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神谷×朝比奈

ムカつく営業同期と付き合って、初めて飲みに行ったら終電がなくなりました

作者: 春野スミレ
掲載日:2026/04/24

 金曜日の夜、ようやくオフィスの空気が緩み始めていた。


 時計の針はもう八時を回っている。営業部のフロアにはまだ人が残っていたが、さすがに一週間の終わりだけあって、みんなどこか少し気が抜けた顔をしていた。

 あちこちで「お先に失礼します」「お疲れさまです」が飛び交い、パソコンを閉じる音や引き出しを開ける音が、いつもよりやわらかく響く。


 澪もようやく最後のメールを返し終えて、小さく息を吐いた。

 今週は長かった。大阪案件の受注から始まって、その後の社内共有、追加資料の対応まで、気が抜けない日が続いていた。

 仕事としては充実していたけれど、そのぶん神経も体力も思った以上に使っていたらしい。


 ノートパソコンを閉じると、視界の端に斜め前の席が入る。

 神谷も、ちょうど同じタイミングで仕事を終えたところだった。


 ネクタイを少し緩めて、デスクの上の書類を整えている。その横顔は会社で見慣れているはずなのに、金曜の緩んだ空気の中だと、どこか少しだけ違って見えた。


 付き合い始めてから、会社の中ではなんとか普通を装えている。

 少なくとも、表向きは。でも仕事が終わって、帰るだけの時間になると、急に距離感がわからなくなる。


 視線を戻そうとした、その時だった。


「朝比奈」


 聞き慣れた声に、澪の肩がぴくりと揺れる。


「……なに」


 できるだけ平静を装って顔を上げると、神谷はデスクの脇に立ったまま、いつもの落ち着いた顔でこちらを見ていた。

 ほんの少しだけ、仕事の緊張が抜けたようなやわらかい表情。


「今日も遅くなっちゃったね」


「まあね」

「金曜なのに、普通に残業だったし」


「だな」


 神谷は小さく笑って、それから続けた。


「一週間お疲れ」

「この後さ、飲みに行かない?」


 一瞬、意味が頭に入ってこなかった。


「……え」


 あまりにも自然な言い方で、余計に心臓が跳ねる。

 神谷と付き合ってから初めて、仕事終わりに二人きりで飲みに行く。

 つまり、デート。


 その事実がゆっくり胸の内に落ちてきて、澪はすぐに返事ができなかった。


「……朝比奈?」


 神谷が少しだけ首をかしげる。

 その顔が、ほんのわずかに不安そうに見えて、澪はようやく我に返った。


「い、行く」


 思ったより少しだけ早口になった。

 それが恥ずかしくて、澪はすぐに視線を逸らす。


「……飲み、行きたい」


 言い直すと、神谷はふっと目元をやわらげた。


「よかった」


 たったそれだけなのに、顔が熱くなる。

 ほんとにだめだと思う。付き合い始めてから、こういう小さな言葉のひとつひとつに、いちいち反応してしまう自分が情けない。


 澪がごまかすようにバッグへ手を伸ばすと、神谷が少しだけ間を置いて口を開いた。


「……緊張してる?」


 その問いに、澪の手が止まる。


「してない」


 ほとんど反射で返した。神谷はそれを聞いて、少しだけ笑う。


「俺はちょっとしてる」


 澪は顔を上げた。


「……え?」


 ちょっと予想外で、変な声が出た。神谷は本気とも冗談とも取れないような目をしている。


「二人だけで飲むの何気に初めてだし」

「普通に、ちょっとだけ」


 本当かは分からないが、そういう事をさらっと言うところがずるい。

 意識しているのが自分だけではないと思っただけで、胸の奥がじわっと熱くなる。


 澪は何か返したかったのに、うまく言葉が出てこない。

 ただ顔が熱くなるのが自分でもわかって、慌ててバッグを持ち上げた。


「……そういうの、急に言わないで」


 ようやく絞り出した声は、思った以上に小さかった。

 神谷は少しだけ目を細めたが、それ以上は何も言わない。


「じゃ、行こうか」


 その一言に、澪は小さく頷くしかなかった。


 神谷と並んでフロアを出る。

 さっきまで仕事をしていた場所を離れただけなのに、妙に落ち着かない。

 エレベーターを待つあいだも、二人きりで立っていることを意識してしまって、澪はなんとなくバッグの持ち手を握り直した。


 神谷はそんな澪の様子を気にしているのかいないのか、静かに隣に立っている。


 やがてエレベーターが着き、二人で乗り込む。

 箱の中にはほかに誰もいなくて、閉まるドアの音が思ったより大きく響いた。


「……」


「……」


 急に何を話せばいいのかわからなくなる。

 仕事中ならいくらでも言葉は出てくるのに、こういう時に限ってうまくいかないのが悔しい。

 先に口を開いたのは神谷だった。


「何飲みたいとかある?」


「え」


「店」

「食べたいものあれば」


 そう聞かれて、澪は少しだけ肩の力を抜いた。

 こうやって普通に会話をつないでくれるのがありがたい。


「……ワイン飲みたいかも」


「いいね!」

「じゃあ、そのへんで探す」


「ありがとう」


 それだけのやり取りなのに、少しだけ空気がやわらぐ。

 エレベーターが一階に着いて、二人はロビーへ出た。


 夜のビルを抜けると、外の空気は思ったより少しだけ涼しかった。

 仕事終わりの人たちが足早に駅へ向かっていて、街の灯りも金曜らしくにぎやかだ。会社の中にいた時とは違う音と匂いに包まれた途端、ようやく本当に仕事が終わったのだと実感する。


「なんか、やっと一週間終わったって感じする」


 澪がぽつりと漏らすと、神谷が隣で小さく笑った。


「わかる」

「今週、体感長かったし」


「長かった」

「十日くらいあった気分」


「それは言いすぎ」


 自然にそんな会話ができることに、澪は少しだけほっとする。

 会社の外に出たからといって急に何かが変わるわけじゃない。

 それでも、並んで歩いているだけで少しだけ特別な夜みたいに感じるのは、もうどうしようもなかった。


 オフィス街を抜けて大通りへ出る。

 人の流れはまだ多いけれど、会社の同僚と鉢合わせるような距離ではない。

 そのタイミングで、神谷がふと歩調をゆるめた。


 澪が不思議に思って顔を上げると、神谷は少しだけ迷うみたいな間を置いてから、そっと片手を差し出した。


「……もう繋いでもいい?」


 その声は低くて、でもどこか控えめだった。

 澪は一瞬だけ、その手を見つめた。長い指。仕事中、資料をめくったり、キーボードを打ったりしているのを何度も見てきた手。

 でも今はそれが、会社の時とはまるで違って見える。


「……うん」


 小さく答えると、神谷の目元がほんの少しやわらいだ。

 澪はそっとその手に自分の手を重ねる。

 指先が触れた瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 すぐに神谷の手がやさしく握り返してくる。

 強すぎず、優しい手のひらの温度が、じんわりと伝わった。


「……なんか、変な感じ」


 澪が思わず呟くと、神谷が隣で少しだけ笑う。


「何それ」


「だって」

「神谷とこういうの、まだ慣れないし」


「俺も」


「……ほんとに?」


「ほんとに」


 その返事が思ったよりやわらかくて、澪は少しだけ俯いた。

 手をつないで歩くだけなのに、街の見え方まで少し変わってしまう気がする。


 仕事終わりに軽く飲みに行くだけ。そう思っていたはずなのに、もうその時点で、今日の夜は少し特別なものになり始めていた。


 手をつないだまま少し歩いたところで、神谷が立ち止まる。


「この店とかどう?」


 差し出されたスマートフォンを覗き込む。

 画面には、路地裏にある小さなイタリアンバルのページが開かれていた。木目調の店内、カウンターとテーブル席、前菜の盛り合わせとワイングラスの写真。気取りすぎていないのに、少しだけ特別感があって、今の気分にちょうどいい。


「……いいかも」

「美味しそう」

 そう返すと、神谷が小さく笑った。


「じゃあここで」


 その言い方があまりにも自然で、澪はまた少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。

 こういう店をさらっと見つけるあたり、やっぱりセンスがいい。仕事ができるだけじゃなくて、こういうところまで抜かりないのは、少し前までは悔しくてムカついていたのに、今は嫌じゃなかった。


 店は駅から少し離れた細い通りにあった。

 金曜の夜らしく店内はそれなりに賑わっていたが、騒がしすぎることはなく、照明もほどよく落ち着いている。案内された二人掛けのテーブル席に向かい合って座ると、ようやく二人きりで飲みに来た実感がじわじわ湧いてきた。


 澪はバッグを椅子の脇に置きながら、そっと息を整える。


「何飲む?」


 メニューを開きながら神谷が聞く。

 澪はワインのページに視線を落とした。

 少し迷っていると、神谷がメニューの端を軽く指でなぞった。


「最初、スパークリングにする?」

「金曜日だし」


 その提案が妙にしっくりきて、澪は顔を上げる。


「……いいね」


「じゃあ、それで」


 店員を呼んで、神谷が慣れた様子で注文をする。

 その横顔を見ながら、澪は自分の手元のナプキンをそっと整えた。まだ少しだけ緊張している。

 でも、その緊張は不思議と嫌ではなかった。


「こういう感じの店、よく来るの?」


 なんとなく聞くと、神谷は水のグラスに手を伸ばしながら答えた。


「たまに」

「仕事帰りに使うにはちょうどいいし」


「へえ」


「何」

「意外だった?」


「いや、神谷っぽい」


「どういう意味」


 神谷が軽く笑う。

 その何気ないやり取りに、澪も少しだけ肩の力を抜いた。


 ほどなくして、細いフルートグラスに入ったスパークリングが運ばれてくる。

 きめ細かな泡が上がっていくのを見ているだけで、張っていた気持ちが少しやわらぐ気がした。

 神谷がグラスを持ち上げる。


「一週間お疲れさま」


 澪もそれにならってグラスを持つ。


「……お疲れさま」


 小さく触れ合ったグラスが、澄んだ音を立てた。

 ひと口飲むと、冷たくてすっきりしていて、喉を通る瞬間にようやく一週間が終わったのだと実感した。


「美味しい」


 思わずこぼすと、神谷が少しだけ目を細める。


「よかった」


 その言い方がやさしくて、澪はまた少しだけ視線を逸らした。

 料理をいくつか頼んで、改めて向かい合う。

 まだ会話の間にほんの少しだけ照れがある。けれど、そのぎこちなさが逆に楽しかった。


「大阪の案件、上手くまとまりそうでよかったね」


 神谷がグラスを置きながら言う。


「ね、ほんと良かった」

「大変だったけどね」


 澪もそう返して、ワイングラスの脚にそっと指を添えた。

 あの出張から、まだ一週間しかたってないことが不思議だった。


 神社で貰った不思議な御守のせいで、彼の本心を知り、意識し始めた。

 わけのわからない現象にただただ困惑していたが、今思えば、あの時の寄り道のおかげで今の二人がある。


「……なんか、あの出張から一気に色々あったよね」


 ぽつりとこぼすと、神谷が小さく笑う。


「それはそうかも」

「ホテルの件もあったし」


「思い出させないで」


「何で」


「落ち着かなくなるから」


 そう言ってから、澪はしまったと思った。

 神谷の目がわずかに細くなる。


「今でも?」


「……今だから、余計にでしょ」


 小さく言い返すと、神谷はグラスを傾けながら、どこか満足そうに口元を緩めた。


「まあ、俺もあの日はだいぶ落ち着かなかったけど」


「え」


「朝比奈、全然気づいてなかったよね」


 そんなふうに言われて、澪は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


  ちょうどその時、前菜の盛り合わせが運ばれてきた。

 オリーブ、ハム、チーズ、焼いた野菜。どれも少しずつで、ワインに合いそうなものばかりだ。


「美味しそう」


 澪が素直に言うと、神谷が頷く。


「朝比奈、こういうの好きそう」


「……うん、好き」


「だと思った」


「何で分かるの」


「なんとなく」


 なんとなくで分かるところが、また悔しかったが、少しだけ嬉しくもあった。


 スパークリングをもうひと口飲む。 店の空気にも、神谷の向かいに座っていることにも、少しずつ身体が慣れていく。

 最初に感じていた緊張は、いつの間にかやわらかいものに変わっていった。


「朝比奈って、休みの日なにしてるの」


 神谷が何気なく聞いてくる。


「え、急に?」


「仕事の話ばっかりしてるのもあれだし」


 そう言われると、たしかにその通りだった。

 会社では毎日のように顔を合わせているのに、こういう話はあまりしたことがない。


「……寝てるかも」


 正直に答えると、神谷が少し意外そうに目を上げた。


「へえ、意外」


「そう?」


「うん、朝比奈ってちゃんとしてそうだし」

「……でも確かにそうか」


 その言い方に、澪は思わず眉を寄せる。


「何が?」


「朝比奈って朝弱いもんね」

「この間のホテルの時に知った」


 寝起きでぼんやりしたまま神谷と目が合って、慌てて襟元を押さえたあの瞬間まで、妙に鮮明によみがえる。


「……っ」


 澪の耳まで熱くなる。


「だから思い出させないでってば」


 神谷はその反応を見て、楽しそうに笑っている。

 絶対わかってて、からかっている。


「神谷は?」


 話を逸らすように聞くと、神谷は肩の力を抜いたまま答えた。


「俺?」

「わりと適当。家でだらだらする時もあるし、外出る時もある」


「雑」


「じゃあ、もうちょいちゃんと言うと」

「昼まで寝て、コーヒー飲んで、気が向いたら出かける」


「それ、私と大差なくない?」


「違うよ、コーヒー飲んでる」


「私だってコーヒーくらい飲むし」


 言い返しながら、澪はまた笑ってしまう。

 自分でも少し驚くくらい自然に声が出ていた。

 神谷がふと、その笑った顔を見たまま動きを止める。


「……なに」


 澪が気づいて問い返すと、神谷は少しだけ目を細めた。


「いや」

「そういう顔見られるの、ちょっと嬉しい」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「……え?」


「会社だともっと、かっちりしてるというか」

「そうやって自然に笑うの、あんまり見たことなかったから」


 そんなふうに見られていたのかと思うと、胸の奥がくすぐったくなる。

 会社ではいつも気を張っているし、神谷の前ではなおさらだ。


「……別に、普通じゃない?」


 少しだけ恥ずかしくして、わざと知らないふうに返す。


「うん。でも、素の朝比奈見られるのは嬉しい」


 そう言った神谷の瞳が妙に真っ直ぐで、澪は視線を逸らした。


「そういうの、急に言わないで」


「思ったから言っただけ」


「それが困るの」


「困ってる顔も割と好き」


「神谷」


「はい」


 名前を呼んだだけなのに、神谷は楽しそうに返してくる。

 恥ずかしいのに、嫌じゃない。

 むしろそんなふうに自分を見ていたのかと思うと、少しだけうれしくて、余計に落ち着かなくなる。


 そのあとも会話は途切れなかった。

 最近見た映画の話とか、学生の頃はどんな店に行っていたとか、意外と甘いものが好きとか、仕事の時にはしないようなことばかり。

 どれも大した話じゃないのに、神谷とこんなふうに向かい合って話しているだけで、今日の夜が特別なものみたいに思えてしまう。


 気づけばスパークリングは空いていて、二杯目のワインも思ったより進んでいた。

 頬が少し熱いのは、店の照明のせいだけじゃない気がする。


「……楽しい」


 ぽろっとこぼすと、神谷がグラス越しにこちらを見る。


「よかった」

「俺も」


 その返しが静かで、澪は胸の奥がふっとあたたかくなるのを感じた。

 食事もだいぶ進んで、最初のぎこちなさはもうほとんどなくなっていた。


 このまま帰っても、きっと十分いい夜だと思う。なのに、終わりが近づいてくると少しだけ惜しい気持ちになる。

 神谷が手元のスマートフォンで時間を確認して、それから顔を上げた。


「もう一軒くらいなら行ける?」


 低くやわらかい声だった。


「まだ話し足りないし」


 一瞬、心臓が跳ねる。

 自分だけじゃなかったんだと思って、澪は視線を落としたまま小さく笑った。


「……うん」

「行く」


 そう返すと、神谷の表情が少しだけやわらぐ。


「よかった」


 その言い方が、また少しだけうれしくて、澪はグラスの残りをそっと飲み干した。

 金曜の夜は、もう少しだけ続くらしい。


***


 店を出ると、少し冷えた夜風が頬に触れた。

 ワインと食事でほてった身体にちょうど良かった。自分が思っていたより酔っているのかもしれないと感じる。


「寒くない?」


 歩き出しながら神谷が聞く。


「大丈夫」

「むしろちょっと気持ちいいかも」


「ならよかった」


 神谷はそれだけ言って、数歩先へ出る。

 その背中を見ながら澪もあとに続いた。


 駅とは反対方向へ少し入った通りに差しかかったところで、神谷は何も言わずにただ、歩く速度を少しだけ緩めて、自然な動きで澪の手を取った。


「……っ」


 一瞬だけ、心臓が跳ねる。

 さっきは声かけてくれたのに。


 澪が何か言うより前に、その手はもう当たり前みたいに指を絡めてきている。

 

 澪が黙ったままその横顔を見ると、神谷は前を向いたまま少しだけ口元を緩めた。


「何」


「……別に」


「ふーん」


 それだけのやり取りなのに、さっきよりまた少しだけ距離が縮まった気がした。


 しばらく二人で並んで歩く。

 通りの明かりは少し落ち着いていて、金曜の夜らしく、どの店からも人の話し声や笑い声が流れてくる。


「朝比奈、やっぱりお酒強いよね」


 神谷が前を向いたまま言った。


「何それ」


「いや、普通に思ってた」

「でも無理しすぎは危ないから」


 おそらく、先週の会食のことを言っているのだろう。

 あの夜は、先方に勧められるままグラスを重ねて、だいぶ飲んだ気がする。

 澪は少しだけ視線を落とした。


「……だって、あの時は雰囲気壊したくなかったから」


 手をつないだまま、小さく続ける。


「でも、神谷がいてくれてよかった」

「……ありがとう」


 神谷は一瞬だけ黙った。

 それから、いつもより少しだけやわらかい声で言う。


「どういたしまして」


 少し間が空く。


「でも、俺が一緒じゃない時はほんと気をつけて」


 その声が思っていたより低くて、澪は思わず神谷の横顔を見た。

 いつもより、ほんの少し真剣な顔。


「……わかった」


 澪が小さく答えると、神谷はそれ以上何も言わなかった。

 ただ繋いだ手に、ほんの少しだけ力がこもる。


 やがて神谷が足を止める。


「ここ」


 視線を上げると、通りの奥に、落ち着いた照明のバーが見えた。

 ガラス越しの灯りが静かで、1軒目より少しだけ大人っぽい空気がある。


「……いい感じ」


 澪が言うと、神谷は満足そうに頷いた。


「でしょ」


 そうして神谷は、手を繋いだままドアに手をかけた。


 店の中は、落ち着いた空気だった。

 照明はほどよく暗く、奥の棚にはボトルが静かに並んでいる。金曜の夜らしく客はそれなりに入っていたが、騒がしさはなく、低く流れる音楽とグラスの触れ合う音だけがやわらかく耳に残る。


「二名で」


 神谷がそう告げると、カウンターの端の席に案内された。

 席についてようやく手が離れる。さっきまでの温度が、掌の内側にうっすら残っていて少しだけくすぐったい。


「何飲む?」


 神谷がメニューを開きながら聞いてくる。

 澪も横から覗き込んだものの、並んだ名前を見ても正直よくわからない。


「……こういうとこ来ると、やっぱりよくわかんない」


 小さく呟くと、神谷が少しだけ笑う。


「また選んであげようか」


 その言い方に、澪は一瞬だけ息を止めた。

 告白される前のあの夜、神谷を追いかけて入ったバーでも、結局こうして選んでもらったことを思い出す。


「……うん、お願い」


 少しだけ恥ずかしくなって視線を落とすと、神谷は何も言わずにメニューを軽くめくった。


「これなら飲みやすそう」

「白ワインベースで、そんなに重くないって」


「じゃあ、それにする」


「了解、俺はウイスキーにしよ」


 神谷が自然な調子で注文を決める。

 その様子を見ながら、澪はまた少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。こういう時にさっと選んでくれるのが、悔しいけどかっこいい。


 注文を終えると、少しの沈黙が落ちる。

 けれど、もう気まずさはなかった。


「こうして二人で飲むの、ありそうでなかったね」

「あの夜が初めて」


 神谷が前を向いたまま目を細めて言う。

 澪はまた告白された日を思い出した。


「……たしかに」


「あの時、朝比奈が追いかけてきてくれてよかった」


 あまりにもまっすぐ言われて、澪は思わず神谷の横顔を見る。


「……何それ」


「だってほんとだし」

「おかげで付き合えたんだから」


 澪は一瞬で頬が熱くなるのを感じた。


「それ、今さら言う?」


「思い出したから」


「ずるい」


 そう言い返すと、神谷が低く笑った。

 その笑い方がやわらかくて、澪は少しだけ視線を逸らす。


 そこへグラスが運ばれてくる。

 澪の前には淡い色のワインカクテル、神谷の前には琥珀色のウイスキー。

 神谷が軽くグラスを持ち上げるので、澪もそれにならった。


「二軒目」


「……二軒目」


 小さくグラスを合わせる。

 ひと口飲むと、ワインの華やかな香りとジンジャエールの炭酸が弾けて喉にすっと落ちる。


「どう?」


「おいしい」

「これも好きかも」


「よかった」


 神谷はそう言って、自分のグラスを傾ける。

 その横顔を見ながら、澪はまた少しだけ頬が熱くなるのを感じた。

 少し間を置いて、神谷がぽつりと呟く。


「あとさ、ずっと思ってたんだけど」

「会社でテンパってる朝比奈、かわいいよね」


 澪は危うくグラスを落としかけた。


「……え?」


「そのまんま」

「残業の時とか、明らかにいつもと違ったし」


「ちょっとやめて」


「なんで」


「恥ずかしいから」


 そう返しながらも、声が少しだけ弱い。

 神谷は楽しそうに笑っている。


「だってほんとだったし」

「会社で頑張って隠そうとしてる感じ、わりと全部出てた」


「神谷が隠すのうますぎるの」


 澪がむっとして言うと、神谷は「えー」とわざとらしく眉を上げた。


「俺だってちゃんと危なかったよ」


「そう見えない」


「朝比奈が見てないだけ」


 さらっとそう返されて、澪はまた言葉に詰まる。

 こういう言い方がずるい。本当かもしれないけど、自分だけが動揺してるみたいで。


「……ほんと、ずるい」


 小さく零すと、神谷が横で笑った。

 仕事終わりに軽く飲むだけのはずだったのに、こうして二人で並んでいると、時間の流れが少しだけ遅くなったみたいに感じる。

 澪はグラスを口元に運んで、そっと視線を落とした。


 バーの空気は一軒目より静かで、隣にいる神谷の気配が余計に近く感じる。

 会話は途切れていないのに、言葉のあいだに少しだけ濃い沈黙が混じるようになっていた。

 神谷がグラスを傾けながら、横目で澪を見る。


「朝比奈、今日ちょっと酔ってる?」


 その問いに、澪は一瞬だけ考えるふりをした。

 たしかに少し酔いが回っている。

 そんなに飲んだ気はしないのに。


「……ちょっとだけ」


「へえ」


「……楽しくて飲み過ぎたのかも」


 言った瞬間、普段なら絶対口にしない素直なセリフに自分でも驚く。

 隣で神谷が動きを止める気配がした。


「……急に素直なのやめて」


 低く落ちてきた声に、澪の心臓がひとつ大きく跳ねる。


「なにそれ」


「そのまんま」

「普通に困る」


「困るって何よ」


「わかってて聞いてる?」


 そう返されて、澪はグラスに視線を落とした。

 わかっているような、わからないような。

 ただ、神谷の声が少しだけ掠れたいて、それが妙に耳に残った。

 

 それをごまかすみたいに、澪はもうひと口だけグラスに口をつける。

 隣で神谷も小さく息を吐いて、それ以上は何も言わなかった。


「そういえば」


 神谷がグラスを置きながら言う。


「朝比奈、こういうとこ来るの好き?」


「嫌いじゃないよ」

「静かだし、話しやすいし」


「じゃあ、覚えとく」


「……何で」


「また来よう」


 さらっと言われて、澪はまた少しだけ頬が熱くなる。

 覚えとく、なんて言い方がずるい。


「神谷って、そういうのほんと自然に言うよね」


「そういうのって?」


「……キザなこと」


 神谷が笑う。

 澪もむっとしたふりをしながら、結局つられて笑ってしまう。

 何杯目だったかも曖昧になるくらい、会話は途切れず続いていた。静かな店の空気も、肩が触れそうな距離も、今はひどく心地いい。このままもう少しだけ続けばいいのに、と何度も思った。


 ふと、隣で神谷がスマートフォンを手に取る。


「……あ」


 小さく漏れた声に、澪は顔を向けた。


「なに?」


 神谷は画面を見たまま、ほんの少しだけ眉を寄せる。


「いや、これ」

「終電、ちょっと厳しいかも」


「え」


 澪も慌ててバッグからスマホを取り出した。

 時刻を見て、一瞬で酔いが引く。


「うそ」


 終電まで、もうほとんど余裕がない。

 乗り換えのことまで考えたら、かなりきわどい時間だった。


 さっきまでのやわらかな空気に、急に現実が差し込んでくる。


 焦りと同時に、胸の奥で何かが小さく揺れるのを、澪ははっきり感じていた。

 神谷はスマートフォンの画面を見たまま呟いた。


「……タクシー呼ぼうか?」


 低く落ち着いた声だった。

 酔いの残る頭に、その言葉だけがやけにくっきり響く。


 澪も自分のスマホを開いて、時間を見た。

 終電までは、もうほとんど余裕がない。帰るなら、今すぐ店を出ないといけない。

 そうわかっているのに、澪の指は画面の上で止まったままだった。


 二人の間に沈黙が落ちる。


 もう、帰らないといけない。

 だが、それが嫌だと感じている自分がいる。


 ここで終わりたくない。まだ、帰りたくない。

 一度思ってしまったらもう考えは止まらない。


「……朝比奈?」


 神谷が少しだけ声をやわらげて、名前を呼ぶ。

 その呼び方に背中を押されるみたいに、澪はゆっくり顔を上げた。


「……もう少しだけ」


 思ったよりも声が出なくて、消え入りそうだった。


「もう少しだけ、一緒にいたい」


 言った瞬間、心臓がどくんと大きく跳ねる。

 自分からそんなことを言うなんて思っていなかった。

 顔から火がでそうなほど熱い。


 神谷が一瞬だけ黙る。

 カウンターの向こうで氷の当たる音がして、店の奥では誰かの笑い声がかすかに重なる。

 なのに、澪にはそのどれも遠く感じられた。


「………」


 神谷はすぐには何も言わなかった。

 ただ、少しだけ視線を落として、それから澪を見る。


「……俺の家、近いけど来る?」


 静かな声に、澪の鼓動はまた一段大きくなる。


 神谷の家。


 それがどういうことなのか、わからないほど子供ではない。

 けれど不思議と、怖さはなかった。

 心臓は今まで聞いたことないほど激しく脈打っている。


 澪は唇をきゅっと結んで、それから小さく頷く。


「……うん」


 神谷の目が、ほんの少しだけやわらいだ。


「わかった」


 それだけ言って、神谷はすっと立ち上がる。

 伝票を取る手つきまで、妙に落ち着いて見えて、澪はまた少しだけ落ち着かなくなる。


「え、待って、私も出す」


「いいよ」

「ここは出させて」


「でも」


「朝比奈」


 名前を呼ばれて、澪は言葉を止めた。

 神谷は困ったように少しだけ笑う。


「ね?」


 その優しい声音に、澪は何も返せず頷くしか無かった。

 神谷が会計を済ませ、店員に軽く会釈して振り返る。


「行こっか」


「……うん」


 そう言って二人は席を立った。


***


 店を出ると、夜の空気は先程よりも少しだけ冷えていた。

 さっきまでいたバーのやわらかな空気がふっと遠のいて、代わりに夜の街のざわめきが耳に入ってくる。終電間際らしく、駅へ向かう人の足取りはどこか急いでいて、通りに並ぶ店の明かりも少しずつ落ち始めていた。


 神谷の家までは、歩いて十五分くらいだと言っていた。

 二人で並んで歩き出す。


 バーの中ではするすると言葉が出ていたはずなのに、外へ出た途端、二人の間に沈黙が落ちる。

 

 一軒目、二軒目と自然に繋がれていた手は、神谷のコートのポケットに入ったままだ。

 澪はそれが何となく気になった。


 神谷は前を向いて歩いていて、横顔はいつも通り落ち着いて見える。なのに、どこか話しかけづらい空気があった。


「……神谷」


「ん?」


 呼んでみたものの、その先が出てこない。

 神谷が少しだけこちらを向く。


「何?」


「……いや」


 神谷のコートの袖口が、すぐそこにある。

 澪はほんの少しためらってから、そっとその袖を引いた。

 神谷が足を止める。

 それにつられて、澪も立ち止まった。


「朝比奈?」


 澪は視線を逸らしたまま、小さく口を開く。


「……手」


「え」


 神谷の声が少しだけ低くなる。

 澪はますます顔が熱くなるのを感じた。

 けれど、ここまで来て今さら引けなかった。


「……繋がないの?」


 言ってしまった瞬間、心臓が大きく鳴る。

 恥ずかしくて、まともに顔なんて上げられない。


 数秒、沈黙が落ちた。

 神谷は何も言わなかった。

 ただ、澪の指先がつまんだままの袖口に目を落として、それから小さく息を吐く。


「……ほんと」


 ひとりごとみたいに呟いて、ようやくポケットから手を出す。

 そのまま澪の手を取って、指を絡める。

 さっきまでより少しだけ指先に力がこもっているような気がした。


 澪はそっと顔を上げた。

 神谷は前を向いたまま、何も言わない。

 ただ、絡めた指先の熱だけが伝わる。


 二人はまた歩き出す。

 今度は、さっきより少しだけ距離が近い。

 少し先に、コンビニの明かりが見えた。

 神谷がそちらを見て、歩幅をゆるめる。


「……何か買う?」

「水とか、そのへん」


 澪は小さく瞬きをした。

 神谷の家へ行く現実が、また少しだけ近づいた気がした。


「……うん」

「ちょっとだけ寄りたいかも」


 そう答えると、神谷は短く頷いて、そのままコンビニの自動ドアを押した。


 明るい店内に入った途端、夜道の静かな空気がふっと切れる。 流れている軽い音楽と、レジの電子音。見慣れたはずのコンビニなのに、澪は妙に落ち着かなかった。

 神谷は買い物かごをひとつ取って、何でもない顔で言う。


「水と、あと必要そうなものあったら入れて」


「……うん」


 澪は小さく返して、まず冷蔵ケースの前でミネラルウォーターを手に取った。その隣にあったお茶にも少し迷ったけれど、結局また水を一本。神谷もブラックの缶コーヒーと炭酸水をかごに入れている。


 その流れで日用品の棚の前を通る。歯ブラシ、メイク落としシート、小さなスキンケア用品。何気なく並んだそれらが、急に現実を帯びて見えた。


 神谷の家に行く。

 しかも、そのまま泊まることになるのだと、ようやく実感が追いついてきて、澪は思わず足を止める。


「……っ」


 その視線の先を追うように、神谷も棚を見る。

 それから、何でもない顔でひとつ頷いた。


「それもいるよね?」


 あまりに自然な言い方で、澪は一瞬だけ返事に詰まった。


「……あ、うん」


「メイク落としも?」


「……いる」


 答えながら、耳のあたりが熱くなる。


「じゃあ、そのへん入れときな」


「……うん」


 澪はなるべく平静を装って、メイク落としシートと歯ブラシをかごに入れた。

 たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙にそわそわする。


 神谷は何も言わずに、レジへ向かってまとめて会計を済ませる。


 コンビニを出ると、神谷が今度は自然に澪の手を取って歩き出す。

 街の明かりを抜けて、少し暗い通りへ入っていく。


「……あとどれくらい?」


 澪がぽつりと言うと、神谷が前を向いたまま答える。


「もうちょっと」

「あと五分くらいかな」


「そっか」


 会話はそれだけで、また少し沈黙が落ちる。

 しばらく歩くと、大通りを外れた先に、落ち着いた色のマンションが見えてきた。5階建てで、シンプルなエントランスに夜の照明が静かに灯っている。


 神谷が足を止める。


「ここ」


 澪も立ち止まって、目の前の建物を見上げた。


「……なんか、神谷っぽい」


「何それ」


「ちゃんとしてる感じ」


「適当な感想だな」


 神谷が小さく笑う。

 その笑い声に少しだけ緊張がほどけるけれど、胸の奥はまた別の意味で忙しくなっていた。


 神谷はエントランスのオートロックを開けながら、ちらりと澪を見る。


「どうぞ」


 開いたドアの向こうへ、澪は静かに足を踏み入れる。

 エントランスを抜け、静かな共用廊下を歩く。

 さっきまで人の声や車の音に紛れていた鼓動が、今はやけに近く聞こえる。神谷は隣で何事もない顔をしているのに、澪の方だけが落ち着かなかった。


 エレベーターに乗って、目的の階で降りる。

 足音を吸うような静かな廊下を少し歩いて、神谷がひとつのドアの前で立ち止まった。

 鍵の開く音。その何気ない音だけで、また胸が跳ねる。


「先入って」


 神谷がそう言ってドアを開ける。

 澪は小さく息を整えてから、中へ足を踏み入れた。


「……お邪魔します」


 玄関はすっきりしていた。

 靴がきちんと揃っていて、床にも余計なものはない。神谷らしい、整った空間だった。


 上がってすぐの場所に、淡い色のラグが敷かれたリビングが見える。ソファとローテーブル、壁際には背の低い棚。間接照明のあたたかい光が部屋の輪郭をやわらかくしていて、思っていたよりずっと落ち着いた雰囲気だった。


「……なんか、ほんとに神谷っぽい」


 思わず口にすると、後ろで靴を脱いでいた神谷が小さく笑った。


「また言ってる」


「だって本当にそんな感じするから」


「何それ」


 そう言いながらも、神谷は少しだけ楽しそうだった。

 澪はリビングの手前で立ち尽くしたまま、どこに座ればいいのか一瞬迷う。


「適当に座ってて」


 神谷がさらっと言って、キッチンの方へ向かった。


「あ、うん……」


 その言い方に少しだけ救われて、澪はソファの端にそっと腰を下ろす。落ち着くために膝の上で手を組むけれど、全然落ち着かなかった。


 少しして、神谷がグラスを二つ持って戻ってきた。片方を澪の前のローテーブルに置いて、もう片方を自分の前に置く。


「はい、水」


「ありがと」


 受け取ったグラスはひんやりしていて、指先に心地よかった。

 澪はひと口だけ飲んで、ようやく少し息をつく。


「疲れてるでしょ」

「先に風呂使っていいよ」


「え」


 急にそう言われて、澪は瞬きをする。


「でも、神谷の方が」


「俺は後でいい」

「朝比奈、髪も乾かさないとだろうし」


 気を遣わせないような自然な言い方で、また神谷の優しさに気づく。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


「うん」


 神谷は短く頷くと、部屋の奥の扉の方を指した。


「洗面所その奥」

「タオル出すからちょっと待って」


 そう言って棚の方へ向かい、引き出しを開ける。

 白いタオルを一枚取り出して、それから少しだけ考えるように視線を動かした。


「着替えも貸すよ」


「……あ」


 確かにこの服のままでは眠れない。

 神谷はクローゼットの方から運動着のようなものを取り出してくる。


「ごめん、ちょっと大きいかもだけど」


 そう言って渡されたのは、柔らかそうなロンTとバスパンだった。神谷の私服。

 それを手に乗せられた瞬間、澪の心臓がまた大きく跳ねる。


「……ありがと」


 どうにかそれだけ言うと、神谷は何でもない顔で頷いた。


「シャンプーとかはそのまま使っていいから」

「何か足りなかったら言って」


「うん」


 返事をしながら、澪は腕の中の服を見下ろした。ほんの少しだけ、神谷の匂いがした気がする。

 だめだ。この時点でもう、全然平常心じゃない。


「じゃあ、借りるね」


「どうぞ」


 神谷はそれ以上何も言わなかった。

 澪はタオルと服を抱えたまま立ち上がり、洗面所へ向かう。

 扉の前で一度だけ振り返ると、神谷はもうキッチンの方に視線を戻していた。


***


 洗面所の扉を閉めた瞬間、澪は小さく息を吐いた。


「……無理」


 思わず漏れた声は、自分にしか聞こえないくらい小さい。

 けれど、それくらい言わないと落ち着かないほど、心臓がずっと忙しかった。


 洗面台の鏡に映る自分は、思っていたよりずっと顔が赤い。酔いのせいもあるのだろうけれど、それだけじゃないのは自分でもわかっていた。


 神谷の家にいる。

 こうして洗面所に一人になると、それが一気に現実となって押し寄せてくる。


 メイク落としシートを手に取って、鏡の中の自分を見つめる。 仕事帰りの顔。少し酔って、照れて、かなり落ち着きがない。


「……何やってるんだろ、私」


 小さく呟いてから、そっとメイクを落とし始める。

 ファンデーションが消えていくたびに、どこか無防備になっていく気がして、それもまた落ち着かなかった。


 服を脱いで浴室に入る。シャワーを出すと、あたたかい湯気がいっぱいに広がった。肩にかかったお湯の熱さに、ようやく少しだけ身体の力が抜ける。


 一週間ずっと張っていた気持ちが、少しずつほどけていく。仕事の疲れも、お酒の火照りも、湯気の中に溶けていくみたいだった。


 けれど、頭の奥だけは妙にはっきりしていた。

 前にもこんなふうに、神谷と一緒に過ごした夜があった。

 大阪出張のホテル。

 その時はまだ、こんなふうに神谷の家で、シャワーを借りているなんて想像もしていなかった。


 あの時も十分落ち着かなかったはずなのに、今はそれ以上だ。

 その事実に気づくたび、胸の奥がまた熱を持つ。


 あの時、もう少し一緒にいたい、だなんて言った自分によく考えろって伝えたい。

 緊張し過ぎて、心臓が口から出てしまいそうだった。


 髪を流して、身体を拭いて、ようやく浴室を出る。

 洗面所の鏡は湯気で少し曇っていて、自分の輪郭がぼんやりして見えた。

 タオルで髪を軽く押さえながら、神谷に借りた服へ手を伸ばす。


 柔らかい生地のロンT。それから、バスパン。

 改めて広げると、やっぱり大きい。当たり前だけど、自分のものじゃない。神谷の服だ。それだけで、妙にどきどきする。


 ロンTを頭からかぶると、肩が落ちて、袖が少し長い。裾も思っていたより下まで来る。

 バスパンもぶかっとしていて、腰のところをきゅっと引いてようやく落ち着いた。


 鏡の前に立つと、自分じゃないみたいだった。

 神谷の大きい服が、いかにもお泊り感を出していて落ち着かない。

 ホテルのルームウェアも心許なかったが、これはこれで恥ずかしい。


 タオルで髪を軽く拭き直し、深呼吸をひとつする。

 ドアノブに手をかけたところで一瞬だけためらったが、意を決して扉を開けた。

 リビングの明かりはやわらかくて、さっきより静かに感じた。


 神谷はソファではなく、ローテーブルの向こう側に腰を下ろしていたらしい。物音に気づいて、ゆっくり顔を上げる。

 その視線が、澪の姿で止まった。


 一瞬だけ、空気が止まる。

 神谷は何も言わなかった。

 けれど、目を逸らすでもなく、そのまま澪を見ている。いつもならすぐに何か言ってくるのに。


「……なに」


 たまらず澪が小さく言うと、神谷はようやく息を吐いた。


「……やば」


 その声が思っていたより低くて、澪の心臓が大きく跳ねる。


「思ってたより、心臓に悪い」


 真正面からそう言われて、澪は一瞬で顔が熱くなるのを感じた。


「そ、そういうこと、言わないで」


 どうにか返した声は、思った以上に弱かった。

 神谷はまだ少しだけ困ったように笑っている。けれどその耳のあたりが、ほんのり赤い気がして、澪はますます落ち着かなくなった。


「いや、でもほんとに」

「……だいぶだめ」


「だめって何よ」


「察して」


 そんなこと言われても困る。

 困るのに、神谷が本気でそう思っているらしいのが伝わってきて、余計にどうしていいかわからなくなる。

 澪は思わずタオルを胸元に引き寄せた。


「……もう、やめて」


「ごめん」


 言葉では謝っているものの、熱を帯びた視線がはずれることはない。

 澪はそんな神谷の方をまともに見ることが出来なかった。


 しばらくして、神谷は小さく息を吐き立ち上がる。

 そのまま洗面所の方へ歩いていったかと思うと、すぐに何かを手に戻ってきた。


「これ」


 差し出されたのはドライヤーだった。


「ちゃんと乾かして」

「そのままだと風邪ひく」


「あ……ありがと」


 受け取ろうとした指先が、ほんの少しだけ触れる。

 それだけでまた胸の奥がざわついて、澪は慌ててドライヤーを握り直した。


 神谷はそのまま少し視線を逸らす。

 さっきまでの余裕が、どこか微妙に崩れているのがわかった。


「……俺も入ってくる」


 そう言って、ソファの横に置いてあった着替えを手に取る。


「あ、うん」


「そのへん、適当に座ってていいから」


「……うん」


 返事をしても、顔を上げられない。

 神谷の方もたぶん同じなのだろう。妙にあっさりした足取りで洗面所の方へ向かい、扉の前で一度だけ足を止めた。


「朝比奈」


「なに」


「……ほんとに、ちゃんと乾かして」


 それだけ言って、神谷はぱたんと扉の向こうへ消えた。

 一拍遅れて、水の流れる音が聞こえ始める。

 澪はしばらくその場に立ち尽くしたまま、手の中のドライヤーを見下ろした。


「……何それ」


 誰に向けるでもなく呟く。

 心臓がうるさい。

 さっきからずっと、落ち着く気配がない。

 それでも、神谷の方だって平気じゃないのだとわかったことが、少しだけうれしかった。


 澪は小さく息をついてから、ソファへ腰を下ろす。ぶかぶかのロンTの裾をそっと引き寄せ、膝の上に手を置いた。

 部屋は静かで、浴室の向こうから聞こえる水音だけがやけに近い。 神谷の家にいて、神谷の服を着て、神谷を待っている。

 その全部が、まだ少し信じられなかった。


 澪はソファの端に腰を下ろしたまま、手の中のドライヤーをしばらく見つめていた。

 けれど、いつまでもそうしているわけにもいかない。小さく息をついてドライヤーノスイッチを入れる。


 温風の音がやけに大きく響く。

さっき神谷に言われた言葉を思い出しただけで、また心臓が変に速くなった。


 髪を乾かし終えてから、なんとなくスマートフォンを手に取った。

 画面を開いて、癖みたいにニュースの見出しを流し見する。SNSも少し見てみる。けれど、文字がまるで頭に入ってこない。

 指先だけが無意味に画面を滑っていって、何を見たのかもほとんど残らなかった。


「……だめだ」


 小さく呟いて、スマホを伏せる。

 落ち着こうと思うほど、余計に神経が冴えていく。


 膝に置いた手を組み直して、ロンTの裾をそっと引く。ぶかぶかの袖口から少しだけ手が隠れて、それを見るだけでまた変に意識してしまった。


 神谷の服……。大きいな……。


 そんな当たり前の事を考えて、また急に呼吸が速くなる。

 神谷が出てきたらどんな顔をすればいいんだろう。


 このまま何事もなく眠るのかもしれない。少し話して、おやすみって言って終わるのかもしれない。

 それでも、それ以上のことを想像してしまう。


 澪はそんな考えを振り払うように、ぶんぶんと小さく首を振った。


「……もう」


 考えたってどうにもならない。

 ものすごく緊張はしているけど、怖いわけじゃないのだ。


 ソファの背にもたれかけて、天井を見上げる。

 静かすぎるくらい静かで、そのぶん浴室の水音だけがやけに大きく聞こえた。


 澪はクッションを引き寄せて、ぎゅっと抱える。

 ふと、浴室の水音が止んだ。


「……っ」


 澪は反射的に姿勢を正した。

 さっきまでソファにもたれかかっていた背中が、思わずぴんと伸びる。クッションを抱えたまま固まっている自分が、我ながらかなり間抜けだと思うのに、どうにもできなかった。


 数秒の静寂。

 そのあと、洗面所の扉が開く気配がした。


 澪は背筋を伸ばしたまま、そちらを見た。

 神谷は髪を軽くタオルで拭きながら出てきた。黒っぽいTシャツにラフなスウェットパンツ。さっきまでの外用の服とは違う、完全にオフの神谷。

 その姿を見ただけで、澪の心臓はまた落ち着きを失う。

 神谷は澪と目が合うと、ほんの少しだけ表情をやわらげた。


「ちゃんと乾かした?」


「……乾かした」


「よし」


 それだけの会話なのに、妙にくすぐったい。

 神谷はタオルを首にかけたまま、ソファの横へ回り込んできた。


「隣、いい?」


「……うん」


 澪が小さく頷くと、神谷は少しだけ間を空けて隣に腰を下ろした。 肩が触れそうで触れない。その絶妙な距離が余計に落ち着かない。


 クッションを抱えたまま、澪は視線を少し下げる。

 神谷の家の静けさと、お風呂上がりのせいか少しだけ熱のこもった空気が、妙にやわらかく部屋に満ちていた。


「今日、楽しかったね」


 ぽつりと、神谷が言う。

 その声は低くて、でもどこかやさしかった。


「……うん」


 澪も小さく返す。

 それ以上うまく言葉にできなかった。

 楽しかった。すごく。

 仕事終わりに軽く飲むだけのはずだったのに、帰りたくなくて、気づけばこんなところまで来てしまっている。


「酔い、大丈夫?」


「大丈夫」

「ちょっとだけ、回ってるけど」


「それは大丈夫って言うのかな」


 神谷が小さく笑う。

 その笑い声につられて、澪も少しだけ口元を緩めた。


「神谷は?」


「俺も平気」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 短いやり取りが、静かな部屋の中にぽつりぽつりと落ちてから沈黙が訪れる。

 静かすぎて、自分の鼓動の音まで聞こえてしまいそうだった。


 神谷が小さく息を吐く気配がした。

 それから、まるで当たり前のような調子で口を開く。


「俺、今日ソファで寝るよ」


「え」


 思っていたよりもはっきり、声が出た。

 神谷がゆっくりこちらを見る。


「……え?」


「……あ、いや、……その」


 うまく誤魔化そうとして言葉を繋ぐ。

 だがもう無駄だった。

 澪は諦めたようにクッションを抱えたまま、視線を落とす。


「……一緒に寝るのかと……」


 言ってしまった瞬間、顔が一気に熱くなった。

 何を言ってるんだろう、私。

 今さらそんなことを思っても遅いのに、口にした言葉だけは、きちんと部屋の中に残ってしまった。


 静かだった。

 神谷は何も言わない。

 ただ、さっきまでやわらかかった空気が、少しずつ違うものに変わっていくのがわかる。


「………」


 澪は耐えきれなくなって、そっと顔を上げた。

 神谷がこちらを見ていた。

 まっすぐで、さっきまでよりずっと静かな瞳。


「……言ってる意味、わかってる?」


 低い声。

 その一言に、澪の心臓がまた大きく鳴る。

 けれど、ここで目を逸らしたくはなかった。

 澪は唇をきゅっと結んで、小さく頷く。


「……わかってる」


 ほんの僅かに声が震えた気がした。

 神谷が、ふっと息を吐く。

 困ったような、でももう誤魔化せないような、そんな表情で少しだけ視線を落とす。


「朝比奈ほんと煽るの得意だよね」


「煽ってない……」


 かろうじてそう返すと、神谷がわずかに口元を緩めた。


「自覚ないのがいちばんだめ」


 その声もやっぱり低くて、澪はもうまともに呼吸ができない。

 神谷がゆっくり手を伸ばし、澪が抱えていたクッションをそっと脇へ退かせた。それだけの動作なのに、遮るものがなくなった澪の身体が強張る。


「……朝比奈」


 名前を呼ばれて、澪は小さく息を止めた。

 神谷が距離を詰める。 息が触れそうなくらい近い。


 触れる直前で、一瞬だけ時間が止まる。

 次の瞬間、神谷の唇がそっと重なった。


「……っ」


 やわらかい。

 驚くほどやさしいのに、逃がさないみたいな熱があった。

 澪は目を閉じるのも一拍遅れて、それからようやく睫毛を伏せる。

 触れるだけのキスなのに、心臓はひどく忙しい。


 唇が離れる。

 額が触れそうな位置で、神谷は澪を見た。

 その目はもう、さっきまでのやわらかいものとは少し違っている。


 次のキスは、さっきより深かった。

 神谷の手が背中に回って、そっと引き寄せられる。優しく逃げ道をふさぐような、その力加減が余計に心臓に悪い。

 息の仕方までわからなくなって、澪は無意識に神谷の服をきゅっと掴む。

 その指先に気づいたみたいに、神谷がゆっくり唇を離した。


 そのまま、澪を強く抱きしめる。


「……っ」


 ぎゅっと、強く。

 力のこもった腕から神谷の気持ちが溢れてくるようで、澪は思わず彼の背中に手を回した。

 耳元で、低い声が落ちる。


「もう止められないから」


 その一言に、胸の奥が甘く痺れる。神谷は澪の手を強く握り、指を絡めたまま立ち上がった。

 促されるままに、寝室へと向かう。足元がふわふわと浮いているようで、彼の手の熱だけが唯一の現実だった。


 神谷が寝室の扉を開ける。

 暗がりの奥に、整えられたセミダブルのベッドが静かに浮かび上がって、澪は小さく息を呑んだ。


 神谷はそのまま奥に進むと、ベッドの縁に腰を下ろした。

 繋いだ手は離れない。立ったままの澪を、神谷が静かに見上げた。少し濡れた髪、熱を帯びた瞳、そして自分の手を握ったままの指先。そのすべてが愛しくて、澪はまともに呼吸ができなかった。

 神谷が、つないだ手にぐっと力を込める。


「来て」


 たったひと言、低い声で呼ばれただけで心臓が大きく跳ねる。

 澪はその場で立ち尽くしたまま、小さく息を飲んだ。


 ここから先は、もう後戻りできない。

 自分で望んだ展開だったのに、最後の一歩が踏み出せない。

 

 神谷はただまっすぐに、こちらを見上げていた。

 その瞳があまりにも熱くてもう逸らすことなんて出来なかった。


 つないだ手に、もう一度だけ力がこもる。

 澪は小さく息を吐いて、それからゆっくりと神谷のほうへ近づいた。

 ベッドの縁に腰を下ろすまでのほんの数歩が、やけに長く感じる。

 隣に座った瞬間、肩が触れそうで、息が混ざりそうで、もうまともに前なんて見られない。


「……っ」


 何か言おうとしても、声にならない。

 そんな澪を見て、神谷が少しだけ口元をやわらげた。

 次の瞬間、頬に手が添えられる。

 優しい触れ方なのに、身体の奥がぴくりと震えた。神谷は澪の反応を一つ一つ確かめるように、再び顔を寄せてくる。


 今度のキスは、さっきよりもずっと深かった。

 舌先が唇を割り、熱が混ざり合うたびに、澪の指先は彼の服を強く握りしめる。背中に回った手が彼女を強く引き寄せ、逃げ道を完全に塞いだ。

 唇が重なるたびに、頭の奥が熱くなっていく。


 一度離れて、また触れる。

 そのたびに神谷の手が背中を撫で、指先が肩をすべって、澪の呼吸はどんどん乱れていった。


 呼吸をするのが難しくなってきた頃、彼は澪の肩をそっと抱きしめながら、彼女をシーツの上へと沈めていく。


 ゆっくりと視界が回り、仰向けになった澪の上に、神谷の影が覆いかぶさった。

 覗き込む彼の顔は、少しだけ苦しそうで、でもどうしようもなくやさしい。

 澪はそれを見るだけで胸がいっぱいになって、うまく息ができない。


 神谷がもう一度、唇を重ねる。

 慈しむような熱のこもったキス。

 しばらくして彼は少しだけ唇を離す。


 額が触れそうな距離で、神谷はまっすぐ澪を見ていた。

 胸の奥がひどく熱い。

 それでも、その瞳から視線をそらすことは出来なかった。


「……澪」


 低く、やわらかく呼ばれて、心臓が大きく跳ねた。

 ただ、名前を呼ばれただけ。それだけのことでこんなにも嬉しい。

 そのまま神谷は澪を抱きしめるように耳元で囁く。


「澪。好き」


 胸の奥が甘く痺れる。

 顔が熱い。呼吸もうまくできない。

 澪は小さく息を吸って、震えそうになる声をどうにか押さえる。


「……私も、好き」


 言った瞬間、神谷の表情がわずかに崩れた。

 次の瞬間、激しく唇が重なる。


「……っ」


 さっきまでのやさしいキスとは違う。

 タガが外れたような貪るようなキス。

 二人の呼吸だけが激しく重なり合っていく。


 カチリ、と部屋の照明が落ちる。

 視界がやわらかな暗さに沈み、視覚が奪われた分、肌に触れる神谷の指先、重なり合う体温、衣擦れの音がやけに鮮明に突き刺さる。


 澪の心臓は、もう限界だった。


***


 やわらかな光が、まぶたの裏にじんわり滲んでいた。

 澪は浅い眠りの底から、ゆっくり意識を浮かび上がらせる。

 最初は、どこにいるのかわからなかった。見慣れない天井。静かすぎる部屋。自分の部屋とは少し違う、乾いたシーツの感触。


「……ん」


 小さく身じろぎした瞬間、昨夜のことが一気に戻ってきた。


「……っ」


 澪は一瞬で顔が熱くなるのを感じて、反射的に毛布を少しだけ引き上げた。

 夢じゃない。

 全部、ちゃんと現実だった。

 その事実だけで、また心臓が落ち着かなくなる。


 そっと視線を動かすと、すぐ隣に神谷がいた。

 もう起きていたらしい。枕に頭を預けたまま、少しだけこちらに身体を向けている。寝起きらしく髪は少しだけ乱れているのに、目だけはやけに静かで、澪のことをじっと見ていた。


「……え」


 思わず小さく声が漏れる。

 神谷はその反応を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 その笑い方がやわらかくて、澪は余計にどうしていいかわからなくなる。


「……なんで起こしてくれなかったの」


 照れ隠しみたいに言うと、神谷は少しだけ肩を揺らした。


「可愛くて」


 あまりにも自然に返ってきて、澪は言葉を失った。


「……っ」


 何それ。朝からそんなこと言うの、反則だと思う。

 神谷は澪の顔がみるみる赤くなっていくのを見て、また少しだけ笑う。

 その笑い声が低くて、まだ少し掠れていて、心臓に悪い。


 澪は視線を逸らしたいのに、逸らせなかった。

 近い距離で見つめられたまま、胸の奥が甘くざわつく。

 神谷が、少しだけ声をやわらげる。


「おはよう、澪」


 昨夜と同じ呼び方。でも夜の熱とは違う、朝の光の中のその一言は、また別の意味で心臓に悪かった。

 澪は喉の奥で小さく息をつまらせてから、ようやく返す。


「……おはよう」


 たったそれだけ言うのに、ひどく勇気がいった。

 名前で呼ばれるたびに、昨夜のことが全部よみがえる。  

恥ずかしいのに、うれしい。

 うれしいのに、まともに顔を見ていられない。


 それなのに神谷は、まだ楽しそうに澪を見ていた。


「そんな赤くなる?」


 少しだけ意地悪そうに問われて、澪は毛布の端を指先で掴む。


「……神谷のせいでしょ」


 小さく返すと、神谷が喉の奥で笑った。

 その笑い方がまた余裕ありげで、悔しい。

 少しだけ間が落ちる。

 澪はその顔を見ていられなくなって、でも目を逸らすのも癪で、結局、神谷のTシャツの胸元をきゅっと掴んだ。


「……みなと」


 言った瞬間、自分で自分に驚くくらい心臓が跳ねた。

 神谷がぴたりと動きを止める。


「……っ」


 今度赤くなったのは、神谷の方だった。

 ほんの少しだけ顔を背けて、代わりにそっと澪の背中へ手を回す。


「……それはずるい」


 低い声でそう言われて、澪はますます顔が熱くなる。

 けれど、背中に回った手はやさしくて、その温度に包まれるみたいで、今度は少しだけ笑ってしまいそうになった。

 神谷は小さく息をついてから、ようやくいつもの調子を少し取り戻したみたいに澪を見る。


「今日はもう、ゆっくりしてきなよ」


「……いいの?」


「いいよ」


 それから神谷は、まだ少しだけ照れた空気を残したまま続けた。


「コーヒー入れてあげる」


 その一言に、澪の胸の奥がまたじんわりあたたかくなる。

 仕事終わりに軽く飲みに行くだけのはずだったのに、気づけばこんな朝を迎えているなんて、昨夜の自分は想像していただろうか。

 神谷が身体を起こしかけて、ふと思い出したみたいに振り返る。


「飲んだら二度寝しよ」


「……二度寝?」


 澪は少しだけ考えて続けた。


「……そうだね、それもありかも」


 神谷がやわらかく笑う。

 神谷の家で迎える朝は、思っていたよりずっと穏やかで、思っていたよりずっと幸せだった。

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