家畜化された受け手
以前から面白いって言葉の哲学になった時受けない傾向があると思う。だから放置してたけど、ここに来てもしかしたら上手くやれば受けるかも?と思って考え直して再度挑戦する。受ける事に何故拘るか?と言うと、おそらく本当は関心があるのにそれを上手く誘導してくれない点だと思う。
本当は関心があるのなら無関心を理由に放置してきた根拠がなくなってしまうから。もう1つあるこれが分かったからと言っても、だからってその誘導方法が思いつかない。多くの人は私の事を馬鹿だと思うだろう。説明が下手としてしまう。だが私は分かってしまうんだ。私のレベルからそのレベルに無い人間にどうやって言語化すれば良いのか?について。
はっきり言うと無関心なあんたらが馬鹿なんだよ…。おいおいとなるだろう。嫌だからね、関心が本当はあるのに、それが繋がってるのが分かってないのが問題なんだ。私にはそれが分かるんだ。何故か?無自覚にキーがあるからになる。本人が自覚出来てないのに、興味があるなんて思うわけ無いんだ。
こんなの無理でしょ?となる。だがもしかしたら上手く説明できるかもしれないと思いついた。何度も言うがこれは私が下手なんじゃない。全く逆、上手い言い方が思いつかなかったになる。それだけ難易度の高いことになる。
過去私は文学を面白くないと思っていた。その理由がどうしても知りたかった。通常そこでやめるだろう。何故私が文学作品を読んだか?と言うと子供時代の国語の学習に使っていたんだ。だから必然がそこにあった。そもそも物語りが基本好きなので悔しさもあった。後は時間が掛かる。その時間を経た面白さが湧いてくると気がついた事がある。
私は、それでも文学は面白いと思わないと気が付いた。何故か?いちいち面白さを発見するのがメンドクサイからだ。以前書いたと思うが、私はこれをスポーツをやるのには最低限は筋力持久力などの基礎体力が必要という奴だ。結局ある程度は慣れれても、体力(文学読書力)の無い私には読んでて疲れるんだ。
じゃ逆に疲れない作品の特徴が今度は気になってきた。そうなってくると、ああそうか、私の面白くない面白いと言う基準は、最初から用意されていたと気が付く。狭い範囲の多くの人に共通し特に低年齢でも楽しめる面白さばかり詰まってる事に気が付く。なるほど文学が面白くない原因は私にあったんだと気が付いた。
根本的に私が面白いと思う作品は構造が違うと気が付いた。ある程度慣れてしまったので、面白さがしっかりとは分けられないが、それでもその時点ですでに私には面白さに対して傾向がきちんとあった。それによって判別していくと、文芸とは違うタイプの作品があると気が付いてきた。
それらを私は娯楽作品と呼ぶことにした。私達の多くは無自覚にこれらの娯楽作品によって脳が慣らされている。この馴らされた脳を持つ事はある意味家畜化された集団と良く似ていると考えている。文芸が野生だとすると、私達はもう飼料でしか生きられないんだと気が付く。
これに対して批判を述べるのは簡単だ。私は逆に考えたんだ。もう家畜化されたのが当たり前の人間達は、物語における家畜としての新しい野生とは違う新しい習性で独自の価値観を形成するべきだと。この点私は普通じゃないと思う。普通や過去の人たちはコレで商業主義嫌いになる。そこには自由が無いからね。私は家畜化されてすでに別の生き物になった自分を認めて、もう無理に野生に戻って自然ライフを営むのをやめようという視点にたった。
これを怠惰と言うならそれでも構わない。だがもう子供の頃からこれに慣らされて自分にはどうしても面白さがそっちに傾いてしまうんだ。理性ではおかしいのは知っていても感情にうそはつけない。そしてこれを破壊しなければならないとはならない。家畜の柵を私は壊さない。革命者にならない。
それより、この生き方を認めて、新しい価値観を築いたほうが良いのだと考えるようになった。怠惰?多分普通に生きていたら皆こうなる。それは多分もう野生の物語の楽しみ方は時代に合って無いんだ。太古の昔の生き方と発展した社会の生き方が同じなわけがない。今の社会にあった評価哲学の確立。これが私の目的になる。
それには、面白いと言う慣れくる家畜化された無自覚な脳のまま、ベターでは満足せずにベストを求める価値を確立させていく。それは多分私は面白すぎるって言葉で多くの人は理解できるんじゃないか?と見ている。ぼんやりとした気楽な気持ちで出てくる面白いって創られた感情に対して、そこから質を一切変えずに、そのままこれ面白いを超えた面白すぎるぞって上を多分多くの人は感じていると思う。
それは芸術志向などの究極や至高とは違うんだ。あくまでベターで妥協した適当な面白いって感情のまま変えずに面白すぎるなんだ。商業主義的な受け手に媚びて面白さがある程度想定されて物語。馴らされた作られた脳が作り出す面白さ。その脳のままたたき出してくる上の面白さ、それが面白すぎるだと私は見ている。
それを芸術的志向の究極や至上などの価値と同一視してはならない。