後章 その気持ちに正直に1
翌日。保温ケースに弁当箱を詰めて家を出ると、ちょうどインターホンを押そうとしていた誠司と会った。
「おはよう。ちゃんと時間通りに来れたんだね」
ニシシと笑って誠司をからかう。彼はたまーに寝坊することがあるのだ。
「当たり前だ。復帰一日目にして遅刻とか目立ちすぎるだろ」
「そういうのもいいんじゃないか? どうせその脚に松葉杖だけで目立つ要因としては充分だし、変わらないよ。うん」
誠司の肩をポンポンと叩き、横を通り過ぎる。アコーディオンタイプの門扉を開けて、振り返った。
「ここ、段差あるから気をつけて」
言って右手を差し出す。
「人を病人扱いするな」
「立派な病人じゃないか」
「病人かどうかじゃなく、病人として扱うなって言ってんだよ」
「と言いつつ結構きつめに握ってくるその左手はなんだ」
振り解けない程度にぎゅっと握りしめられた右手に視線を向ける。
「悪い、痛かったか?」
「ううん。痛くはないけど」
誠司の手が思いのほか大きくてビックリした。倍とまではいかなくても、一回り、二回りは大きい。僕の手が小さいから? いや、こうして誠司と手を握ることなんてずっとなかったからだ。小さかった頃の誠司とは違う、固く、大きな手。今喧嘩したら簡単に負けてしまうだろうな。
「もう殴り合いの喧嘩はできないね」
「そもそも殴り合いするほどの喧嘩をしたことないだろ」
「ヒーローごっこして殴られたことならある」
「あれはお前が一歩前に出たからだ。それに謝ったぞ」
「うん。だから許してる」
誠司がバランスを崩さない程度に手を引く。彼は木製の松葉杖をついて僕の隣に並んだ。
「高校生にもなってヒーローごっこなんてもうしないし、誠司に殴られるのはあれっきりなんだろうなーと思ってさ」
「女に手を上げるほど、俺は落ちぶれてないっつーの」
「あはは」
女、か。誠司の言葉と、秋風がふとももを撫でる感触。それらが女であることを自覚させられる。
「ところで、バンツやブラも女物なのか?」
「手は上げてないけど、違う意味で落ちぶれてないか?」
「純粋に疑問に思っただけだ」
半眼を誠司に向ける。そらすことなく正面から受け止める彼に下心はないように見えた。僕は少しだけ思案した後、正直に答えることにした。
「もちろん女物だよ。タンスの引き出しにはそれしか入ってなかったんだから。それに、不意に覗かれたり着替えで見られたりした時に男物だったら、それこそおかしいじゃないか」
「ほう。ってことは今も、あの薄くて小さい、肌にピッタリと張り付くショーツと、普通の男なら絶対付けないであろう緑のブラジャーを付けてるって訳か」
「言い方がエロイ。変態。ショーツって言うな。せめてパンツと言え。あとなんで僕が緑のブラをつけていることを知ってるんだ」
「夏樹は緑色が好きだから言ってみただけだ」
にやりと誠司が笑う。しまった。そう思っても今更遅かった。
「しかしそうか、緑か」
誠司の視線が胸に行く。咄嗟に左腕で覆う。コイツが今頭の中で何を考えているのか、大体想像はつく。だから僕は彼を睨む。
「ド変態」
「男というのはそういうもんだろ? 元男の夏樹なら分かると思うんだが」
「そ、そりゃまあ、そうだけど……」
僕だって一週間前までは普通の男だったんだ。エッチな妄想くらい、それなりにしたことある。とは言え、だからと言って「どうぞどうぞ好きなだけ僕で妄想してください」と開き直れるほど、僕はサービス精神旺盛ではない。
「できれば僕で変な妄想するのはやめてほしい、かな。ほら、元男で妄想しても気持ち悪いだけだし」
「俺としては元男とかどうでもいいんだがな。ふう……。仕方ない。愛しの彼女からの頼みなら飲むしかないだろう」
「おい待て途中のため息とそこからの落ち着き払った顔はなんだ。何を妄想したんだ」
愛しの彼女にも反応したかったが、それがどうでもよくなるくらいの豹変ぶりだった。
「聞きたいのか?」
「……結構です」
コイツってこんなキャラだっけ。最近は塾やら何やらで忙しそうだったから、誠司とはそういう話をほとんどしたことがなかった。
ま、まあ、誠司も男だからな。聖人君子ってわけでもないし……は、裸の一つや二つ妄想するくらいは――
「安心しろ。優しくしてやったから」
「何を想像してんだよっ!?」
張り上げた僕の声が、まだ静かな朝の住宅街にこだました。
◇◆◇◆
「どうした夏樹。公園なんか見て」
駅へと向かう道すがら、右手に現われた四つ葉公園を見渡していると、めざとく見つけた誠司が同じようにして視線を巡らせた。
「このあたりは僕達が事故に遭った場所だろ?」
「ああそうだな。……って、もしかしてお前、元の世界に戻りたいのか?」
ギョッとした様子で誠司が僕を見る。
「違う違う。それは昨日も話したじゃないか。戻っても僕は死んでるから、戻っちゃ駄目だって」
話している間も歩みを止めることはない。右を向いても見えなくなったところで視線を戻した。今日も収穫無し、と。
「ここを通るついでに、この世界に飛んできた原因が何かないかと思って、見るようにしてるだけだよ」
どうせ何も見つからないだろうけどね、と付け加えて肩を竦める。
「なんだ、そうか」
見るからに肩の力が抜ける誠司。そんな彼にニシシと小馬鹿にしたように笑う。
「僕が自殺志願者にでも見えた? ないない。いくら女になったからと絶望したとしても、命は惜しいからね。自分から死にに行くようなことは――っ」
ふいに誠司に握りしめられた右手が痛みを発する。
「勝手にいなくなるなよ。もう俺は、お前を一人にしないって誓ったんだから」
決意を込めた、けれど少しだけ悲しげな表情で誠司は言った。それがとても男らしくて、不覚にもドキリとしてしまった。
「あ、ああっ、当たり前だろ! 僕だってもう高校生だぞ。三年生だぞ! ひ、一人で迷子になるような歳じゃないっての!」
いやいやいや、そういうことじゃないだろ。何を口走ってるんだ僕は。
「お、おう、それもそうだな。何言ってんだろうな俺は。ほんと悪い。今のは俺の言葉じゃないというか、俺の言葉でもあるというか……」
さっきの真面目顔はどこへやら。ボンッと音が聞こえてきそうなくらいに一瞬にして顔を真っ赤にした誠司があたふたしながら弁解した。
「こっちだけ記憶があるってのもやりづらいな……」
「誠司、何か言った?」
「な、何でもない」
誠司が眼鏡を押さえてそっぽを向く。彼に握りしめられた手はもう痛くなくなっていたけれど、お互い緊張しているせいか、少し汗ばんでいた。
なんか、胸の鼓動が伝わってしまいそうで、ちょっと恥ずかしい。
手を繋いだぐらいで伝わる事なんてあるはずがないのに思ってしまう。誠司の顔が見られない。
何か、何か話題は。ああそうだ。一つ聞きたいことがあるんだった。よく思い出した、夏樹。
「そ、そういえば、あの事故の日、誠司は塾に行ったよね? なのにどうしてあそこにいたんだ?」
「あの日か? ええっとあの日はたしか……」
誠司も話題を探していたのだろう。考える素振りを僅かに見せた後、すぐに口を開いた。
「講師が風邪で寝込んで休講になったんだよ。そういやあの日はおかしかったな。いつもなら担当の講師が休みでも、代理の講師が来て講義はあるはずなのに。あんなことは初めてだ」
誠司が難しい顔をして黙ってしまった。急に黙るのはやめてほしい。まだ僕は動揺したままなんだから。
「その代理の講師も休みだったんじゃないかな。それか塾の都合とか」
「特別進学クラスの、しかも集中講座だぞ? 一番力を注ぐべきクラスを休講にするとは思えないんだが……」
だから黙るなっての。
「そんなに気になるなら今日直接聞けば良いじゃないか。今日もあるんだろ?」
退院したのだから、誠司はまた今日から塾へ通う日々が始まるのだ。
……今一瞬、入院したままの方が良かったと思ってしまった。
ザワザワしていた心がすっと落ち着き、代わりに嫌な笑みが顔に張り付く。親友の不幸を望むなんて、なんて奴だ。
「あれ、言ってなかったか? 俺、塾には通ってないぞ」
「……へ?」
意識せず変な声が漏れて、まじまじと誠司を見つめる。
聞いてない。そんな重要なこと、聞いてない。
「あー、言ってなかったな。悪い。こっちの俺は塾に通ってないんだよ」
「どうして?」
「志望校が府師田じゃなくて千里学園だからな。あそこなら塾に行かなくても自主勉でなんとかなる」
府師田大学は元の世界で誠司が第一志望校としていた学校で、周辺の県を含めて一、二の倍率、偏差値を誇ることで有名な私立校だ。僕では手の届かない大学。行きたくても行けないところ。僕と誠司を遠ざけたところ。
「なんで学園なんだ? あんなに布師田を目指していたのに」
千里学園大学は僕が担任に受験を勧められた学校だ。私立校らしい充実した設備に広いキャンパス。偏差値もそこそこ高く、街の中心部にもあるということから結構な人気を誇る大学だが、誠司にしては少しランクが低い。安全圏を狙いすぎな気がする。秦南大学を志望校とした僕が言えた義理じゃないけど。
ちなみに僕が志望している秦南大学とは、偏差値的には中といったところの特筆すべきところのない、いち地方大学。家から近いと言うことで選んだだけの学校だ。「さ、さあな。こっちの俺は高望みしなかったってことじゃないのか?」
高望みなわけがない。それは模試の結果からも明らかだ。こっちにしろあっちにしろ、誠司なら手が届いていたはずだ。
「俺のことはどうでもいいじゃないか。元々布師田にだって絶対行きたいって訳じゃなかったしな。むしろ行きたいかどうかであれば、まだ家から近い千里学園の方が勝ってたくらいだ」
そう言って視線をそらす誠司。嘘を言っているようには見えない。ただ、どうしてだろう。何かを隠しているように思える。
「そんなわけだから、放課後はお前の勉強に付き合えるぞ」
「勉強? なんで僕が?」
有り難い申し出だが、僕も誠司同様、秦南大学であれば充分に行けるラインにいる。別に勉強を見てもらう必要は――
「お前も志望校は千里学園だろ?」
――必要だった。
「……え、マジで?」
「マジで。こっちでの記憶では、夏樹が俺の前で千里学園を受けると公言してる」
あれ、どうして志望校が違うんだ? こっちの僕は出来が良かったとか? それとも担任に感化され、秦南を滑り止めにして学園に挑戦してみようと積極性を出しちゃったとか?
今更の方向転換は厳しい。しかしこっちの僕はそうしてやってきたのだったら、それこそ今更志望校を変えるなんてありえない。
「うーん。学園か……。たしかにそこだと、勉強しないといけないな」
だから僕は誠司の言葉に、頷くしかなかった。でも、今からセンター試験まで僅か二ヶ月。たったそれだけで学園に受かるとは到底思えないけど。
「安心しろ。夏樹も学園に受かるように、今日から毎日みっちり、俺が教えてやるからさ」
「あ、あはは」
誠司は本気のようだ。これからのことを思い、頬が引きつる。高校受験の時も誠司に勉強を教わったことがあるが、結構なスパルタでいつも半泣きになりながら机に向かっていたことを覚えている。若干トラウマみたいなものになっているので御免被りたい。
「お、お手柔らかにお願いします……」
しかし、僕もできることなら誠司と同じ大学に通いたい。また泣かされるんだろうかと内心ビクビクしつつも、僕は頭を下げるのだった。




