲みに行く。
つまり、デート。
その事実がゆっくり胸の内に落ちてきて、澪はすぐに返事ができなかった。
「……朝比奈?」
神谷が少しだけ首をかしげる。
その顔が、ほんのわずかに不安そうに見えて、澪はようやく我に返った。
「い、行く」
思ったより少しだけ早口になった。
それが恥ずかしくて、澪はすぐに視線を逸らす。
「……飲み、行きたい」
言い直すと、神谷はふっと目元をやわらげた。
「よかった」
たったそれだけなのに、顔が熱くなる。
ほんとにだめだと思う。付き合い始めてから、こういう小さな言葉のひとつひとつに、いちいち反応してしまう自分が情けない。
澪がごまかすようにバッグへ手を伸ばすと、神谷が少しだけ間を置いて口を開いた。
「……緊張してる?」
その問いに、澪の手が止まる。
「してない」
ほとんど反射で返した。神谷はそれを聞いて、少しだけ笑う。
「俺はちょっとしてる」
澪は顔を上げた。
「……え?」
ちょっと予想外で、変な声が出た。神谷は本気とも冗談とも取れないような目をしている。
「二人だけで飲むの何気に初めてだし」
「普通に、ちょっとだけ」
本当かは分からないが、そういう事をさらっと言うところがずるい。
意識しているのが自分だけではないと思っただけで、胸の奥がじわっと熱くなる。
澪は何か返したかったのに、うまく言葉が出てこない。
ただ顔が熱くなるのが自分でもわかって、慌ててバッグを持ち上げた。
「……そういうの、急に言わないで」
ようやく絞り出した声は、思った以上に小さかった。
神谷は少しだけ目を細めたが、それ以上は何も言わない。
「じゃ、行こうか」
その一言に、澪は小さく頷くしかなかった。
神谷と並んでフロアを出る。
さっきまで仕事をしていた場所を離れただけなのに、妙に落ち着かない。
エレベーターを待つあいだも、二人きりで立っていることを意識してしまって、澪はなんとなくバッグの持ち手を握り直した。
神谷はそんな澪の様子を気にしているのかいないのか、静かに隣に立っている。
やがてエレベーターが着き、二人で乗り込む。
箱の中にはほかに誰もいなくて、閉まるドアの音が思ったより大きく響いた。
「……」
「……」
急に何を話せばいいのかわからなくなる。
仕事中ならいくらでも言葉は出てくるのに、こういう時に限ってうまくいかないのが悔しい。
先に口を開いたのは神谷だった。
「何飲みたいとかある?」
「え」
「店」
「食べたいものあれば」
そう聞かれて、澪は少しだけ肩の力を抜いた。
こうやって普通に会話をつないでくれるのがありがたい。
「……ワイン飲みたいかも」
「いいね!」
「じゃあ、そのへんで探す」
「ありがとう」
それだけのやり取りなのに、少しだけ空気がやわらぐ。
エレベーターが一階に着いて、二人はロビーへ出た。
夜のビルを抜けると、外の空気は思ったより少しだけ涼しかった。
仕事終わりの人たちが足早に駅へ向かっていて、街の灯りも金曜らしくにぎやかだ。会社の中にいた時とは違う音と匂いに包まれた途端、ようやく本当に仕事が終わったのだと実感する。
「なんか、やっと一週間終わったって感じする」
澪がぽつりと漏らすと、神谷が隣で小さく笑った。
「わかる」
「今週、体感長かったし」
「長かった」
「十日くらいあった気分」
「それは言いすぎ」
自然にそんな会話ができることに、澪は少しだけほっとする。
会社の外に出たからといって急に何かが変わるわけじゃない。
それでも、並んで歩いているだけで少しだけ特別な夜みたいに感じるのは、もうどうしようもなかった。
オフィス街を抜けて大通りへ出る。
人の流れはまだ多いけれど、会社の同僚と鉢合わせるような距離ではない。
そのタイミングで、神谷がふと歩調をゆるめた。
澪が不思議に思って顔を上げると、神谷は少しだけ迷うみたいな間を置いてから、そっと片手を差し出した。
「……もう繋いでもいい?」
その声は低くて、でもどこか控えめだった。
澪は一瞬だけ、その手を見つめた。長い指。仕事中、資料をめくったり、キーボードを打ったりしているのを何度も見てきた手。
でも今はそれが、会社の時とはまるで違って見える。
「……うん」
小さく答えると、神谷の目元がほんの少しやわらいだ。
澪はそっとその手に自分の手を重ねる。
指先が触れた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
すぐに神谷の手がやさしく握り返してくる。
強すぎず、優しい手のひらの温度が、じんわりと伝わった。
「……なんか、変な感じ」
澪が思わず呟くと、神谷が隣で少しだけ笑う。
「何それ」
「だって」
「神谷とこういうの、まだ慣れないし」
「俺も」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
その返事が思ったよりやわらかくて、澪は少しだけ俯いた。
手をつないで歩くだけなのに、街の見え方まで少し変わってしまう気がする。
仕事終わりに軽く飲みに行くだけ。そう思っていたはずなのに、もうその時点で、今日の夜は少し特別なものになり始めていた。
手をつないだまま少し歩いたところで、神谷が立ち止まる。
「この店とかどう?」
差し出されたスマートフォンを覗き込む。
画面には、路地裏にある小さなイタリアンバルのページが開かれていた。木目調の店内、カウンターとテーブル席、前菜の盛り合わせとワイングラスの写真。気取りすぎていないのに、少しだけ特別感があって、今の気分にちょうどいい。
「……いいかも」
「美味しそう」
そう返すと、神谷が小さく笑った。
「じゃあここで」
その言い方があまりにも自然で、澪はまた少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
こういう店をさらっと見つけるあたり、やっぱりセンスがいい。仕事ができるだけじゃなくて、こういうところまで抜かりないのは、少し前までは悔しくてムカついていたのに、今は嫌じゃなかった。
店は駅から少し離れた細い通りにあった。
金曜の夜らしく店内はそれなりに賑わっていたが、騒がしすぎることはなく、照明もほどよく落ち着いている。案内された二人掛けのテーブル席に向かい合って座ると、ようやく二人きりで飲みに来た実感がじわじわ湧いてきた。
澪はバッグを椅子の脇に置きながら、そっと息を整える。
「何飲む?」
メニューを開きながら神谷が聞く。
澪はワインのページに視線を落とした。
少し迷っていると、神谷がメニューの端を軽く指でなぞった。
「最初、スパークリングにする?」
「金曜日だし」
その提案が妙にしっくりきて、澪は顔を上げる。
「……いいね」
「じゃあ、それで」
店員を呼んで、神谷が慣れた様子で注文をする。
その横顔を見ながら、澪は自分の手元のナプキンをそっと整えた。まだ少しだけ緊張している。
でも、その緊張は不思議と嫌ではなかった。
「こういう感じの店、よく来るの?」
なんとなく聞くと、神谷は水のグラスに手を伸ばしながら答えた。
「たまに」
「仕事帰りに使うにはちょうどいいし」
「へえ」
「何」
「意外だった?」
「いや、神谷っぽい」
「どういう意味」
神谷が軽く笑う。
その何気ないやり取りに、澪も少しだけ肩の力を抜いた。
ほどなくして、細いフルートグラスに入ったスパークリングが運ばれてくる。
きめ細かな泡が上がっていくのを見ているだけで、張っていた気持ちが少しやわらぐ気がした。
神谷がグラスを持ち上げる。
「一週間お疲れさま」
澪もそれにならってグラスを持つ。
「……お疲れさま」
小さく触れ合ったグラスが、澄んだ音を立てた。
ひと口飲むと、冷たくてすっきりしていて、喉を通る瞬間にようやく一週間が終わったのだと実感した。
「美味しい」
思わずこぼすと、神谷が少しだけ目を細める。
「よかった」
その言い方がやさしくて、澪はまた少しだけ視線を逸らした。
料理をいくつか頼んで、改めて向かい合う。
まだ会話の間にほんの少しだけ照れがある。けれど、そのぎこちなさが逆に楽しかった。
「大阪の案件、上手くまとまりそうでよかったね」
神谷がグラスを置きながら言う。
「ね、ほんと良かった」
「大変だったけどね」
澪もそう返して、ワイングラスの脚にそっと指を添えた。
あの出張から、まだ一週間しかたってないことが不思議だった。
神社で貰った不思議な御守のせいで、彼の本心を知り、意識し始めた。
わけのわからない現象にただただ困惑していたが、今思えば、あの時の寄り道のおかげで今の二人がある。
「……なんか、あの出張から一気に色々あったよね」
ぽつりとこぼすと、神谷が小さく笑う。
「それはそうかも」
「ホテルの件もあったし」
「思い出させないで」
「何で」
「落ち着かなくなるから」
そう言ってから、澪はしまったと思った。
神谷の目がわずかに細くなる。
「今でも?」
「……今だから、余計にでしょ」
小さく言い返すと、神谷はグラスを傾けながら、どこか満足そうに口元を緩めた。
「まあ、俺もあの日はだいぶ落ち着かなかったけど」
「え」
「朝比奈、全然気づいてなかったよね」
そんなふうに言われて、澪は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
ちょうどその時、前菜の盛り合わせが運ばれてきた。
オリーブ、ハム、チーズ、焼いた野菜。どれも少しずつで、ワインに合いそうなものばかりだ。
「美味しそう」
澪が素直に言うと、神谷が頷く。
「朝比奈、こういうの好きそう」
「……うん、好き」
「だと思った」
「何で分かるの」
「なんとなく」
なんとなくで分かるところが、また悔しかったが、少しだけ嬉しくもあった。
スパークリングをもうひと口飲む。 店の空気にも、神谷の向かいに座っていることにも、少しずつ身体が慣れていく。
最初に感じていた緊張は、いつの間にかやわらかいものに変わっていった。
「朝比奈って、休みの日なにしてるの」
神谷が何気なく聞いてくる。
「え、急に?」
「仕事の話ばっかりしてるのもあれだし」
そう言われると、たしかにその通りだった。
会社では毎日のように顔を合わせているのに、こういう話はあまりしたことがない。
「……寝てるかも」
正直に答えると、神谷が少し意外そうに目を上げた。
「へえ、意外」
「そう?」
「うん、朝比奈ってちゃんとしてそうだし」
「……でも確かにそうか」
その言い方に、澪は思わず眉を寄せる。
「何が?」
「朝比奈って朝弱いもんね」
「この間のホテルの時に知った」
寝起きでぼんやりしたまま神谷と目が合って、慌てて襟元を押さえたあの瞬間まで、妙に鮮明によみがえる。
「……っ」
澪の耳まで熱くなる。
「だから思い出させないでってば」
神谷はその反応を見て、楽しそうに笑っている。
絶対わかってて、からかっている。
「神谷は?」
話を逸らすように聞くと、神谷は肩の力を抜いたまま答えた。
「俺?」
「わりと適当。家でだらだらする時もあるし、外出る時もある」
「雑」
「じゃあ、もうちょいちゃんと言うと」
「昼まで寝て、コーヒー飲んで、気が向いたら出かける」
「それ、私と大差なくない?」
「違うよ、コーヒー飲んでる」
「私だってコーヒーくらい飲むし」
言い返しながら、澪はまた笑ってしまう。
自分でも少し驚くくらい自然に声が出ていた。
神谷がふと、その笑った顔を見たまま動きを止める。
「……なに」
澪が気づいて問い返すと、神谷は少しだけ目を細めた。
「いや」
「そういう顔見られるの、ちょっと嬉しい」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……え?」
「会社だともっと、かっちりしてるというか」
「そうやって自然に笑うの、あんまり見たことなかったから」
そんなふうに見られていたのかと思うと、胸の奥がくすぐったくなる。
会社ではいつも気を張っているし、神谷の前ではなおさらだ。
「……別に、普通じゃない?」
少しだけ恥ずかしくして、わざと知らないふうに返す。
「うん。でも、素の朝比奈見られるのは嬉しい」
そう言った神谷の瞳が妙に真っ直ぐで、澪は視線を逸らした。
「そういうの、急に言わないで」
「思ったから言っただけ」
「それが困るの」
「困ってる顔も割と好き」
「神谷」
「はい」
名前を呼んだだけなのに、神谷は楽しそうに返してくる。
恥ずかしいのに、嫌じゃない。
むしろそんなふうに自分を見ていたのかと思うと、少しだけうれしくて、余計に落ち着かなくなる。
そのあとも会話は途切れなかった。
最近見た映画の話とか、学生の頃はどんな店に行っていたとか、意外と甘いものが好きとか、仕事の時にはしないようなことばかり。
どれも大した話じゃないのに、神谷とこんなふうに向かい合って話しているだけで、今日の夜が特別なものみたいに思えてしまう。
気づけばスパークリングは空いていて、二杯目のワインも思ったより進んでいた。
頬が少し熱いのは、店の照明のせいだけじゃない気がする。
「……楽しい」
ぽろっとこぼすと、神谷がグラス越しにこちらを見る。
「よかった」
「俺も」
その返しが静かで、澪は胸の奥がふっとあたたかくなるのを感じた。
食事もだいぶ進んで、最初のぎこちなさはもうほとんどなくなっていた。
このまま帰っても、きっと十分いい夜だと思う。なのに、終わりが近づいてくると少しだけ惜しい気持ちになる。
神谷が手元のスマートフォンで時間を確認して、それから顔を上げた。
「もう一軒くらいなら行ける?」
低くやわらかい声だった。
「まだ話し足りないし」
一瞬、心臓が跳ねる。
自分だけじゃなかったんだと思って、澪は視線を落としたまま小さく笑った。
「……うん」
「行く」
そう返すと、神谷の表情が少しだけやわらぐ。
「よかった」
その言い方が、また少しだけうれしくて、澪はグラスの残りをそっと飲み干した。
金曜の夜は、もう少しだけ続くらしい。
***
店を出ると、少し冷えた夜風が頬に触れた。
ワインと食事でほてった身体にちょうど良かった。自分が思っていたより酔っているのかもしれないと感じる。
「寒くない?」
歩き出しながら神谷が聞く。
「大丈夫」
「むしろちょっと気持ちいいかも」
「ならよかった」
神谷はそれだけ言って、数歩先へ出る。
その背中を見ながら澪もあとに続いた。
駅とは反対方向へ少し入った通りに差しかかったところで、神谷は何も言わずにただ、歩く速度を少しだけ緩めて、自然な動きで澪の手を取った。
「……っ」
一瞬だけ、心臓が跳ねる。
さっきは声かけてくれたのに。
澪が何か言うより前に、その手はもう当たり前みたいに指を絡めてきている。
澪が黙ったままその横顔を見ると、神谷は前を向いたまま少しだけ口元を緩めた。
「何」
「……別に」
「ふーん」
それだけのやり取りなのに、さっきよりまた少しだけ距離が縮まった気がした。
しばらく二人で並んで歩く。
通りの明かりは少し落ち着いていて、金曜の夜らしく、どの店からも人の話し声や笑い声が流れてくる。
「朝比奈、やっぱりお酒強いよね」
神谷が前を向いたまま言った。
「何それ」
「いや、普通に思ってた」
「でも無理しすぎは危ないから」
おそらく、先週の会食のことを言っているのだろう。
あの夜は、先方に勧められるままグラスを重ねて、だいぶ飲んだ気がする。
澪は少しだけ視線を落とした。
「……だって、あの時は雰囲気壊したくなかったから」
手をつないだまま、小さく続ける。
「でも、神谷がいてくれてよかった」
「……ありがとう」
神谷は一瞬だけ黙った。
それから、いつもより少しだけやわらかい声で言う。
「どういたしまして」
少し間が空く。
「でも、俺が一緒じゃない時はほんと気をつけて」
その声が思っていたより低くて、澪は思わず神谷の横顔を見た。
いつもより、ほんの少し真剣な顔。
「……わかった」
澪が小さく答えると、神谷はそれ以上何も言わなかった。
ただ繋いだ手に、ほんの少しだけ力がこもる。
やがて神谷が足を止める。
「ここ」
視線を上げると、通りの奥に、落ち着いた照明のバーが見えた。
ガラス越しの灯りが静かで、1軒目より少しだけ大人っぽい空気がある。
「……いい感じ」
澪が言うと、神谷は満足そうに頷いた。
「でしょ」
そうして神谷は、手を繋いだままドアに手をかけた。
店の中は、落ち着いた空気だった。
照明はほどよく暗く、奥の棚にはボトルが静かに並んでいる。金曜の夜らしく客はそれなりに入っていたが、騒がしさはなく、低く流れる音楽とグラスの触れ合う音だけがやわらかく耳に残る。
「二名で」
神谷がそう告げると、カウンターの端の席に案内された。
席についてようやく手が離れる。さっきまでの温度が、掌の内側にうっすら残っていて少しだけくすぐったい。
「何飲む?」
神谷がメニューを開きながら聞いてくる。
澪も横から覗き込んだものの、並んだ名前を見ても正直よくわからない。
「……こういうとこ来ると、やっぱりよくわかんない」
小さく呟くと、神谷が少しだけ笑う。
「また選んであげようか」
その言い方に、澪は一瞬だけ息を止めた。
告白される前のあの夜、神谷を追いかけて入ったバーでも、結局こうして選んでもらったことを思い出す。
「……うん、お願い」
少しだけ恥ずかしくなって視線を落とすと、神谷は何も言わずにメニューを軽くめくった。
「これなら飲みやすそう」
「白ワインベースで、そんなに重くないって」
「じゃあ、それにする」
「了解、俺はウイスキーにしよ」
神谷が自然な調子で注文を決める。
その様子を見ながら、澪はまた少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。こういう時にさっと選んでくれるのが、悔しいけどかっこいい。
注文を終えると、少しの沈黙が落ちる。
けれど、もう気まずさはなかった。
「こうして二人で飲むの、ありそうでなかったね」
「あの夜が初めて」
神谷が前を向いたまま目を細めて言う。
澪はまた告白された日を思い出した。
「……たしかに」
「あの時、朝比奈が追いかけてきてくれてよかった」
あまりにもまっすぐ言われて、澪は思わず神谷の横顔を見る。
「……何それ」
「だってほんとだし」
「おかげで付き合えたんだから」
澪は一瞬で頬が熱くなるのを感じた。
「それ、今さら言う?」
「思い出したから」
「ずるい」
そう言い返すと、神谷が低く笑った。
その笑い方がやわらかくて、澪は少しだけ視線を逸らす。
そこへグラスが運ばれてくる。
澪の前には淡い色のワインカクテル、神谷の前には琥珀色のウイスキー。
神谷が軽くグラスを持ち上げるので、澪もそれにならった。
「二軒目」
「……二軒目」
小さくグラスを合わせる。
ひと口飲むと、ワインの華やかな香りとジンジャエールの炭酸が弾けて喉にすっと落ちる。
「どう?」
「おいしい」
「これも好きかも」
「よかった」
神谷はそう言って、自分のグラスを傾ける。
その横顔を見ながら、澪はまた少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
少し間を置いて、神谷がぽつりと呟く。
「あとさ、ずっと思ってたんだけど」
「会社でテンパってる朝比奈、かわいいよね」
澪は危うくグラスを落としかけた。
「……え?」
「そのまんま」
「残業の時とか、明らかにいつもと違ったし」
「ちょっとやめて」
「なんで」
「恥ずかしいから」
そう返しながらも、声が少しだけ弱い。
神谷は楽しそうに笑っている。
「だってほんとだったし」
「会社で頑張って隠そうとしてる感じ、わりと全部出てた」
「神谷が隠すのうますぎるの」
澪がむっとして言うと、神谷は「えー」とわざとらしく眉を上げた。
「俺だってちゃんと危なかったよ」
「そう見えない」
「朝比奈が見てないだけ」
さらっとそう返されて、澪はまた言葉に詰まる。
こういう言い方がずるい。本当かもしれないけど、自分だけが動揺してるみたいで。
「……ほんと、ずるい」
小さく零すと、神谷が横で笑った。
仕事終わりに軽く飲むだけのはずだったのに、こうして二人で並んでいると、時間の流れが少しだけ遅くなったみたいに感じる。
澪はグラスを口元に運んで、そっと視線を落とした。
バーの空気は一軒目より静かで、隣にいる神谷の気配が余計に近く感じる。
会話は途切れていないのに、言葉のあいだに少しだけ濃い沈黙が混じるようになっていた。
神谷がグラスを傾けながら、横目で澪を見る。
「朝比奈、今日ちょっと酔ってる?」
その問いに、澪は一瞬だけ考えるふりをした。
たしかに少し酔いが回っている。
そんなに飲んだ気はしないのに。
「……ちょっとだけ」
「へえ」
「……楽しくて飲み過ぎたのかも」
言った瞬間、普段なら絶対口にしない素直なセリフに自分でも驚く。
隣で神谷が動きを止める気配がした。
「……急に素直なのやめて」
低く落ちてきた声に、澪の心臓がひとつ大きく跳ねる。
「なにそれ」
「そのまんま」
「普通に困る」
「困るって何よ」
「わかってて聞いてる?」
そう返されて、澪はグラスに視線を落とした。
わかっているような、わからないような。
ただ、神谷の声が少しだけ掠れたいて、それが妙に耳に残った。
それをごまかすみたいに、澪はもうひと口だけグラスに口をつける。
隣で神谷も小さく息を吐いて、それ以上は何も言わなかった。
「そういえば」
神谷がグラスを置きながら言う。
「朝比奈、こういうとこ来るの好き?」
「嫌いじゃないよ」
「静かだし、話しやすいし」
「じゃあ、覚えとく」
「……何で」
「また来よう」
さらっと言われて、澪はまた少しだけ頬が熱くなる。
覚えとく、なんて言い方がずるい。
「神谷って、そういうのほんと自然に言うよね」
「そういうのって?」
「……キザなこと」
神谷が笑う。
澪もむっとしたふりをしながら、結局つられて笑ってしまう。
何杯目だったかも曖昧になるくらい、会話は途切れず続いていた。静かな店の空気も、肩が触れそうな距離も、今はひどく心地いい。このままもう少しだけ続けばいいのに、と何度も思った。
ふと、隣で神谷がスマートフォンを手に取る。
「……あ」
小さく漏れた声に、澪は顔を向けた。
「なに?」
神谷は画面を見たまま、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「いや、これ」
「終電、ちょっと厳しいかも」
「え」
澪も慌ててバッグからスマホを取り出した。
時刻を見て、一瞬で酔いが引く。
「うそ」
終電まで、もうほとんど余裕がない。
乗り換えのことまで考えたら、かなりきわどい時間だった。
さっきまでのやわらかな空気に、急に現実が差し込んでくる。
焦りと同時に、胸の奥で何かが小さく揺れるのを、澪ははっきり感じていた。
神谷はスマートフォンの画面を見たまま呟いた。
「……タクシー呼ぼうか?」
低く落ち着いた声だった。
酔いの残る頭に、その言葉だけがやけにくっきり響く。
澪も自分のスマホを開いて、時間を見た。
終電までは、もうほとんど余裕がない。帰るなら、今すぐ店を出ないといけない。
そうわかっているのに、澪の指は画面の上で止まったままだった。
二人の間に沈黙が落ちる。
もう、帰らないといけない。
だが、それが嫌だと感じている自分がいる。
ここで終わりたくない。まだ、帰りたくない。
一度思ってしまったらもう考えは止まらない。
「……朝比奈?」
神谷が少しだけ声をやわらげて、名前を呼ぶ。
その呼び方に背中を押されるみたいに、澪はゆっくり顔を上げた。
「……もう少しだけ」
思ったよりも声が出なくて、消え入りそうだった。
「もう少しだけ、一緒にいたい」
言った瞬間、心臓がどくんと大きく跳ねる。
自分からそんなことを言うなんて思っていなかった。
顔から火がでそうなほど熱い。
神谷が一瞬だけ黙る。
カウンターの向こうで氷の当たる音がして、店の奥では誰かの笑い声がかすかに重なる。
なのに、澪にはそのどれも遠く感じられた。
「………」
神谷はすぐには何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を落として、それから澪を見る。
「……俺の家、近いけど来る?」
静かな声に、澪の鼓動はまた一段大きくなる。
神谷の家。
それがどういうことなのか、わからないほど子供ではない。
けれど不思議と、怖さはなかった。
心臓は今まで聞いたことないほど激しく脈打っている。
澪は唇をきゅっと結んで、それから小さく頷く。
「……うん」
神谷の目が、ほんの少しだけやわらいだ。
「わかった」
それだけ言って、神谷はすっと立ち上がる。
伝票を取る手つきまで、妙に落ち着いて見えて、澪はまた少しだけ落ち着かなくなる。
「え、待って、私も出す」
「いいよ」
「ここは出させて」
「でも」
「朝比奈」
名前を呼ばれて、澪は言葉を止めた。
神谷は困ったように少しだけ笑う。
「ね?」
その優しい声音に、澪は何も返せず頷くしか無かった。
神谷が会計を済ませ、店員に軽く会釈して振り返る。
「行こっか」
「……うん」
そう言って二人は席を立った。
***
店を出ると、夜の空気は先程よりも少しだけ冷えていた。
さっきまでいたバーのやわらかな空気がふっと遠のいて、代わりに夜の街のざわめきが耳に入ってくる。終電間際らしく、駅へ向かう人の足取りはどこか急いでいて、通りに並ぶ店の明かりも少しずつ落ち始めていた。
神谷の家までは、歩いて十五分くらいだと言っていた。
二人で並んで歩き出す。
バーの中ではするすると言葉が出ていたはずなのに、外へ出た途端、二人の間に沈黙が落ちる。
一軒目、二軒目と自然に繋がれていた手は、神谷のコートのポケットに入ったままだ。
澪はそれが何となく気になった。
神谷は前を向いて歩いていて、横顔はいつも通り落ち着いて見える。なのに、どこか話しかけづらい空気があった。
「……神谷」
「ん?」
呼んでみたものの、その先が出てこない。
神谷が少しだけこちらを向く。
「何?」
「……いや」
神谷のコートの袖口が、すぐそこにある。
澪はほんの少しためらってから、そっとその袖を引いた。
神谷が足を止める。
それにつられて、澪も立ち止まった。
「朝比奈?」
澪は視線を逸らしたまま、小さく口を開く。
「……手」
「え」
神谷の声が少しだけ低くなる。
澪はますます顔が熱くなるのを感じた。
けれど、ここまで来て今さら引けなかった。
「……繋がないの?」
言ってしまった瞬間、心臓が大きく鳴る。
恥ずかしくて、まともに顔なんて上げられない。
数秒、沈黙が落ちた。
神谷は何も言わなかった。
ただ、澪の指先がつまんだままの袖口に目を落として、それから小さく息を吐く。
「……ほんと」
ひとりごとみたいに呟いて、ようやくポケットから手を出す。
そのまま澪の手を取って、指を絡める。
さっきまでより少しだけ指先に力がこもっているような気がした。
澪はそっと顔を上げた。
神谷は前を向いたまま、何も言わない。
ただ、絡めた指先の熱だけが伝わる。
二人はまた歩き出す。
今度は、さっきより少しだけ距離が近い。
少し先に、コンビニの明かりが見えた。
神谷がそちらを見て、歩幅をゆるめる。
「……何か買う?」
「水とか、そのへん」
澪は小さく瞬きをした。
神谷の家へ行く現実が、また少しだけ近づいた気がした。
「……うん」
「ちょっとだけ寄りたいかも」
そう答えると、神谷は短く頷いて、そのままコンビニの自動ドアを押した。
明るい店内に入った途端、夜道の静かな空気がふっと切れる。 流れている軽い音楽と、レジの電子音。見慣れたはずのコンビニなのに、澪は妙に落ち着かなかった。
神谷は買い物かごをひとつ取って、何でもない顔で言う。
「水と、あと必要そうなものあったら入れて」
「……うん」
澪は小さく返して、まず冷蔵ケースの前でミネラルウォーターを手に取った。その隣にあったお茶にも少し迷ったけれど、結局また水を一本。神谷もブラックの缶コーヒーと炭酸水をかごに入れている。
その流れで日用品の棚の前を通る。歯ブラシ、メイク落としシート、小さなスキンケア用品。何気なく並んだそれらが、急に現実を帯びて見えた。
神谷の家に行く。
しかも、そのまま泊まることになるのだと、ようやく実感が追いついてきて、澪は思わず足を止める。
「……っ」
その視線の先を追うように、神谷も棚を見る。
それから、何でもない顔でひとつ頷いた。
「それもいるよね?」
あまりに自然な言い方で、澪は一瞬だけ返事に詰まった。
「……あ、うん」
「メイク落としも?」
「……いる」
答えながら、耳のあたりが熱くなる。
「じゃあ、そのへん入れときな」
「……うん」
澪はなるべく平静を装って、メイク落としシートと歯ブラシをかごに入れた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙にそわそわする。
神谷は何も言わずに、レジへ向かってまとめて会計を済ませる。
コンビニを出ると、神谷が今度は自然に澪の手を取って歩き出す。
街の明かりを抜けて、少し暗い通りへ入っていく。
「……あとどれくらい?」
澪がぽつりと言うと、神谷が前を向いたまま答える。
「もうちょっと」
「あと五分くらいかな」
「そっか」
会話はそれだけで、また少し沈黙が落ちる。
しばらく歩くと、大通りを外れた先に、落ち着いた色のマンションが見えてきた。5階建てで、シンプルなエントランスに夜の照明が静かに灯っている。
神谷が足を止める。
「ここ」
澪も立ち止まって、目の前の建物を見上げた。
「……なんか、神谷っぽい」
「何それ」
「ちゃんとしてる感じ」
「適当な感想だな」
神谷が小さく笑う。
その笑い声に少しだけ緊張がほどけるけれど、胸の奥はまた別の意味で忙しくなっていた。
神谷はエントランスのオートロックを開けながら、ちらりと澪を見る。
「どうぞ」
開いたドアの向こうへ、澪は静かに足を踏み入れる。
エントランスを抜け、静かな共用廊下を歩く。
さっきまで人の声や車の音に紛れていた鼓動が、今はやけに近く聞こえる。神谷は隣で何事もない顔をしているのに、澪の方だけが落ち着かなかった。
エレベーターに乗って、目的の階で降りる。
足音を吸うような静かな廊下を少し歩いて、神谷がひとつのドアの前で立ち止まった。
鍵の開く音。その何気ない音だけで、また胸が跳ねる。
「先入って」
神谷がそう言ってドアを開ける。
澪は小さく息を整えてから、中へ足を踏み入れた。
「……お邪魔します」
玄関はすっきりしていた。
靴がきちんと揃っていて、床にも余計なものはない。神谷らしい、整った空間だった。
上がってすぐの場所に、淡い色のラグが敷かれたリビングが見える。ソファとローテーブル、壁際には背の低い棚。間接照明のあたたかい光が部屋の輪郭をやわらかくしていて、思っていたよりずっと落ち着いた雰囲気だった。
「……なんか、ほんとに神谷っぽい」
思わず口にすると、後ろで靴を脱いでいた神谷が小さく笑った。
「また言ってる」
「だって本当にそんな感じするから」
「何それ」
そう言いながらも、神谷は少しだけ楽しそうだった。
澪はリビングの手前で立ち尽くしたまま、どこに座ればいいのか一瞬迷う。
「適当に座ってて」
神谷がさらっと言って、キッチンの方へ向かった。
「あ、うん……」
その言い方に少しだけ救われて、澪はソファの端にそっと腰を下ろす。落ち着くために膝の上で手を組むけれど、全然落ち着かなかった。
少しして、神谷がグラスを二つ持って戻ってきた。片方を澪の前のローテーブルに置いて、もう片方を自分の前に置く。
「はい、水」
「ありがと」
受け取ったグラスはひんやりしていて、指先に心地よかった。
澪はひと口だけ飲んで、ようやく少し息をつく。
「疲れてるでしょ」
「先に風呂使っていいよ」
「え」
急にそう言われて、澪は瞬きをする。
「でも、神谷の方が」
「俺は後でいい」
「朝比奈、髪も乾かさないとだろうし」
気を遣わせないような自然な言い方で、また神谷の優しさに気づく。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん」
神谷は短く頷くと、部屋の奥の扉の方を指した。
「洗面所その奥」
「タオル出すからちょっと待って」
そう言って棚の方へ向かい、引き出しを開ける。
白いタオルを一枚取り出して、それから少しだけ考えるように視線を動かした。
「着替えも貸すよ」
「……あ」
確かにこの服のままでは眠れない。
神谷はクローゼットの方から運動着のようなものを取り出してくる。
「ごめん、ちょっと大きいかもだけど」
そう言って渡されたのは、柔らかそうなロンTとバスパンだった。神谷の私服。
それを手に乗せられた瞬間、澪の心臓がまた大きく跳ねる。
「……ありがと」
どうにかそれだけ言うと、神谷は何でもない顔で頷いた。
「シャンプーとかはそのまま使っていいから」
「何か足りなかったら言って」
「うん」
返事をしながら、澪は腕の中の服を見下ろした。ほんの少しだけ、神谷の匂いがした気がする。
だめだ。この時点でもう、全然平常心じゃない。
「じゃあ、借りるね」
「どうぞ」
神谷はそれ以上何も言わなかった。
澪はタオルと服を抱えたまま立ち上がり、洗面所へ向かう。
扉の前で一度だけ振り返ると、神谷はもうキッチンの方に視線を戻していた。
***
洗面所の扉を閉めた瞬間、澪は小さく息を吐いた。
「……無理」
思わず漏れた声は、自分にしか聞こえないくらい小さい。
けれど、それくらい言わないと落ち着かないほど、心臓がずっと忙しかった。
洗面台の鏡に映る自分は、思っていたよりずっと顔が赤い。酔いのせいもあるのだろうけれど、それだけじゃないのは自分でもわかっていた。
神谷の家にいる。
こうして洗面所に一人になると、それが一気に現実となって押し寄せてくる。
メイク落としシートを手に取って、鏡の中の自分を見つめる。 仕事帰りの顔。少し酔って、照れて、かなり落ち着きがない。
「……何やってるんだろ、私」
小さく呟いてから、そっとメイクを落とし始める。
ファンデーションが消えていくたびに、どこか無防備になっていく気がして、それもまた落ち着かなかった。
服を脱いで浴室に入る。シャワーを出すと、あたたかい湯気がいっぱいに広がった。肩にかかったお湯の熱さに、ようやく少しだけ身体の力が抜ける。
一週間ずっと張っていた気持ちが、少しずつほどけていく。仕事の疲れも、お酒の火照りも、湯気の中に溶けていくみたいだった。
けれど、頭の奥だけは妙にはっきりしていた。
前にもこんなふうに、神谷と一緒に過ごした夜があった。
大阪出張のホテル。
その時はまだ、こんなふうに神谷の家で、シャワーを借りているなんて想像もしていなかった。
あの時も十分落ち着かなかったはずなのに、今はそれ以上だ。
その事実に気づくたび、胸の奥がまた熱を持つ。
あの時、もう少し一緒にいたい、だなんて言った自分によく考えろって伝えたい。
緊張し過ぎて、心臓が口から出てしまいそうだった。
髪を流して、身体を拭いて、ようやく浴室を出る。
洗面所の鏡は湯気で少し曇っていて、自分の輪郭がぼんやりして見えた。
タオルで髪を軽く押さえながら、神谷に借りた服へ手を伸ばす。
柔らかい生地のロンT。それから、バスパン。
改めて広げると、やっぱり大きい。当たり前だけど、自分のものじゃない。神谷の服だ。それだけで、妙にどきどきする。
ロンTを頭からかぶると、肩が落ちて、袖が少し長い。裾も思っていたより下まで来る。
バスパンもぶかっとしていて、腰のところをきゅっと引いてようやく落ち着いた。
鏡の前に立つと、自分じゃないみたいだった。
神谷の大きい服が、いかにもお泊り感を出していて落ち着かない。
ホテルのルームウェアも心許なかったが、これはこれで恥ずかしい。
タオルで髪を軽く拭き直し、深呼吸をひとつする。
ドアノブに手をかけたところで一瞬だけためらったが、意を決して扉を開けた。
リビングの明かりはやわらかくて、さっきより静かに感じた。
神谷はソファではなく、ローテーブルの向こう側に腰を下ろしていたらしい。物音に気づいて、ゆっくり顔を上げる。
その視線が、澪の姿で止まった。
一瞬だけ、空気が止まる。
神谷は何も言わなかった。
けれど、目を逸らすでもなく、そのまま澪を見ている。いつもならすぐに何か言ってくるのに。
「……なに」
たまらず澪が小さく言うと、神谷はようやく息を吐いた。
「……やば」
その声が思っていたより低くて、澪の心臓が大きく跳ねる。
「思ってたより、心臓に悪い」
真正面からそう言われて、澪は一瞬で顔が熱くなるのを感じた。
「そ、そういうこと、言わないで」
どうにか返した声は、思った以上に弱かった。
神谷はまだ少しだけ困ったように笑っている。けれどその耳のあたりが、ほんのり赤い気がして、澪はますます落ち着かなくなった。
「いや、でもほんとに」
「……だいぶだめ」
「だめって何よ」
「察して」
そんなこと言われても困る。
困るのに、神谷が本気でそう思っているらしいのが伝わってきて、余計にどうしていいかわからなくなる。
澪は思わずタオルを胸元に引き寄せた。
「……もう、やめて」
「ごめん」
言葉では謝っているものの、熱を帯びた視線がはずれることはない。
澪はそんな神谷の方をまともに見ることが出来なかった。
しばらくして、神谷は小さく息を吐き立ち上がる。
そのまま洗面所の方へ歩いていったかと思うと、すぐに何かを手に戻ってきた。
「これ」
差し出されたのはドライヤーだった。
「ちゃんと乾かして」
「そのままだと風邪ひく」
「あ……ありがと」
受け取ろうとした指先が、ほんの少しだけ触れる。
それだけでまた胸の奥がざわついて、澪は慌ててドライヤーを握り直した。
神谷はそのまま少し視線を逸らす。
さっきまでの余裕が、どこか微妙に崩れているのがわかった。
「……俺も入ってくる」
そう言って、ソファの横に置いてあった着替えを手に取る。
「あ、うん」
「そのへん、適当に座ってていいから」
「……うん」
返事をしても、顔を上げられない。
神谷の方もたぶん同じなのだろう。妙にあっさりした足取りで洗面所の方へ向かい、扉の前で一度だけ足を止めた。
「朝比奈」
「なに」
「……ほんとに、ちゃんと乾かして」
それだけ言って、神谷はぱたんと扉の向こうへ消えた。
一拍遅れて、水の流れる音が聞こえ始める。
澪はしばらくその場に立ち尽くしたまま、手の中のドライヤーを見下ろした。
「……何それ」
誰に向けるでもなく呟く。
心臓がうるさい。
さっきからずっと、落ち着く気配がない。
それでも、神谷の方だって平気じゃないのだとわかったことが、少しだけうれしかった。
澪は小さく息をついてから、ソファへ腰を下ろす。ぶかぶかのロンTの裾をそっと引き寄せ、膝の上に手を置いた。
部屋は静かで、浴室の向こうから聞こえる水音だけがやけに近い。 神谷の家にいて、神谷の服を着て、神谷を待っている。
その全部が、まだ少し信じられなかった。
澪はソファの端に腰を下ろしたまま、手の中のドライヤーをしばらく見つめていた。
けれど、いつまでもそうしているわけにもいかない。小さく息をついてドライヤーノスイッチを入れる。
温風の音がやけに大きく響く。
さっき神谷に言われた言葉を思い出しただけで、また心臓が変に速くなった。
髪を乾かし終えてから、なんとなくスマートフォンを手に取った。
画面を開いて、癖みたいにニュースの見出しを流し見する。SNSも少し見てみる。けれど、文字がまるで頭に入ってこない。
指先だけが無意味に画面を滑っていって、何を見たのかもほとんど残らなかった。
「……だめだ」
小さく呟いて、スマホを伏せる。
落ち着こうと思うほど、余計に神経が冴えていく。
膝に置いた手を組み直して、ロンTの裾をそっと引く。ぶかぶかの袖口から少しだけ手が隠れて、それを見るだけでまた変に意識してしまった。
神谷の服……。大きいな……。
そんな当たり前の事を考えて、また急に呼吸が速くなる。
神谷が出てきたらどんな顔をすればいいんだろう。
このまま何事もなく眠るのかもしれない。少し話して、おやすみって言って終わるのかもしれない。
それでも、それ以上のことを想像してしまう。
澪はそんな考えを振り払うように、ぶんぶんと小さく首を振った。
「……もう」
考えたってどうにもならない。
ものすごく緊張はしているけど、怖いわけじゃないのだ。
ソファの背にもたれかけて、天井を見上げる。
静かすぎるくらい静かで、そのぶん浴室の水音だけがやけに大きく聞こえた。
澪はクッションを引き寄せて、ぎゅっと抱える。
ふと、浴室の水音が止んだ。
「……っ」
澪は反射的に姿勢を正した。
さっきまでソファにもたれかかっていた背中が、思わずぴんと伸びる。クッションを抱えたまま固まっている自分が、我ながらかなり間抜けだと思うのに、どうにもできなかった。
数秒の静寂。
そのあと、洗面所の扉が開く気配がした。
澪は背筋を伸ばしたまま、そちらを見た。
神谷は髪を軽くタオルで拭きながら出てきた。黒っぽいTシャツにラフなスウェットパンツ。さっきまでの外用の服とは違う、完全にオフの神谷。
その姿を見ただけで、澪の心臓はまた落ち着きを失う。
神谷は澪と目が合うと、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「ちゃんと乾かした?」
「……乾かした」
「よし」
それだけの会話なのに、妙にくすぐったい。
神谷はタオルを首にかけたまま、ソファの横へ回り込んできた。
「隣、いい?」
「……うん」
澪が小さく頷くと、神谷は少しだけ間を空けて隣に腰を下ろした。 肩が触れそうで触れない。その絶妙な距離が余計に落ち着かない。
クッションを抱えたまま、澪は視線を少し下げる。
神谷の家の静けさと、お風呂上がりのせいか少しだけ熱のこもった空気が、妙にやわらかく部屋に満ちていた。
「今日、楽しかったね」
ぽつりと、神谷が言う。
その声は低くて、でもどこかやさしかった。
「……うん」
澪も小さく返す。
それ以上うまく言葉にできなかった。
楽しかった。すごく。
仕事終わりに軽く飲むだけのはずだったのに、帰りたくなくて、気づけばこんなところまで来てしまっている。
「酔い、大丈夫?」
「大丈夫」
「ちょっとだけ、回ってるけど」
「それは大丈夫って言うのかな」
神谷が小さく笑う。
その笑い声につられて、澪も少しだけ口元を緩めた。
「神谷は?」
「俺も平気」
「ほんとに?」
「ほんとに」
短いやり取りが、静かな部屋の中にぽつりぽつりと落ちてから沈黙が訪れる。
静かすぎて、自分の鼓動の音まで聞こえてしまいそうだった。
神谷が小さく息を吐く気配がした。
それから、まるで当たり前のような調子で口を開く。
「俺、今日ソファで寝るよ」
「え」
思っていたよりもはっきり、声が出た。
神谷がゆっくりこちらを見る。
「……え?」
「……あ、いや、……その」
うまく誤魔化そうとして言葉を繋ぐ。
だがもう無駄だった。
澪は諦めたようにクッションを抱えたまま、視線を落とす。
「……一緒に寝るのかと……」
言ってしまった瞬間、顔が一気に熱くなった。
何を言ってるんだろう、私。
今さらそんなことを思っても遅いのに、口にした言葉だけは、きちんと部屋の中に残ってしまった。
静かだった。
神谷は何も言わない。
ただ、さっきまでやわらかかった空気が、少しずつ違うものに変わっていくのがわかる。
「………」
澪は耐えきれなくなって、そっと顔を上げた。
神谷がこちらを見ていた。
まっすぐで、さっきまでよりずっと静かな瞳。
「……言ってる意味、わかってる?」
低い声。
その一言に、澪の心臓がまた大きく鳴る。
けれど、ここで目を逸らしたくはなかった。
澪は唇をきゅっと結んで、小さく頷く。
「……わかってる」
ほんの僅かに声が震えた気がした。
神谷が、ふっと息を吐く。
困ったような、でももう誤魔化せないような、そんな表情で少しだけ視線を落とす。
「朝比奈ほんと煽るの得意だよね」
「煽ってない……」
かろうじてそう返すと、神谷がわずかに口元を緩めた。
「自覚ないのがいちばんだめ」
その声もやっぱり低くて、澪はもうまともに呼吸ができない。
神谷がゆっくり手を伸ばし、澪が抱えていたクッションをそっと脇へ退かせた。それだけの動作なのに、遮るものがなくなった澪の身体が強張る。
「……朝比奈」
名前を呼ばれて、澪は小さく息を止めた。
神谷が距離を詰める。 息が触れそうなくらい近い。
触れる直前で、一瞬だけ時間が止まる。
次の瞬間、神谷の唇がそっと重なった。
「……っ」
やわらかい。
驚くほどやさしいのに、逃がさないみたいな熱があった。
澪は目を閉じるのも一拍遅れて、それからようやく睫毛を伏せる。
触れるだけのキスなのに、心臓はひどく忙しい。
唇が離れる。
額が触れそうな位置で、神谷は澪を見た。
その目はもう、さっきまでのやわらかいものとは少し違っている。
次のキスは、さっきより深かった。
神谷の手が背中に回って、そっと引き寄せられる。優しく逃げ道をふさぐような、その力加減が余計に心臓に悪い。
息の仕方までわからなくなって、澪は無意識に神谷の服をきゅっと掴む。
その指先に気づいたみたいに、神谷がゆっくり唇を離した。
そのまま、澪を強く抱きしめる。
「……っ」
ぎゅっと、強く。
力のこもった腕から神谷の気持ちが溢れてくるようで、澪は思わず彼の背中に手を回した。
耳元で、低い声が落ちる。
「もう止められないから」
その一言に、胸の奥が甘く痺れる。神谷は澪の手を強く握り、指を絡めたまま立ち上がった。
促されるままに、寝室へと向かう。足元がふわふわと浮いているようで、彼の手の熱だけが唯一の現実だった。
神谷が寝室の扉を開ける。
暗がりの奥に、整えられたセミダブルのベッドが静かに浮かび上がって、澪は小さく息を呑んだ。
神谷はそのまま奥に進むと、ベッドの縁に腰を下ろした。
繋いだ手は離れない。立ったままの澪を、神谷が静かに見上げた。少し濡れた髪、熱を帯びた瞳、そして自分の手を握ったままの指先。そのすべてが愛しくて、澪はまともに呼吸ができなかった。
神谷が、つないだ手にぐっと力を込める。
「来て」
たったひと言、低い声で呼ばれただけで心臓が大きく跳ねる。
澪はその場で立ち尽くしたまま、小さく息を飲んだ。
ここから先は、もう後戻りできない。
自分で望んだ展開だったのに、最後の一歩が踏み出せない。
神谷はただまっすぐに、こちらを見上げていた。
その瞳があまりにも熱くてもう逸らすことなんて出来なかった。
つないだ手に、もう一度だけ力がこもる。
澪は小さく息を吐いて、それからゆっくりと神谷のほうへ近づいた。
ベッドの縁に腰を下ろすまでのほんの数歩が、やけに長く感じる。
隣に座った瞬間、肩が触れそうで、息が混ざりそうで、もうまともに前なんて見られない。
「……っ」
何か言おうとしても、声にならない。
そんな澪を見て、神谷が少しだけ口元をやわらげた。
次の瞬間、頬に手が添えられる。
優しい触れ方なのに、身体の奥がぴくりと震えた。神谷は澪の反応を一つ一つ確かめるように、再び顔を寄せてくる。
今度のキスは、さっきよりもずっと深かった。
舌先が唇を割り、熱が混ざり合うたびに、澪の指先は彼の服を強く握りしめる。背中に回った手が彼女を強く引き寄せ、逃げ道を完全に塞いだ。
唇が重なるたびに、頭の奥が熱くなっていく。
一度離れて、また触れる。
そのたびに神谷の手が背中を撫で、指先が肩をすべって、澪の呼吸はどんどん乱れていった。
呼吸をするのが難しくなってきた頃、彼は澪の肩をそっと抱きしめながら、彼女をシーツの上へと沈めていく。
ゆっくりと視界が回り、仰向けになった澪の上に、神谷の影が覆いかぶさった。
覗き込む彼の顔は、少しだけ苦しそうで、でもどうしようもなくやさしい。
澪はそれを見るだけで胸がいっぱいになって、うまく息ができない。
神谷がもう一度、唇を重ねる。
慈しむような熱のこもったキス。
しばらくして彼は少しだけ唇を離す。
額が触れそうな距離で、神谷はまっすぐ澪を見ていた。
胸の奥がひどく熱い。
それでも、その瞳から視線をそらすことは出来なかった。
「……澪」
低く、やわらかく呼ばれて、心臓が大きく跳ねた。
ただ、名前を呼ばれただけ。それだけのことでこんなにも嬉しい。
そのまま神谷は澪を抱きしめるように耳元で囁く。
「澪。好き」
胸の奥が甘く痺れる。
顔が熱い。呼吸もうまくできない。
澪は小さく息を吸って、震えそうになる声をどうにか押さえる。
「……私も、好き」
言った瞬間、神谷の表情がわずかに崩れた。
次の瞬間、激しく唇が重なる。
「……っ」
さっきまでのやさしいキスとは違う。
タガが外れたような貪るようなキス。
二人の呼吸だけが激しく重なり合っていく。
カチリ、と部屋の照明が落ちる。
視界がやわらかな暗さに沈み、視覚が奪われた分、肌に触れる神谷の指先、重なり合う体温、衣擦れの音がやけに鮮明に突き刺さる。
澪の心臓は、もう限界だった。
***
やわらかな光が、まぶたの裏にじんわり滲んでいた。
澪は浅い眠りの底から、ゆっくり意識を浮かび上がらせる。
最初は、どこにいるのかわからなかった。見慣れない天井。静かすぎる部屋。自分の部屋とは少し違う、乾いたシーツの感触。
「……ん」
小さく身じろぎした瞬間、昨夜のことが一気に戻ってきた。
「……っ」
澪は一瞬で顔が熱くなるのを感じて、反射的に毛布を少しだけ引き上げた。
夢じゃない。
全部、ちゃんと現実だった。
その事実だけで、また心臓が落ち着かなくなる。
そっと視線を動かすと、すぐ隣に神谷がいた。
もう起きていたらしい。枕に頭を預けたまま、少しだけこちらに身体を向けている。寝起きらしく髪は少しだけ乱れているのに、目だけはやけに静かで、澪のことをじっと見ていた。
「……え」
思わず小さく声が漏れる。
神谷はその反応を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その笑い方がやわらかくて、澪は余計にどうしていいかわからなくなる。
「……なんで起こしてくれなかったの」
照れ隠しみたいに言うと、神谷は少しだけ肩を揺らした。
「可愛くて」
あまりにも自然に返ってきて、澪は言葉を失った。
「……っ」
何それ。朝からそんなこと言うの、反則だと思う。
神谷は澪の顔がみるみる赤くなっていくのを見て、また少しだけ笑う。
その笑い声が低くて、まだ少し掠れていて、心臓に悪い。
澪は視線を逸らしたいのに、逸らせなかった。
近い距離で見つめられたまま、胸の奥が甘くざわつく。
神谷が、少しだけ声をやわらげる。
「おはよう、澪」
昨夜と同じ呼び方。でも夜の熱とは違う、朝の光の中のその一言は、また別の意味で心臓に悪かった。
澪は喉の奥で小さく息をつまらせてから、ようやく返す。
「……おはよう」
たったそれだけ言うのに、ひどく勇気がいった。
名前で呼ばれるたびに、昨夜のことが全部よみがえる。
恥ずかしいのに、うれしい。
うれしいのに、まともに顔を見ていられない。
それなのに神谷は、まだ楽しそうに澪を見ていた。
「そんな赤くなる?」
少しだけ意地悪そうに問われて、澪は毛布の端を指先で掴む。
「……神谷のせいでしょ」
小さく返すと、神谷が喉の奥で笑った。
その笑い方がまた余裕ありげで、悔しい。
少しだけ間が落ちる。
澪はその顔を見ていられなくなって、でも目を逸らすのも癪で、結局、神谷のTシャツの胸元をきゅっと掴んだ。
「……みなと」
言った瞬間、自分で自分に驚くくらい心臓が跳ねた。
神谷がぴたりと動きを止める。
「……っ」
今度赤くなったのは、神谷の方だった。
ほんの少しだけ顔を背けて、代わりにそっと澪の背中へ手を回す。
「……それはずるい」
低い声でそう言われて、澪はますます顔が熱くなる。
けれど、背中に回った手はやさしくて、その温度に包まれるみたいで、今度は少しだけ笑ってしまいそうになった。
神谷は小さく息をついてから、ようやくいつもの調子を少し取り戻したみたいに澪を見る。
「今日はもう、ゆっくりしてきなよ」
「……いいの?」
「いいよ」
それから神谷は、まだ少しだけ照れた空気を残したまま続けた。
「コーヒー入れてあげる」
その一言に、澪の胸の奥がまたじんわりあたたかくなる。
仕事終わりに軽く飲みに行くだけのはずだったのに、気づけばこんな朝を迎えているなんて、昨夜の自分は想像していただろうか。
神谷が身体を起こしかけて、ふと思い出したみたいに振り返る。
「飲んだら二度寝しよ」
「……二度寝?」
澪は少しだけ考えて続けた。
「……そうだね、それもありかも」
神谷がやわらかく笑う。
神谷の家で迎える朝は、思っていたよりずっと穏やかで、思っていたよりずっと幸せだった。




