大日本帝国陸軍新型中戦車チハ
昭和12年9月26日、様々な新兵器が日々制式採用されているこの年に、日本陸軍機甲部隊の新たな一歩が踏み出される事となった。
今までの日本陸軍の機構戦力は装甲車と軽戦車だけだった。中国を相手取るにはそれで十二分な戦力に成った。しかし、米ソと戦争をする可能性が高まって行くにつれ、砲兵部隊の対戦車砲では力不足になることは明白だった。
その為、総技研機甲部は、一先ずソ連BT戦車郡、米M2中戦車を蹴散らせるだけの戦車を開発することに決定し、九七式中戦車『チハ』が開発された。
九七式中戦車は世界でもトップクラスの性能を持つといっての良い戦車ではないだろうか。
構造こそ、クランクシャフトを用いて後部エンジンの回転を前部軌道輪に伝えていたり、サスペンションは蔓巻バネの独立懸架に加え、車体前面の装甲に垂直な部分が在る、と云った旧態依然なものである。
しかしながら、従来の技術を使っているだけに整備士の理解が得やすく、稼働率は高くなる予定である。その上、ただ古いだけでなく、車体は溶接を多用し、リベットを用いずに組み立てられて、軽量化と強度の向上が見込まれている。
砲塔は3人乗りに増え、車体を合わせれば5人乗りとなり、各乗員の負担は軽減することとなった。
主砲は九七式4機動四七粍砲を流用しており、徹甲弾を用いて1000m先の60mmドイツ製表面硬化装甲版を貫通できる威力を所持できた。
砲塔上面に車長用の、砲塔と連動する同軸機銃式の、車体前面の通信手用の計3挺の九二式重機関銃車載仕様が取り付けられており、周囲に歩兵の護衛が無くとも敵歩兵の襲撃を切り抜けられるように考慮されている。
因みに、九二式重機関銃車載仕様とは、銃杷が銃後部にハの字に取り付けら、押し金で発砲するのを、軽機関銃のように銃下部の銃杷と引金、後部の銃床という具合に改良して車内で構えやすくしたものである。
砲塔前部装甲は75mm、正面装甲は50mmで、トランスミッション整備用のハッチは強度確保の為大きく、同様の装甲材と同様に50mmの厚さが備わっており、防御力の低下は最小限に留まっている。
車体後部に備わるエンジンは、統制型九五式発動機。12気管の320馬力ディーゼルエンジンが搭載された。これは統技研製の、シリンダーにアルミ合金鋳造で作られた空冷式の小型軽量なディーゼルエンジンだ。その力は、九七式中戦車約17tの総重量にも関わらず、洗練されたサスペンションと共に最高速度45km/hを発揮する程。そして操縦系統に油圧サーボとホンダ式シンクロメッシュ機構が取り入れられ、操作性が従来の車両に比べ格段に向上している。
整備に関しても考慮されており、車体後部の装甲は観音開きで、そのままエンジンを後ろに引き出すことが出来るようになっている、整備やエンジンの取替えの際に便利な機能である。
砲塔の内部には、砲塔に吊り下げられる形で、作業用の砲塔と連動する床…砲塔バスケットが取り付けられており、砲塔旋回時の作業の煩雑さが大幅に軽減された。特に装填手は一々砲栓の方向へ向き直る必要が無くなり、砲に追従する座席の設置もあって疲労の減少が報告されている。
九七式中戦車は日本陸軍初の対戦車を意識した戦車とあって、実戦部隊からの期待は非常に大きい。
日本陸軍では、対戦車戦闘を中戦車の役目とし、軟装甲目標や歩兵支援は軽戦車や砲戦車、対陣地は砲兵科の大砲と自走砲という役割分担を行うことを決定している。設計目標に因って同じ規模の戦車を複数用意するのは非効率であると考えたのだ。
軽戦車は旧式の九五式軽戦車が継続して使用されることになっている。稼働率や量産性を優先した結果で、対歩兵ならば砲の火力はそれほど重要ではない為、それで十分とされたのだ。何より九五式軽戦車があまりにも優秀な為、乗組員が後続に興味を示さなかったのも一因だろう。
しかし、自走砲はそうもいかなかった。そも従来使用されていた車両が無いのだ。欧州の戦車開発の模様から研究こそ行われていたものの、それも運用形態の構築という段階であり、全く開発製造のノウハウが無い状態だった。
その為、九七式中戦車の車体に九五式野砲の台車部分を外した物を載せ、オープントップ式に装甲を前部と左右に取り付けた、九七式七糎半自走砲『ホイⅠ』。そして同様の手法で機動九二式十糎榴弾砲を搭載した、九七式十糎自走砲『ホイⅡ』が開発された。九七式中戦車の車体構造が量産に向いた簡便なものであったことにより部品の互換性が生まれる事と生産設備の流用が可能になると判断された為だ。サスペンションの性能が良かった為、特に設計の変更が無かったというのもある。
そも、これほど急造的な自走砲開発には、近年の日本陸軍歩兵部隊の急速な機械化が大きな影響があったからだ。
一次大戦以降の民間自動車技術の習熟によって、軍用に耐えうる輸送用トラックの大量生産が可能になった。広い中国大陸を主戦場に見据えている日本陸軍に取っては、徒歩で移動するよりも速く疲労も少なくなるのだから導入しない理由が無い。石川島自動車製の六輪トラックなどを、海軍の八八艦隊の予算の譲渡によって当初の想定よりも早期に大規模に編入することが出来ていた。
それによって、未だ人力、馬力に依存する側面のある砲兵科部隊は歩兵部隊の進軍速度に付いていけなくなる可能性が浮上してきたのだ。
実際に、満ソ国境付近で機動防御を行っている第一方面軍第五中隊で、砲撃隊が遅れた為にソ連軍の急造砲撃陣地を攻略できず、国境線から2kmまで侵入を許すという事態が発生した、これに軍令部は満ソ国境に簡易的ながらも防衛要塞線を建造すると共に、自走砲、若しくは砲戦車の開発を急がせることになった。
ポーランドの対ソ連要塞線がマジノ線に負けず劣らずの規模を誇るようになり、その後方に居るドイツとは独波不可侵条約を締結した。自らが許したとはいえ周囲の国家を喰らって国力をつけたドイツへの待ったが英仏からかけられたのだ。前述の独波不可侵条約は英仏の砲艦外交によって成しえたものだ。
このように、欧州方面への侵攻は非常に困難なものとなり、領土の拡張に積極的なソ連は満州方面へと目を向けた、中央アジアの荒野を行く気力はソ連には無かった。ソ連は大粛清による国民の反発感情を新たなる肥沃な領土をもって相殺する目論見らしいと各国首脳は考えている。
ソ連との国境線は日増しに緊張感が増している。満ソ国境では紛争が絶えず、樺太の国境線では国境警備隊だけでなく陸軍部隊が出動して国境警備がより大掛かりなものとなった。
陸軍だけでなく、海軍もソ連を警戒する動きを見せている。日本海に展開しているのは哨戒機、哨戒艇、海防艦、通報艇と言った補助艦艇だけだったのを、第四、五航空戦隊とその直衛艦隊を投入、いつ侵攻用の輸送艦が攻めてきても対処できるように哨戒機を増やす等といった対策を施した。これによって日ソ間の緊張が更に促進されることとなったが、実際に攻めて来られている為日本国民からの反発感情は少ない。時折ソ連方面からの領空進入機があるからと云うのもあるだろう。
ソ連の重戦車、中戦車の大規模整備には各国が注目しており、特に国境が接し、要塞線を持っていない日本は特にソ連の動きに神経質になっている。
世界各国では日本とポーランドのどちらにソ連が侵攻するかを議論しあっている。ソ連の整備している戦車野戦砲郡は、ポーランドの対ソ要塞線突破用のものだという意見も多数上がっているのだ。
しかしその危惧を尻目に、ソ連は未だ沈黙を続けている。それに軍事関係者だけでなく、一般市民も不安が煽られていた。
解説、余談
チハと言うより色々改良された一式中戦車。チハタンばんじゃーい ∩( ・ω・)∩