4手のための幽奏幻想曲
映画『学校の怪談』で萌えたシーンの記憶をよすがに書きましたが別物になりました。
——プロローグ・出会い——
薄暗い室内に、夏の日差しが窓から斜めに差し込み、埃っぽい空気中に光の筋を作っている。その中央、グランドピアノの前に座っているのは、半透明の姿をした少年だった。
俺は目を疑った。まばたきを繰り返し、目をこすってみる。だが、幻覚ではないらしい。少年の姿は薄れることなく、そこにいた。彼は優雅に最後の音符を奏で終えると、ゆっくりとこちらを向いた。陽の光が彼の姿を通り抜け、夢のような光景を作り出している。
少年はにっこりと笑った。俺の心臓が大きく跳ねる。恐怖?驚き?それとも別の何か?判断がつかない。
「な…何だよ、お前…ッ」
動揺を隠せず声を荒げた。自分の声が震えているのがわかった。冷や汗が背中を伝う。 そんな俺はよそに、少年は立ち上がり、優雅な仕草でお辞儀をした。
「僕は藤堂律。音楽室の天才美少年ピアニスト幽霊さ」
——回想・最悪の夏休み——
その日、俺は校舎裏でタバコを吸っていた。夏休み目前、ギラギラと太陽が容赦なく照りつける中、煙を吐き出した瞬間、後ろから声がかかった。汗でべたついた制服の襟を軽く引っ張り、少しでも涼しくなろうとしてた時のことだ。
「おい、真中!」
振り返ると、そこには体育教師ゴリ沢こと、渋沢が立ってた。がっしりした体つきに短髪、いつもジャージ姿の彼は、元ボクサーの雰囲気を醸し出してた。その鋭い目つきに、俺は思わず舌打ちした。タバコを地面に投げ捨てながら、俺は挑発的な目つきでゴリ沢を見上げる。
「チッ…また来やがった」
「このままじゃ退学処分になるぞ。そもそも未成年の喫煙は……」
はじまった。この教師はいつもこうだ。給料が上がるワケでもないのに、俺のような問題児を更生させることに執念を燃やしている。奇特なことだ。と、俺がいつものように聞き流していると――。
「よし決めた!せめて心を入れ替える為に、夏休み中、毎日学校に来て校舎の掃除と草むしりをしろ。俺が監督する」
ゴリ沢の言葉に、俺の頭の中で警報が鳴り響いた。夏休みの予定が頭をよぎる。バイト、ツレとの約束、何もしない自由な時間。それらが目の前で崩れ落ちていくのを感じた。
(冗談じゃねぇ!何の権利があってそんなことを――)
俺が反論しようとした矢先、ゴリ沢は容赦なく言い放った。その声には、今まで多くの問題児を更生させてきた自信が滲んでいた。
「真剣な話、普段のお前の素行だと退学もあり得る。俺だって庇いきれん」
庇ってくれなんて頼んだ覚えはないが、さすがに退学は避けたかった。ゴリ沢の言葉に逃げ道はない。俺は歯を食いしばった。口の中に唾液が溜まり、苦みが広がる。
「クソッ…横暴教師が。わかったよ」
「親御さんには俺から連絡しておく。サボるなよ?サボったら退学だぞ!」
ゴリ沢の最後の警告が、夏の空気を切り裂いた。俺は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じた。
こうして俺の夏休みは、最悪の形で幕を切った。
——第一章・音楽室の幽霊——
夏休み初日、最悪の気分で学校に向かった。校門をくぐると、すでにゴリ沢が待っていた。
「真面目にやれよ。終わったら報告しろ」
「はいはい」
適当に返事をし、渋々清掃道具を手に取った。草むしりを終え、汗だくになりながら廊下を拭いていると、掲示板に貼られたチラシが目に入った。詳細を読むと、ブラスバンド部が地域のホールや公園で練習しているらしい。
(へぇ、だから静かなのか。まぁ、どうでもいいけど)
清掃を続けていると、突如ピアノの音が響き渡った。その旋律に、俺は思わず足を止めた。しかし、すぐに苛立ちが込み上げてきた。
「うるせぇな。誰だよ、勝手に弾いてるのは」
人がせっせと校内清掃をしているのに、勝手に音楽室に忍び込んでピアノ演奏とはいいご身分だ。どう考えても八つ当たりではあるが、そんなことはどうでもよかった。
俺は音楽室に向かって足早に歩き出した。頭の中では、ピアノを弾いている奴をどんな言葉で罵るかを考えていた。
音楽室のドアを乱暴に開けると、想像だにしていなかった光景が広がっていた。
薄暗い室内に、夏の日差しが窓から斜めに差し込み、埃っぽい空気中に光の筋を作っている。その中央、グランドピアノの前に座っているのは、半透明の姿をした少年だった。
俺は目を疑った。まばたきを繰り返し、目をこすってみる。だが、幻覚ではないらしい。少年の姿は薄れることなく、そこにいた。彼は優雅に最後の音符を奏で終えると、ゆっくりとこちらを向いた。陽の光が彼の姿を通り抜け、夢のような光景を作り出している。
少年はにっこりと笑った。俺の心臓が大きく跳ねる。恐怖?驚き?それとも別の何か?判断がつかない。
「な…何だよ、お前…ッ」
動揺を隠せず声を荒げた。自分の声が震えているのがわかった。冷や汗が背中を伝う。 そんな俺はよそに、少年は立ち上がり、優雅な仕草でお辞儀をした。
「僕は藤堂律。音楽室の天才美少年ピアニスト幽霊さ」
薄く光る半透明の姿は、明らかにこちら側の存在じゃない。でも、それでも――
「自分で自分を天才美少年というなよ!」
それは未知に対する恐怖よりもツッコミ欲が勝った瞬間だった。言葉が口をついて出た瞬間、自分でも驚いた。こんな状況で、なんでこんなこと言ってしまったんだ。
「あは、面白いね君!」
音楽室の幽霊野郎は機嫌が悪くなった様子もなく、にこにこと笑ってる。その予想外の反応に、俺の緊張が少しほぐれた。まぁ、すぐに逆上してとり殺されるってこともなさそうだ。
「ゆ、幽霊だろうが何だろうが、うるせぇんだよ。俺は掃除をしなきゃいけねぇんだ。邪魔すんな」
ビビっていた自分を取り繕おうと、俺は声を荒げる。どもってしまったのは、仕方ない。すると、律はちょっと寂しそうな顔して、柔らかい声で返してきた。
「ごめんね。でも、僕、本当にピアノが好きで――」
その瞬間、俺の心の奥底で何かが動いた。でも、俺はすぐにそれを押し殺した。
「ふん、くだらねぇ」
背中向けながら、吐き捨てるように言い返した。
「二度と邪魔すんじゃねぇぞ」
音楽室を出る時、ちょっとだけ振り返った。律は悲しそうな顔でピアノに向かっていた。俺は胸のモヤモヤを無視して、掃除の続きに戻ることにした。
——第二章・芽生え——
翌日も、俺が校内清掃を始めると、ピアノの音が聞こえてきた。
「またかよ!」
苛立ちを隠せず、音楽室に向かった。ドアを開けると、律が微笑みながらピアノを弾いていた。
「おはよう、校内清掃少年くん」
「うるせぇ!俺は翔太だ!お前、昨日言ったこと聞いてねぇのか?」
律は少し困ったような顔をしたけど、すぐに笑顔に戻った。
「でも、僕にはこれしかできないんだ」
俺は歯を食いしばりながら、ポケットから十字架(小学生の時修学旅行のお土産で買った)を取り出した。
「これでも消えねぇか?」
「それ、何?」
効果がないと分かった俺は、次の日はいつかの露店で買ったブードゥー人形(とびっきりのブサイクさにウケて買った)を、その次の日は神社で買ったお札(悪霊退散が見つからなかったので交通安全を)を持ってきた。でも、どれも効果はなかった。
「翔太は優しいね。赤の他幽霊の僕を、成仏させようとしてくれるなんて」
律の言葉に、俺は思わず顔をしかめた。優しいなんて、とんでもない。そんな風に思われたくない。
「ピアノがうるせぇからだよ」
素っ気なく返事をした。でも、声には前ほど棘がなかった。律はそんな俺の反応を面白がるように、くすりと笑った。
「そんなにうるさい?我ながら天才ピアニスト美少年とほめそやされたものだけど」
律は胸を張って自慢げに言った。その大げさな身振りに、俺は思わず吹き出しそうになった。
「美少年は余計だろ」
律の能天気な態度に、俺の心の氷が少しずつ溶けていくのを感じた。律の明るい笑い声が音楽室に響き渡った。俺は口元を手で隠しながら、小さく息を漏らした。こんな風に誰かと話すのは、久しぶりだった。
次の日、俺は草むしりと校内清掃を終えて、音楽室に顔を出していた。律の明るい笑い声に、俺は思わず顔をしかめた。でも、その表情には前ほど敵意はなかった。
「お前、ホントうるせぇな」
俺は呟いたけど、その口調には柔らかさが混じっていた。律はピアノの前から立ち上がって、俺の方に歩み寄ってきた。
「ねぇ、翔太。僕の演奏、本当はどう思う?」
俺は一瞬言葉に詰まった。正直に言えば、律の演奏は素晴らしかった。でも、素直に認めるのは癪だった。
「まぁ...下手じゃねぇよ」
渋々言葉を絞り出した。律の顔が輝いた。
「やっぱり!翔太、音楽わかるんだね」
「うっせぇな」
「翔太は、どんな音楽が好きなの?」
俺は驚いた。自分の好みを聞かれるのは久しぶりだった。
「別に...」と言いかけ、思い直す。「昔は、ショパンとか好きだったかな」
律の目が輝いた。
「僕も大好き!特にノクターンが...」
気がつけば、俺たちは音楽の話に夢中になっていた。俺は自分でも驚くほど饒舌に話して、律は熱心に耳を傾けてくれた。時間が過ぎるのも忘れて、会話は尽きることを知らなかった。俺の頑なだった表情はいつしか柔らかくなって、時折小さな笑みさえ浮かべるようになっていた。
「あ、もうこんな時間か」
時計を見て驚いた声を上げた。律も少し残念そうな顔をした。
「うん、でも楽しかったね」
「まぁな...明日も文句つけにくるからよ」
律は嬉しそうに微笑んだ。
「うん、待ってる!しっかり掃除と草むしりもするんだよ」
「うっぜえ。お前は俺の母親かよ」
音楽室を後にする俺の背中には、もはや前のような重苦しさはなかった。代わりに、久しぶりに感じる心地よさが広がっていた。
——第三章・告白——
「翔太ってさ、もうピアノはやらないの?」
律の突然の質問に、俺は思わず音楽室のドアを閉める手を止めた。夕暮れ時の柔らかな光が窓から差し込み、律の半透明な姿を優しく照らしている。振り返ると、律は真剣な眼差しで俺を見つめていた。その目には、何か深い思いが宿っているように見えた。
「...どうでもいいだろ」
俺は素っ気なく答えたが、心の中では何かが揺れ動いていた。
「でも、翔太の話を聞いてると、昔はピアノが好きだったみたいじゃない」
律の言葉に、俺は深いため息をついた。懐かしい記憶が、まるで古いフィルムのように脳裏に浮かんでくる。
「...5歳の時さ、俺のじいちゃんが勧めてピアノを始めたんだ」
言葉が口をついて出る。思い出すだけで胸が締め付けられるような感覚がした。
「じいちゃんは調律師でさ。俺がピアノを弾くの見て、才能があるって喜んでくれてた」
律は静かに頷きながら、俺の話に耳を傾けている。
「でも...12歳の時にじいちゃんが死んじまって。そしたら親父が...」
俺は言葉を詰まらせる。あの日の記憶が、鮮明に蘇ってきた。
「親父がピアノを辞めさせて、野球クラブに無理やり入れやがった。男らしくねぇとかなんとか言ってさ」
「それでグレ始めたのか」
律の言葉に、俺は小さく頷いた。恥ずかしさと後悔が入り混じった複雑な感情が胸に広がる。
「ああ...反抗したかったんだよ。でも、本当は...」
言葉を最後まで言えず、俺は口をつぐんだ。喉の奥に何かが詰まったような感覚。律はしばらく黙っていたが、やがて優しく微笑んだ。その笑顔は、まるで暗闇に差し込む一筋の光のようだった。
「翔太、もう一度ピアノを弾いてみない?」
その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。忘れていた感情が、一気に押し寄せてくる。
「俺なんかもう...」
自信のなさと恐れが、俺の言葉を遮った。
「大丈夫だよ。僕が教えてあげる。翔太の祖父さんも、きっと喜ぶと思う」
律の言葉に、涙腺が緩みかけ、ごしごしと目をこする。懐かしさと希望が入り混じった複雑な感情が、俺の中で渦を巻いていた。
「...わかった。ちょっとだけな」
そう言って、俺はゆっくりとピアノの前に座った。埃っぽい椅子の感触が懐かしく、少し緊張した。指が鍵盤に触れた瞬間、懐かしい感覚が全身を包み込んだ。冷たい象牙の触感が、忘れていた記憶を呼び覚ます。俺は深呼吸をして、ゆっくりと演奏を始めた。
最初は少し戸惑いがあった。指が思うように動かず、音が途切れがちだ。でも、次第に指が記憶を取り戻していくようだった。昔よく弾いていた曲の旋律が、少しずつ形になっていく。音符が部屋に響き渡り、俺の中に眠っていた情熱が少しずつ目覚めていく。久しぶりの演奏に、心臓が高鳴るのを感じた。
演奏が終わると、律が大きな拍手をした。その音が静かな音楽室に響き、俺の緊張を解きほぐす。
「すごい!翔太、本当に才能があるよ!」
律の目は輝いていて、心からの称賛が伝わってきた。その純粋な喜びに、俺は少し照れくさくなる。
「まあ...な」
照れくさそうに言いながらも、俺は密かに誇らしさを感じていた。久しぶりにピアノを弾いて、こんなに上手くいくなんて思ってもみなかった。
「これからも弾いてみない?僕が教えられることがあったら、喜んで教えるよ」
律の提案に、俺は少し考えてから頷いた。心の中で葛藤があったが、ピアノを弾いた時の気持ちよさが勝った。
「わかった。掃除と草むしりが終わったら...ちょっとだけな」
それからというもの、俺は日課の校内清掃と草むしりを終えると、こっそり音楽室に向かうようになった。誰にも気づかれないよう、そっと音楽室のドアを開ける。律と一緒にピアノの練習をする時間が、俺にとって大切な時間になっていった。日に日に上達していく自分を感じながら、かつて諦めかけていた夢が、少しずつ蘇っていくのを感じていた。
——第四章・過去——
新しい楽譜を探すために、俺は祖父の遺品が詰まった本棚を漁ることにした。ほこりっぽい匂いが鼻をくすぐる中、俺は慎重に古びた本や紙の束をめくっていった。そんな時、一冊だけ特別に丁寧に扱われていた連弾曲の楽譜が目に留まった。表紙には「友との記憶」と祖父の筆跡で書かれていた。なぜか心惹かれ、その楽譜を手に取り、音楽室に持ち込んだ。
律に見せると、彼の反応は予想外だった。楽譜を見た瞬間、律の目が大きく見開かれ、体が震えだした。彼の半透明の姿が一瞬、より鮮明になったように見えた。
「この楽譜...!」
俺は息を呑んだ。律はまるで長い眠りから覚めたかのようだった。
「思い出した...僕は...」
律の口から、少しずつ過去の記憶が語られ始めた。その声は震え、時折途切れながらも、しっかりと過去を紡いでいく。俺は息を殺して聞き入った。
「僕は...15歳の時、親友と一緒に連弾コンクールに出場しようとしていたんだ」
律の言葉に、俺は息を呑んだ。彼の声には懐かしさと悲しみが混ざっていた。
「でも、コンクール前日に...僕たちは些細なことで喧嘩してしまって」
律の目が悲しみに曇る。俺は黙って頷き、話の続きを促した。律は深呼吸をして、続けた。
「翌日、会場に向かう途中で事故に遭って...そのまま目が覚めたら、僕はこうして幽霊になっていた」
律の声が掠れる。俺は喉の奥に何かが詰まったような感覚を覚えた。律の悲しみが、まるで自分のことのように胸に迫ってきた。
「でも、どうして僕がここにいるのか、何も思い出せなくて...」
その瞬間、律の目に涙が光った。
「翔太のお祖父さんが...僕の親友だったんだ。ずっと一緒にピアノを弾いてきた、かけがえのない存在だった」
俺は言葉を失った。そしてそのタイミングを待っていたかのように、祖父の若かりし頃の写真が楽譜から滑り落ちた。そこには確かに律と肩を組む祖父の姿があった。二人とも晴れやかな笑顔を浮かべ、ピアノの前に座っていた。
「じいちゃんと...律が...」
俺は楽譜を開き、その内容を見た。複雑な音符の羅列に目を凝らすと、祖父と律の想いが込められているように感じられた。胸が熱くなる。懐かしさと驚きが入り混じって、俺の中で渦を巻いた。祖父の思い出が鮮明によみがえり、目頭が熱くなるのを感じた。
その瞬間、俺は決意した。祖父と律の夢、そして俺自身の夢。それらを全て繋ぐものがここにあるんだと気づいた。この曲を完成させることが、祖父と律への恩返しであるような気がした。
「律、この曲を完成させよう。俺たちで」
律の目が輝いた。その瞳には、かつての情熱が蘇っているようだった。
「うん!きっと素晴らしい演奏になるよ、翔太」
それからの日々は、まさに猛練習の連続だった。学校での掃除を終えるや否や、俺は音楽室に駆け込んだ。指に豆ができ、痛みを感じることもあったし、律との意見の食い違いで言い合いになることもあった。でも、俺たちは決して諦めなかった。
「もう一度!」
「ここはこう弾いた方がいいんじゃないかな」
「くそっ、またミスった...」
壁にぶつかっては乗り越え、喧嘩しては仲直りを繰り返す日々。辛いときもあったけど、律と一緒に音楽と向き合える喜びが、俺を前に進ませ続けた。
律も必死だった。幽霊のくせに汗をかいているんじゃないかってくらい、真剣に練習に打ち込んでいた。俺が帰った後も、一人で黙々と練習を続けているらしい。その姿を想像すると、俺も負けてられないと思った。
家に帰っても、俺は自室でこっそり楽譜とにらめっこしては、直すべき手癖を見直していた。律との約束を果たすため、そして自分自身のために、毎日少しずつでも上達していこうと必死だった。
——第五章・選択——
俺と律は、息を呑むような緊張感の中で初めての完全な演奏を行った。音楽室に響く音色は、まるで俺たちの心が一つになったかのようだった。指先から伝わる鍵盤の冷たい感触、律の半透明な姿が作り出す幻想的な光景、そして二人の息遣いまでが完璧に調和していた。夕暮れの光がピアノに映り込み、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
演奏が終わると、静寂が訪れた。律の姿が一瞬、まばゆく輝き、その光は音楽室全体を金色に染めた。その光景は美しくも儚かった。俺は息を呑み、心臓の鼓動が耳元で響くのを感じた。
「律...お前...」
言葉が喉につかえ、律は寂しそうに微笑んだ。彼の目には喜びと悲しみ、諦めが混ざっていた。
「うん...どうやら、お別れの時が近づいているみたいだね」
その言葉に、俺の胸に鋭い痛みが走った。喜びと悲しみ、達成感と喪失感が入り混じった。
「だから、重大な話がある」
律の表情が真剣さと恐れに変わった。彼の半透明な姿が一瞬、より実体を帯びた。 音楽室の空気が重くなり、息苦しさを感じた。
「このままじゃ、僕は翔太を死の世界に引きずり込んでしまう」
「もうここに来ちゃだめだ」
律の姿が歪み始め、まるでテレビの悪い電波のように揺らめいた。音楽室の空気が一層重く、冷たい風が吹き抜けた。蛍光灯が明滅し、ピアノの弦が軋む音が人の悲鳴のように聞こえた。
「来るな...二度と来るな!」
律の声が反響し、まるで脳髄を揺さぶるような感覚だった。俺は混乱し、音楽室を飛び出した。
その夜、俺は一睡もできなかった。律との思い出、音楽への情熱、現実世界での生活が頭の中でぐるぐると回った。律の歪んだ姿が目の裏に焼き付き、最後の演奏の余韻が耳に残った。
夜が明けると、俺の前には二つの選択肢が横たわっていた。律のもとへ行くか、現実の世界に残るか。決断の時が迫っていた。どちらを選んでも何かを失う重みが肩にのしかかり、呼吸が苦しくなった。
——終章α・永遠の友情——
選択肢1:「律のもとへ行く」
俺は震える手で音楽室のドアを開けた。薄暗い室内に足を踏み入れると、不自然な冷気が肌を刺した。その冷たさは、真夏の暑さを忘れさせるほどだった。律の姿が見えた瞬間、心臓が激しく高鳴った。彼の輪郭がわずかに揺らめいているように見えた。まるで風に揺れる炎のように、儚くも魅惑的だった。
「翔太...君が来るなんて」
律の声は少し反響し、どこか現実離れした響きを持っていた。まるで遠い洞窟から聞こえてくるような、不思議な余韻があった。しかし俺には、それが心地よく感じられた。哀しみと喜びが混ざり合ったような、不思議な感覚だった。
「来ないでって言ったのに...」
律の目から一筋の涙が流れ落ちた。部屋の隅々から薄い霧のようなものが立ち込めてきた。俺は黙ってうなずき、ピアノの前に座った。椅子が妙に冷たく感じられたが、その冷たさが、これから始まる特別な時間を予感させるようだった。
「最後の演奏...一緒にしよう」
俺たちの指が鍵盤に触れた瞬間、音楽室全体が淡い光に包まれた。壊れかけたテレビのノイズのような、少し耳障りな音が混ざる。だがその音は、現実世界と幽霊の世界が交差する境界線のような、不思議な響きを持っていた。
律の姿が、だんだんとはっきりしてきた。彼の姿が現実味を帯びていくのを見て、俺は心が躍るのを感じた。まるで霧の中から姿を現す幻想的な生き物を見るような、そんな感覚だった。
「律...」
俺の声は恍惚としていた。体が少しずつ軽くなっていく感覚があったが、それは俺にとって心地よいものだった。まるで重力から解放されていくような、自由で開放的な気分だった。
「一緒に行こう、翔太。本当はこうなって欲しくなかったけど...でも、君と一緒なら...」
律の言葉は、耳の中でかすかに反響したが、俺にはそれが愛の告白かなんかのように聞こえて、苦笑した。
最後の音が静かに響き渡り、そして......深い静寂が訪れた。
――エピローグα――
数年後、旧校舎から不思議な旋律が聞こえるという噂が広まった。その音を聞いた者は皆、少し寂しげだが幸福感に包まれるという。
旧校舎は今も静かに佇んでいる。月明かりに照らされたその姿は、どこか物悲しくも美しい。その内部では、二人の魂が永遠に寄り添い、美しい調べを奏でているのだった。時間も空間も超越した、永遠の友情の証のように。
――終章β・友との記憶――
選択肢2:「律のもとへ行かない」
俺は音楽室のドアの前で立ち尽くしていた。手は震え、冷や汗が背中を伝う。ドアの向こうから、かすかにピアノの音が聞こえてくる。その音色は美しくも儚く、俺の心を激しく揺さぶった。
「律...」
俺は震える声で呟いた。涙が頬を伝い落ちる。ドアに手をかけかけたが、律の言葉を思い出し、手を引っ込めた。
「ごめん...行きたいけど、行けないんだ」
俺は泣きながら話し始めた。声は震え、時折途切れる。
「うん...わかってる、翔太。君の選択は正しいよ」
俺は深呼吸をして、続けた。
「俺、ピアノともう一回向き合ってみようと思う。親とも話をする。だから...」
最後に話だけでもさせてくれ。
俺たちは、ドア越しに夏の思い出をぽつぽつと語り合った。初めて出会った日のこと、一緒に練習した日々のこと、最後の演奏のこと...。時間が経つのも忘れ、二人で語り続けた。
「律...本当にありがとう」
「僕こそ...翔太と出会えて本当に良かった」
最後に、律の声が優しく響いた。
「さようなら、翔太。幸せになってね」
その言葉を最後に、音楽室からの音が途絶えた。俺は、もう二度と律の声を聞くことはないだろうと悟った。
俺が目を覚ますと、周りはすっかり暗くなっていた。音楽室の前で眠り込んでいたようだ。
「おい、真中!」
校内を巡回していたゴリ沢の声に、俺は我に返った。
「先生...」
俺の目は泣きはらして赤くなっていた。渋沢は心配そうにのぞき込んでくる。
「大丈夫か?何かあったのか?」
バツの悪さを隠す余裕すらなく、俺は首を横に振った。
「いえ...ただ、大切な友達とお別れしただけです」
ゴリ沢は何も言わず、優しく俺の肩に手を置いた。
「さあ、家に帰ろう。二学期がはじまる。夏が終わったんだ」
俺は静かにうなずいた。音楽室を後にする時、最後に振り返り、小さくつぶやいた。
「――さようなら、律」
――エピローグβ――
15年後、東京のとある音楽教室。
「はい、だいぶ上手くなってきたね。今日はここまで。来週も頑張ろう!」
30歳になった翔太が、笑顔で生徒が帰るのを見送っている。壁には数々のコンクールの賞状が飾られ、部屋の中央には立派なグランドピアノが置かれていた。
生徒が帰ると、翔太は深いため息をついた。そして、ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには若かりし頃の祖父と、少年の姿が写っている。
「律...俺、夢を叶えたよ」
翔太は柔らかく微笑んだ。彼の人生は決して平坦ではなかった。両親との和解にも時間がかかった。しかし、音楽への情熱を失わなかったことで、少しずつ理解を得ることができた。今では、両親も時々この教室に顔を出すようになっていた。
翔太は立ち上がり、ピアノの前に座った。指が自然と鍵盤に触れる。そして、懐かしいメロディが流れ始めた。律との最後の演奏曲だ。
演奏が終わると、翔太はふと耳をすませた。かすかに、どこからともなく聞こえてくる音色。それは律のピアノの音色に似ていた。
翔太は優しく微笑んだ。
「律...これからも見守っていてくれよ」
窓から差し込む夕日が、翔太の姿を優しく包み込んだ。その光は、まるで律からの返事のようにも見えた。
手癖で書くとバットEDになりそうだったので、光エンドも追加してみました。