透明な旅路
まえがき
いつか行きたかった場所。
もう一度だけ会いたかった人。
叶えられなかった小さな願いが、心の片隅に静かに積もっていく。
そんな感情を、誰もがひとつは抱えているのではないでしょうか。
この物語の主人公、美優は、ごく普通の25歳の女性です。
日々の生活に追われ、夢や衝動にふたをして、ただ「ちゃんと生きる」ことだけを選んできた人。
でもある夜、彼女は偶然——もしくは必然的に——幽体離脱という奇妙な能力を手に入れます。
魂だけが自由に動けるなら、どこに行きたいだろう?
誰に会いたいだろう?
そして、何を取り戻したいだろう?
この小説は、現実から少しだけ離れた場所で紡がれる、心の旅の物語です。
不思議な力を得たからこそ見えたもの、気づいたもの。
そして、たとえ翼を持っていても、地に足をつけて歩くことの大切さ。
それらを、静かに、でも確かに描きたくて、この作品を書きました。
読み終えたあと、あなたの「本当の場所」はどこだろう?と、ふと考えるきっかけになれたら幸いです。
『本当の場所を探して』
最初にそれが起きたのは、春の深夜だった。
桜が咲き始めたばかりの4月、25歳の綾瀬美優は、狭いアパートの一室でうたた寝をしていた。仕事に疲れ切った金曜日、メイクも落とさずにソファでうとうとしていた彼女は、不意に浮遊感を覚えた。
目を開けると、自分の体がソファに沈み込んで眠っているのが見えた。
「……え?」
混乱した頭で何が起こっているのか理解できなかったが、なぜか体がふわりと天井近くまで浮かび上がる。まるで風船のように。そして、壁をすり抜け、夜の街へと出ていった。
「これって……幽体離脱?」
夢の中にしては、あまりに鮮明で現実的だった。空気の流れも、街灯の明かりも、道行く人々の姿も。その夜、美優は空を渡り、東京の上空をひとりで飛び回った。
翌朝、彼女は自分の体に戻っていた。だが確かに、自分が“外に出ていた”という感覚は、まだ皮膚に残っていた。
幽体離脱の能力はその日以降、意識すれば自由にできるようになった。
美優はまず、ずっと行きたかった場所を目指した。
京都、北海道、モロッコ、フィレンツェ。
彼女の「幽体」は物理的制限を受けない。パスポートも飛行機もいらず、目を閉じて行き先を強く思い浮かべれば、すぐにたどり着けた。
音はぼんやりとしか聞こえないが、風景は鮮明。旅先では本を読んで想像していた街並みをこの目で見て、カフェの香りを感じ、人々の暮らしを垣間見た。
「これが、自由ってやつなんだなぁ……」
ある夜、美優は昔の友人・香織の部屋を訪れた。大学時代、何気ないすれ違いで距離ができた親友だった。連絡を取る勇気はなかったが、今ならこっそり会える。
香織は小さな子どもをあやしながら、優しい表情で笑っていた。画面の中ではなく、現実の、今の香織を見られた。
「幸せそう……よかった……」
幽体である自分には、声をかけることも、触れることもできない。ただ、眺めるだけ。だけど、美優は不思議と満たされていた。
だが、幽体離脱には“代償”があった。
最初は、些細なことだった。戻ってきた朝、目覚めが重い。体がだるい。会社での集中力が切れる。
「最近、寝ても疲れが取れないんだよね」
何気なく言った一言に、同僚が眉をひそめた。
「目、なんか赤いよ?ちゃんと寝てる?」
寝ている。けれど、魂は旅に出ている。
それから数週間、美優は繰り返し幽体離脱をした。行きたい場所は山ほどあった。叶わなかった夢も、やりたかったことも、行けなかった場所も。だが回数を重ねるごとに、異変は増した。
朝、目覚めたときに“自分の体に戻れない”感覚が一瞬ある。指先の感覚が鈍くなる。鏡を見ると、自分の顔が遠くにあるような、他人のような。
そしてある夜、事故が起きた。
その日はパリのルーヴル美術館に行った。誰もいない深夜、彼女はモナリザの前に立っていた。ガラス越しの小さな絵を、魂だけで見つめる。
ふと、不安がこみ上げた。
「……戻らなきゃ」
帰ろうと思った瞬間、異変が起きた。自分の体のある部屋が、ぼんやりとしか思い出せない。帰り道の“イメージ”が、うまく描けない。心臓が締め付けられるように鼓動し、浮かんでいた幽体が、ゆらゆらと不安定になった。
「帰れない……?うそ……」
叫んでも、誰にも聞こえない。
恐怖に支配されながら、必死に記憶をたどる。自分の体、部屋の色、匂い、窓の向き、クローゼットの位置……。
「お願い、帰らせて……!」
次の瞬間、バンッという衝撃とともに体に戻った。全身が汗で濡れ、息が荒く、心拍が乱れていた。
それが、美優が最後に幽体離脱をした日だった。
その後、美優は幽体離脱を封印した。
できなくなったわけではない。ただ、やらないと決めた。旅先の景色や、かつての人との再会は、かけがえのない体験だった。しかし、自分という“器”に戻れなくなる恐怖を、一度味わえば、もう同じには戻れない。
「今をちゃんと生きるって、そういうことなんだろうな」
自分の足で歩く旅は、時間もお金もかかる。けれど、そこで出会える人や感情は、魂だけの旅では得られない深みがあると知った。
今、美優は計画中だ。来年のゴールデンウィーク、ずっと行きたかったスペインへの旅。初めての海外一人旅。
彼女はチケットを予約し、ガイドブックを開き、胸を高鳴らせている。
かつて魂で見た景色を、今度は五感で感じに行くために。
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、「どこにでも行ける力があったら、私たちは本当に幸せになれるのか?」という問いから生まれました。
幽体離脱というファンタジーな設定を通して描きたかったのは、「自由」の先にある孤独や、「願いの実現」と「現実との折り合い」でした。
目を閉じて魂だけで旅をすることは、一見すると夢のようですが、そこに“体温のない世界”が広がっていたら、人は本当に満たされるのでしょうか?
物語の中で美優は、世界中を巡り、かつての友人に再会し、叶わなかった想いに触れます。けれどその先で彼女が選んだのは、「今ここに生きる」という、ごく地に足のついた答えでした。
私たちは時々、どこか遠くへ逃げたくなったり、過去をもう一度やり直せたら…と願ったりします。
でも、魂だけで見る景色ではなく、五感を通して“今”を感じながら歩く旅こそが、きっと本当に意味のあるものなのだと思います。
もしあなたがこの物語の中に、少しでも共感できる瞬間を見つけてくれたなら、それは私にとって何よりの喜びです。
いつか、あなたがあなたの「本当の場所」にたどり着けますように。
その場所はきっと、もう、あなたのすぐそばにあるのかもしれません。