後章 その気持ちに正直に3
放課後になると、すぐに僕は誠司と共に彼の家へ向かった。
「お邪魔しまーす」
勝手知ったるなんとやら。靴を揃えて家に上がる。
「先に行っててくれ。飲み物持って行く」
「手伝うよ」
「いいって」
そう言って誠司がリビングに消えていく。お言葉に甘えて二階にある誠司の部屋へと向かう。
鍵のない和風な引き戸を開けて部屋の中へ入り、ローテーブルの脇に鞄を下ろしてベッドに座る。小綺麗に片付いた部屋の中を見回してから、日課となった本棚漁りを始めた。
天井近くまでそびえ立つ大きな本棚の一番下の段。そこに並ぶ漫画をいくつか抜き取り、奧を覗き込む。
『お兄ちゃん、もう我慢できない』
すぐ横の本に視線を移す。
『妹はエッチな兄がお好き』
ずらっと並ぶいかがわしいタイトルの数々。誠司は上手く隠しているつもりらしいけど、バレバレだ。
誠司は妹物が好きらしい。兄弟姉妹がいないから憧れもあるのだろうか。僕も一人っ子だからその気持ちは分かるけど……さすがに性の対象にと考えたことはない。彼の将来が心配だ。
本棚には先週まで見なかったタイトルの本がいくつかあった。最近買い足したのか。まったく男というヤツは……。
えーとなになに……。幼馴染みには首輪が良く似合う、と。近親物じゃなくなって良かったと思ったら、今度は拘束物か。やっぱり彼の将来が心配だ。
興味を引かれて、ぺらりとページを捲ってみる。幼馴染みの女の子が自分から望んで首輪を巻いてもらい、主人公のことを「ご主人様」と呼び、SMチックな情事に溺れるというタイトル通りの展開。
おぉ……なんか、その、凄い……。
男だった頃にこういう本をいくつか読んだことがあるので、ある程度の耐性はある。しかし今の自分は女だ。どうしても女の立場から読んでしまう。興奮すると言うよりも、あんな大きなものが自分に入るのかとか、そういうことを思ってドキドキする。
それにしても、この女の子。誰かに似てるような……。
『うおっと!』
――っ!?
扉の向こうから聞こえた誠司の声で我に返り、慌てて本を戻しベッドに座り直した。
「ふう、危なかった。もう少しで転けるところだった……って夏樹、顔が赤いがどうかしたのか?」
「へっ? べ、べつに何でもないよ。ここが暑いせいじゃないかなー」
「エアコン入れたばかりなのに暑いはずないだろ。それに暑いならコートを脱げば良いじゃないか。耳当てまでつけたままだし」
「お、おぉー。本当だ。いやー気付かなかったなー」
誠司に怪訝な顔をされつつ耳当て、マフラー、コートを脱ぐ。畳んでベッドの脇に置き、ローテーブルの前に座った。
「さっ、始めようか」
「熱は本当にないのか?」
「な、ないよ。ないない。いいから早く始めよう。センター試験まで日もないしさ」
いそいそと鞄から教科書とノートを取り出す。
「やけに今日はやる気だな」
「いつもこれぐらいやる気に満ちてるつもりだけど?」
「そうかあ? まあやる気を出してることはいいことだ。ほら、ココア」
誠司からマグカップを受け取り口を付ける。ほっと息を吐き、頬を緩める。相変わらず誠司が作るココアは美味しい。
「よし、んじゃ始めるか。今日は英語だな」
「うん」
マグカップをテーブルに置き、代わりにシャーペンを持つ。英語は僕の最も不得意とする科目だ。誠司が僕の隣に座り、教科書を開く。
「夏樹。とりあえずこのページの英文を全訳してみてくれ。時間は二十分」
「うぐっ。最初からハードだね……」
誠司はスパルタだ。
◇◆◇◆
「できたー! 疲れたー! 休憩!」
「お疲れさん。どれどれ」
誠司がノートを取り上げるのを見つつ、んっと伸びをして床にごろんと転がった。床暖房が効いていて温かい。カーペットもふわふわしていて触り心地も良いし、このまま寝てしまいそうだ。
「おーい。寝るなよ」
「はいはい。分かってますって」
右に左にごろごろと転がってから体を起こす。誠司が赤ペンでノートにチェックを入れていくのをローテーブルに頬杖をついて見つめる。いつもよりチェックの数が少ないみたいだ。
「夏樹って、最近よく笑うようになったよな」
「そう?」
誠司が手を止め、顔を上げる。
「ああ。こっちの世界にきてから、よく笑うところを見ている気がする」
「ふーん」
気の抜けた返事をすると、誠司は赤ペンの先で頬を突っついた。
「今も笑ってる」
「どれどれ」
右手で頬を擦る。たしかに口角が上がっていた。にやけてる?
「いいことでもあったのか?」
「んー」
頬をペチペチと叩きながら天井を見上げ、そして誠司を見つめ直し、はにかむ。
「誠司と一緒にいられるから、かな」
自分で言って恥ずかしくなり、誤魔化すようにまた笑う。ビクッと誠司の肩が震えた。
「あっちの世界だと、誠司はみんなの期待に応えようと、毎日勉強勉強で、塾に通ったり集中講座受けたりで、全然一緒にいられなかったでしょ? 進学先も違ってたし。それでさ、ああ、こうして僕達は少しずつ離れていくんだなあって、寂しかったんだ」
我ながらなんとも女々しい。誠司だって唖然としているじゃないか。でも、事実だから仕方ない。
「だから、こうして毎日誠司と一緒にいられるのは凄く楽しくて、もしかしたら大学も一緒に通えるかもしれないという今の関係は凄く嬉しくて、それで――」
突然強い力で両肩を押された。抵抗する間もなくカーペットに仰向けになり、天井を見上げ……じゃない。見えたのは天井ではなく、覆い被さるようにして僕を見下ろす誠司だった。
「えっと……これはどういうことかな」
眼前の誠司に問いかける。どこか思い詰めたような表情をした彼の手は僕の手首を掴み、床に押しつけている。おかげで起き上がるどころか動くこともできない。
「夏樹」
「は、はい」
思わず声が上擦る。息がかかりぐらい近くにある誠司の顔。瞳は吸い込まれそうな黒で、じっと見つめていると、暖房が効きすぎてるわけでもないのに、熱に浮かされたように頭がぼーっとしてくる。
「……いいよな?」
何が? とは言わない。さすがにこの状況で分かりませんと言えるほど、僕は鈍感じゃない。
誠司は男で僕は女。ここは誠司の部屋で、家には僕達以外誰もいない。
気付いていた。誠司が僕のことを好きなことを。誠司はこっちの世界の記憶がある。僕と誠司が幼馴染みであり、同時に恋人同士でもある記憶。それらを覚えていて、僕を見て、何とも思わない方がおかしい。僕とは違い、誠司は性別が男のままなのだ。世界が違えど、同じ自分の記憶。同じ自分の想い。記憶と想いがどれだけ強いのか分からないけど、今の彼の様子からして、それはとても強いようだ。
――だから、彼が僕のことを好きになっても何らおかしくはないし、彼が僕のことを求めても、自然なことだ。
「うん」
両腕に少しだけ力を込める。誠司がすぐに手をどけてくれた。
「誠司」
彼の名を呼び、迎え入れるように両腕を広げる。
――だから、いつも傍にいてくれる彼を、好意を寄せてくれる彼を、僕が好きになってしまっても、極々自然なことだ。
誠司の顔が近づいてくる。広げた両腕を彼の首に回し、目を閉じた。
「んっ……」
唇に感じる暖かさ。少し乾燥しているのか、かさついていた。リップを塗れば良いのにと、場違いなことを考えている自分に内心笑いがこみ上げる。結構余裕があるらしい。
キスをした。初めは軽く。それからもう少しだけ強く、押しつけるように。
「んはあ……。誠司……」
思わず甘ったるい吐息が漏れた。しかも離れていく誠司に寂しさを覚え、弱々しく彼の名を呼んでしまった。すぐに冷静になって、誠司に笑われるだろうかとひやひやしたけど、そんな野暮なことはしないらしい。唇を離した誠司は優しく僕の頭を撫でた。
「好きだ。夏樹」
「あはっ。順番が逆だと思うけど?」
「そ、それは……」
居心地悪そうに視線をそらす誠司。
胸に流れ込んでる暖かな光。胸に溢れる愛しいという感情。そして夏樹の『記憶』と『想い』。
――ああ、そうか。きっと誠司も、こんな気持ちなんだ。
いまだ目を泳がせる彼を引き寄せ、今度は僕から彼にキスをする。軽くチュッと合わせるだけのキス。見開かれた彼の瞳に微笑みかけ、僕は口を開く。
「夏樹も、誠司のことが好きだよ」
そう言って、また僕はキスをした。