晶の病、我聞先生の秘密
なんとなく、こういう書き方は好きである。
レトロな小説です。
雨が降る。肌寒い。晶が、紫陽花と暗い木々に覆われた小高い坂の上の、その家に行こうと思ったのは、病気ばかりだからではない。興味があったのだ。家主の我聞先生に。我聞先生は、学校の先生をやっていた。彼が、古くて汚い中古の平屋建てを買ったのは、今から5年前になる。それまでは、海の見える町の方で、アパートに住んでいた。晶が、我聞先生の家に、たまに世話になおるのに、病気だからとか、特別だからとか、そういう意味はあまりない。ただ、授業を教えてもらって、仲良くなるうちに、我門先生の家に、出入りするようになった。
ザザー…ン、ザザーン…
ちよにやちよに……それがなんになる。
お父さんお母さん。みんな死にました。
潮見村は、太平洋が目の前だ。町の東側に湾があって、漁の船が沖へ出る。松林が湾の回りをまばらに点在している。
学校では、もうすぐ、遠泳の時期だ。栄養失調であばら骨の出た学生ばかりが、一所懸命、海の、浅瀬にあるなめくじ岩から飛び込みの練習をしている。あばらの生徒たちを見ていると、戦争は、まだ終わってないのだとよく晶も思う。晶も、毎日、粟や稗の入った梅干し一個の日の丸弁当をわずかに食べることしかできない。
晶は、病弱で、飛び込みなんて参加できない。同級生からは、軟弱ものと謗られる日々だ。
きれいな巻き貝が、浅瀬にあったので、拾ってきた。我聞先生が、お前は、変なところがあるが、こういうものを拾ってくるのは、よい傾向だよ、と言うのであった。
我聞先生は、理科の先生で、か弱い晶を時に弟のように可愛がった。物静かな若い先生であった。
もうすぐ終戦記念日の8月15日である。村では、村中をあげて供養をした。
なにせ、村人も、死んだ人の数がかなりのものであった。戦争にとられた家の男はほとんどが死んでいた。村を海に向かって流れている四角い木枠の障子を張ったものを何百と流す、灯籠流しと、白い帯を垂らした柄を何人もで持って田んぼの合間を縫うように、並んで村中を練り歩く供養が、夏になると行われる。もう、そんな季節だ。
晶の家でも、戦地で死んだ父親のために、回り灯篭が、箱から出され、仏壇の隣でくるくるとまわり、桃色と水色の綺麗な何かの模様を襖に映し出している。おばあさは、国が悪いんだよ、と、しわがれた声て、あんなもの…と、いけないものを叱るように、晶に滔々と戦争のなにが悪いかを、他にも村の狐が出たとか狸が出たとか、そういう昔話を、寝物語にするのであった。
我聞先生は、学校で教えてくれないことを晶に優しく、時に、厳しく教えてくれた。戦後すぐの今だからこそ、病気の晶がいざというとき困らないよう、先生なみの知恵があるといい、と、執拗に辛いことを言ったり教えたりした。
戦争の話になると、我聞先生は、特に顔を曇らせた。これを見てご覧と、ホルマリン漬けの、なにかの生き物の脳みそを見せた。この病気の子供も長く生きられず、死んでなお、こんな恥ずかしい形で生きさらばえているようなものになってしまった。君も、こんなふうになりたくなければ、その脳に水のたまる病気を、なおしたほうがいい。先天性の病気だから、難しいんだけどね…そう言って我聞先生は、机に肘をついて、難しい顔をして、ため息をつくと黙り込んだ。
我聞先生の家の中は、麻酔の匂いがした。戦争の最中は、街中にあった先生の家にも、被弾した人々が、かつぎこまれたという。小さな町だったが、隣の岡宮市は大きな市で、そこにあった従軍基地や、戦争兵器を作る工場が狙われて、B29の大空襲があったりしたのだ。先生は外科の知識もあった。晶が、怪我をした犬を連れてきたら、猫の糸で、犬の傷を縫合してくれた。そこだけ毛が生えず、ミイラ男のような生々しい傷跡が残ったが、犬は、今、晶の家で元気に吠えて駆けずり回っている。
紫陽花が、庭にも咲いている。
僕は何度も先生に、先生の秘密を教えて欲しいとねだった。父親が戦争にとられて甘える相手のいなかった僕の、おねだりをする相手は、先生くらいなものだった。母親は、戦争が終わると、町の旅館で働きだして、家の家事は祖母がやっていた。
先生にはね、弟がいてね。ある日、ついに先生は語りだした。
弟の話は、先生の口癖だった。君より5歳年上だけどね、とてもやさしい子だったんだけど、戦争で、兵士にとられて南の方に派遣されてね…その言葉を覚えているかい?よく言うだろう、僕は。
先生は暗いまなこで僕に迫って言うのだった。人の秘密を簡単に知ろうだなんて、君はそんな甘い人間になろうと思ってはいけない。そう言いながら、ぽつ、ぽつ、と真夏の雨が降り出して、先生は、黙ってカンテラを持つと、僕の肩を持つと、平屋の裏庭へ連れられた。
そこには防空壕のようなものが掘られていて、ほぼ、仲は洞窟になっていた。先生は中に入るようにうながす。僕が、先生に続いて中に入ると、その中は、真夏でもひんやりしていて、霊廟のようになっていた。先生は、奥の方へ、僕を誘う。奥には襖のような入口があって、地下室へと続いている。
地下室の前に、ふすま扉があった。先生は、いいのか、君は、こんなことを知って、と、怖い顔をして、ふすま扉を開いた。これを見てご覧。
奥には、あちこち包帯で巻かれた、ミイラ男のような、生きているのか死んでいるのか分からない人間が、布団に横たわっていた。あちこちにウジが湧いていて、涼しい部屋のなか、ブンブン飛んでいる。弟は、船に乗って戻ってきたけど、二目とみられない姿になってしまったんだ。先生はそう言って、悔しそうに嗚咽を漏らし、泣き出した。君は、なにを知ろうというのだね?僕の秘密は、こんなものしかない。君も知っていて欲しい、戦争がなにを残すか、君のその脳の病も、きっと君の両親はひどく苦しんだだろうね。そういって、先生は、突き飛ばすように、僕の引っ張って元の平屋の屋敷に戻らせた。
このことは、言うのじゃないよ。
弟は、もう、長くないんだ。
そう言われて、僕は、ついに泣き出してしまった。
万歳万歳天皇陛下
ぱっと散って、咲く美しい桜のように、
夏の桜は、露と消える。
まぼろばの、島国の、遠い理想は、波間の向こうに消えた
こういうレトロでノスタルジックな小説もいいかと思い。
戦争自体も、もうあまり語られず、ノスタルジーな雰囲気に。
ちょっと残酷な描写もありますが、戦争の話なので当然で。