プロローグ
「……はあ、はあ、はあ……」
俺は走った。走るしかなかった。天井までの高さが50メートルを優に超えているであろうダンジョンの隠し部屋を、身体強化魔術も使わずにただ俺は愚直に走り続ける。
火魔術、水魔術、風魔術、土魔術。四種類の最上級魔術を打ち込んだにも拘わらず、あの巨大な化け物は傷一つ負っていない。
こんなことは初めてだった。同時に俺の中で「死への恐怖」というものが生まれてくる。
体がぞわぞわする。今にも吐きそうな気分だった。だが、俺は死に物狂いで走る。まだ生きて帰る希望があったからだ、その時までは。
「……嘘、だろ……」
この部屋に入ってくるときに通った赤い巨大な両扉が閉まっていた。いくら押してもびくともしない。いつの間にしまったのだろうか。あの化け物が扉を閉めたのだろうか。絶望が心に広がっていくのを感じる。
……いや、まだだ。ドアを突き破ればいい。俺は手を突き出し、詠唱を始める。
「偉大なる土の神よ、大地の力を、大きな岩石に変え、我が行く手を遮る者を打ち砕け!爆剛土球」
俺の口から、黄色の魔術式が紡がれ、それが終わると、突き出した手から魔力が抜けていく感覚がした。
直後、俺の斜め前方に、巨大な岩石が形成され、それは目で追えないほどの速さで、赤く、禍々しい文様が描かれた扉にぶつかる。刹那、辺りには土埃が舞う。これほどの威力があれば扉は砕け散ったに違いない。
土埃がだんだんと薄くなっていき、扉の様子が確認できるほどにまでになった。俺は扉がもともとあった方向に目を向ける。しかし、俺は次の瞬間、驚愕し、絶望することになった。
「なっ……なんでだよぉぉぉぉ!!!」
確実にあの岩石は、扉に当たった。土の最上級魔術を受けたにも拘わらず、扉はびくともしなかった。
岩石を受ける前のように俺の行く手を阻んでいる。
先ほどの土魔術にありったけの魔力を注ぎ込んでしまった。もう最上級魔術は打てない。
……もう駄目だ。俺の長年の冒険者の経験則から、そんなことを理解させられた。
どうあがいても、あの化け物は倒せない。……俺はここで死ぬのだ。
そう自覚した瞬間、俺は震えが止まらなくなった。そして足に力が入らなくなり、その場に座り込む。
そして、すぐにそいつはドスン、ドスンと地鳴りをさせながら、俺に近づいてきた。
今まで、仲間が死ぬのは珍しくなかった。だが、俺は一応世間で名の通った強いと呼ばれる魔術師であるから、まさか自分にその番が回ってくるとは、夢にも思ってなかった。
やがてドスン、ドスンといった地鳴りは止まった。
俺の目の前に膨大な魔力を持った化け物が立っているということが肌で感じられる。
とてつもないオーラだ。魔力総量は、俺の10倍、いや20倍はあるかもしれない。
俺は震えを何とか止めて、酷く歪んだ顔を上げる。顔を上げた先にあったのは、30メートルは優に超えているであろう巨体。
それは、赤い眼で、俺の眼を見ていた。いや、見ていたのは眼ではなく、俺自身だったのかも知れない。
俺はその赤い眼に吸い込まれるかのようにじっと見つめていた。それは、たかが一秒間のことであった。が、俺には永遠のように感じられる。
その長い体感時間で、俺は悟った。
この化け物の前では、生という選択肢はないのだと。そして、その悟りに達した後、俺の心に残ったのは、大きな絶望と、少しの、えも言えぬ恐怖だった。そこには、死への恐怖、運命への諦観、様々なものが含まれていた。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ」
人間というのは、真の絶望にぶつかったとき、声を発することができないようだ。
そして、その石像の巨体は右手に持っていた巨大な両手剣を構え、上に振り上げた。
巨体は剣を振り下ろす。
刹那、俺には世界がゆっくりと流れていくように感じられた。それはコンマ数秒の出来事。いや、それよりも短い時間だった。
その時間で俺の眼に映ったのは鏡のように反射する剣に写る、およそ人だとは思えないような顔をした人間の姿だった。
やがて、ゆっくりとした時間は終わりを迎える。
そして、剣は俺の右肩から心臓にかけてを一閃。
俺は、死んだ。




