ムシャクシャしてやった。チョコレートなら何でもよかった。今は反省している。
チョコレートひとつで狂う人生があることを知って欲しい。
「ギブミーチョコレート! ギブミーチョコレート!」
夜半の繁華街に田中の泣き叫ぶ悲痛の声が木霊している。
田中は朝から繁華街で泣き叫んでいた。バレンタインデイにも関わらずチョコレートが貰えないのだ。田中は産まれてから一度も女からチョコレートを貰ったことが無い。たったの一度たりともだ。そして一度も貰う事が叶わぬままに平成が終わりを告げようとしていた。このままでは、平成に一度もチョコレートを貰う事ができなかった男として、逮捕されてしまうだろう。それに対する多大なる危機感が田中を突き動かしていた。
田中は善良な男である。今まで悪事など働いたことが無い。度胸が無いのだ。目立たぬように目立たぬようにと、とかく問題を起こさぬように注意を払い、背景に溶け込んで生きてきた男である。そんな善良な小市民である田中が、夜半の街中で泣き叫びチョコレートをねだっているのだ。その心中たるや察するに余りあるであろう。
国家権力の目が田中に突き刺さる。このチョコレートを貰うこともできない、哀れな男を断罪する時を今か今かと待ち構えているのだ。ここ日本は法治国家である。従って、法を破る者は等しく罰せられるのが道理である。しかしながら、国家権力の執行者たる警察官とて人の子である。どうしても低い所に流されてしまうのは仕様のない事なのである。どこにいるかも判然とせぬ凶悪犯よりも目の前の卑小な罪人を逮捕する方が圧倒的に簡単であり安全である。物体がポテンシャルエネルギーの低い所で安定しようとする自然法則が人間の心にも働いてしまうのである。それを責めることが誰にできようか。
時刻は23時55分。刻限まで残りわずか5分である。あと5分の間にチョコレートを貰うことができなければ、田中はあわれ罪人として逮捕されてしまうのである。かたや警察官達はたった5分待つだけで、一人の犯罪者を逮捕することができるのである。
「ギブミーチョコレート! ギブミーチョコレート!」
田中は枯れきった声を一層張り上げる。そしてなりふりは構っていられないと、道行く女達の前で土下座をし始める。しかし、田中の悲痛な叫びも女達には届かない。田中の様な冴えない風貌の男に女達は一切興味を示さないのだ。路傍の石と同じである。田中はこれまでの人生を悔やんだ。背景と同化し、目立たぬようにと生きてきた人生を悔やんだ。路傍の石となる事を良しとしてきた人生を悔やんだ。しかし、悔やんだところで後が無いのだ。
そして田中は最後の手段に打って出た。これはと思う女の足に縋り付いたのだ。足に縋り付いて、あらん限りの力を振り絞って叫んだ。
「ギブミーチョコレート! ギブミーチョコレート!」
田中に足を掴まれた女、年のころは30前後であろうか。グレーのスーツスタイルで、髪型はショートボブ、アンダーリムの眼鏡をかけている、いかにもOLと言った風貌である。どうやら酔っぱらっているようで、赤ら顔で呼気からは飲酒後、特有の匂いが漏れている。田中が何故この女を選んだのか。それは直感で、自分と同じ匂いを感じ取ったのだ。幸の薄そうなこの女ならば俺の境遇を分かってくれる。そんな期待があった。
一方、女の方は、田中の心の機微を悟っていた。この男は、自分を同類だと思って哀れみチョコレートをくれるに違いないなどと考えているのだろうと悟っていた。
なんと舐められた事か、かような浅ましい匹夫に同類扱いされるなど自尊心が酷く傷つけられる――。
女は内心憤っていた。しかしながら、この女も悲しいかな田中と同類である。哀願されれば断れぬ気の弱い女なのである。
「お兄さん、落ち着いてよ。ちょっと待って。」
女はそう言いながら、ハンドバックの中に手を突っ込み何かを探し始めた。その姿を田中は期待に満ちた目て見ていた。
きっとチョコレートを探しているのだ。俺は最後の最後でやってやったのだ――。
そう考えながら田中は給餌を待つ犬のごとく女の足元で正座をしながら女の次の言動を待った。
しかし女は、どうにもハンドバックの中をかき回すばかりで、一向にチョコレートを出す気配が無い。ただ、時間だけが過ぎていく。時刻は23時59分となり、田中は酷く狼狽し始めた。
「は、は、早くギブミーチョコレート! ギブミーチョコレート! ハリー! ハリー! ハリー!」
焦る田中を尻目に、女は時計で時刻を確認した後、何かを握りしめて田中の前に拳を突き出した。
「はい、チョコレートあげる。」
ついに、ついに待望のチョコレートだ――。
田中は歓喜に打ち震えながら両手を皿のようにして、女の拳の下に添えた。
「ありがとうございます! ありがとうございます! これで私は救われました。あなたは私の救世主です。本当にありがとうございます。」
そして女の拳が開かれて、田中の手に何かが落ちてきた。
俺は救われたのだ。これで俺は明日からも、お天道様のもとで生きて行くことができる。今までと同様に、路傍の石として、ただの石ころとして街中に佇むことができる――。
だが、女の手から零れ落ちたそれは、田中の期待していたものでは無かった。
その酸化した銅の塊は見まごう事なき10円玉であった。
「うーそーだーよ! チョコレートもらえない男とかだっせーよなぁ! それでチ〇ルチョコでも買ってな!」
女は吐き捨てた。
田中の心中に疑問の嵐が吹きすさぶ。
なぜなぜなぜ!?なぜこの女はこんな真似をするのか!? 同類に相違ないはずだった。俺の目に狂いは無いはずだった。俺はこの両の目で同類を見抜いて平成と言う時代を生き抜いてきたのだ。なぜだ。なぜ平成最後のバレンタインデイに限って見間違えたのだ――。
茫然自失の田中に女は、言葉を続ける。
「貴方みたいな底辺のクズに差し上げるチョコレートなんて、もとより持ち合わせていなくてよ。最初から、日が変わるまで時間稼ぎしてただけ。おわかり?」
妙な芝居がかった鼻につく言い方で田中に追い打ちをかける。小市民である田中も、これには堪忍袋の緒が切れた。もとより失うものなど無い身の上となったのだ。捨て鉢の田中は女の胸倉をつかんで激しく揺さぶった。
「おどれ! はようチョコレート渡さんかい! ワシを舐めとったら承知せんぞ! おどれのアポロ〇ョコを食うたるさかいな! ほんだら、ワシのキ〇コの山が、チョ〇バットになるど! チョ〇ベビーの事は安心せい! わしのたけ〇この里に連れてったるさかいな! 二度とお天道様の下で、コアラの〇ーチはでけへんと思えよ! まずはお前のチョ〇パイや!」
田中は血走った目で、女の胸倉をつかみながら支離滅裂な事を叫ぶ。
「おまわりさ~ん。たすけてくださ~い。」
女はへらへらと笑いながら、周囲の警察官達に助けを求めた。実に恐ろしきはアルコールの力である。普段であれば委縮してしまうような暴力に晒されながらも女は愉快そのものであった。もしこの女が素面であったならば田中にチョコレートを差し出していたであろう。アルコールの力を田中は見誤ってしまったのだ。
女が叫ぶと、すぐさま近くの大柄な黒人警察官二人は田中を女から引き離した。そして、田中は大した抵抗もできないまま、アスファルトの上に組み敷かれた手錠をかけられてしまった。
「暴行と、チョコレートを貰えなかった現行犯で逮捕する。話は警察署でゆっくり聞かせてもらうからな。このクズ男め。」
田中の社会的地位が永遠に失われた瞬間であった。ささやかな幸せを願った男の末路である。
「おまわりはん、ワシはどないなるんでっか。ワシは、ただ毎日、ブラックサ〇ダーが食べられるような、ささやかな幸せのある人生を望んどっただけなんや。マーブルチョ〇レートみたいに彩られた人生や、ト〇ポみたいに最後までチョコたっぷりな人生なんて大それたもんは望んどらんかった。それやのに、なんでなんや。ワシはどこで道を踏み外してもうたんや。」
警察官に連れられていく田中の背中に、エンゼ〇パイの羽はついに生えることが無かった。
男の子の心は繊細
まるでチョコレート菓子のよう