前章 それは本当にフリだけなのか2
「おっはよ~、なっちゃん。ご機嫌いかが?」
教室に入った途端、めざとく僕を見つけた絵里子が駆け寄ってきてジャンピングハグ(絵里子命名)をかましてきた。
「お、おはよう絵里子。絵里子は今日も元気そうだね」
鼓動を早めながら絵里子を引きはがそうとする。しかし彼女の力は強くビクともしない。頬をすり寄せてくる彼女と密着しているせいで、体の、特に胸の柔らかさを感じてしまう。
これが毎朝の彼女のスキンシップ。彼女とは元の世界じゃクラスが違うので名前ぐらいしか知らなかったが、こっちの世界じゃクラスメイトであるばかりか、友人関係にあるらしい。
彼女の過剰なスキンシップにはほとほと困り果てている。僕は男。もちろん女の子が好きだ。その女の子がこうして無防備にも抱きついてくるのだ。正常でいられるはずがない。
「絵里子、離れて」
「えー。まだ今日のなっちゃん分補充してない」
そんなもの補充しなくていいっ。
「い、いいから離れて」
「はいはい。まったくなっちゃんは恥ずかしがり屋さんなんだから」
ようやく絵里子が離れる。と思いきや今度は手を引っ張って歩き出した。つんのめりながら後に続き、教室中央から後ろよりにある自分の席に座った。
「まったく、なんで絵里子はいつも強引なんだよ……」
真後ろの席に座る絵里子に半眼を向ける。彼女は悪びれもせず、机に上半身を預け、僕の髪を弄っていた。
「別にいいでしょ。私となっちゃんの仲じゃない」
「親しき仲にも礼儀ありって言葉、知ってる?」
「あーあー、聞こえない知らない」
絵里子が耳を塞ぐ。でも聞こえてるじゃないか。
彼女から視線を外し、ぐるりと周囲を見回す。元の世界と三年五組。しかし顔ぶれは少しばかり違う。ここにいる絵里子のように、クラスメイトのうち約三分の一が他のクラスにいたはずの生徒だ。元友人も何人かはその姿がなく、廊下ですれ違うだけの他人になってしまった。
斜め前の席にいる鈴木もまた、元の世界では友人だった。でも今はほとんど喋ることのないただのクラスメイト。僕が女になったことで、友人も大きく様変わりしてしまったようだ。唯一そのままなのは誠司だけ。あれ、なんで誠司だけなんだろう。
ふいに髪を引っ張られて視線を向ける。絵里子が僕の髪を三つ編みにしてリボンを結んでいた。
「何してるの?」
「ん、遊んでる。はいできた。もう片方もするから、反対向いて」
「遊ぶなら僕の髪じゃなくて自分の髪ですれば良いのに」
文句を言いつつも体を反転させる。すぐに絵里子は髪を編み始めた。
「僕、かあ……」
絵里子が苦笑する。こっちの世界の僕は一人称が『夏樹』だったらしい。自分のことを夏樹って。高校三年にもなってそれはどうかと我ながら呆れたが、周りに自分のことを名前で呼ぶ女の子がちらほらいるから、案外ありなのかもしれない。
……いや、ないな。
「やっぱりまだ記憶は戻らない?」
「うん。ごめん」
絵里子がフルフルと首を横に振る。僕は事故により記憶喪失と言うことになっている。こっちのことを何も知らないのだから、そうした方がやりやすかった。
はいできた、と絵里子がようやく手を離す。左右の髪が三つ編みに編まれ、胸のあたりで赤いリボンが結ばれていた。
絵里子が手鏡を差し出す。それを受け取り覗き込む。
「どう?」
「うーん。子供っぽくない?」
ただでさえ童顔なのに、三つ編みと真っ赤なリボンのせいでさらに幼く見える。中学生と言っても信じてくれそうだ。
「だーいじょうぶ大丈夫っ。新原君はロリコンだから」
そうだっけ? ……って、なんで今誠司の名前が出て来るんだろう。
「しっかし、私達のことは忘れてるのに、新原君のことはちゃーんと覚えてるのね」
絵里子が拗ねたように口を尖らせる。が、すぐに口角を上げてニヤリと笑う。背筋がビクッと震えた。
「毎日かかさずお見舞いに行ってるみたいだし」
「うん」
幼馴染みであり親友だから当たり前だ。
「今日も行くんでしょ?」
「ううん。昼間に退院するから、今日は誠司の家に行ってみんなでパーティーかな」
いつもは帰りの遅いお父さんとお母さんも、今日ばかりは早く帰ってきて、誠司の両親とともに全快祝いをすることになっている。
「へぇー。良かったじゃん! これで明日からは学校でも新原君と一緒ね」
「う、うん。……ん?」
たしかに絵里子の言うように一緒だ。一緒だけど……なんだろう。この含みをもたせた物言いは。
「はあーっ。また目の前でいちゃいちゃされるのね。このバカップルに」
「……うん?」
あー嫌だ嫌だと絵里子が大袈裟に肩を竦めてみせる。
……うん? ちょっと待って。今絵里子はなんて言った? 聞き間違えでなければ、たしか彼女は「バカップル」って言った。言ったはずだ。
バカップル。カップル。
……カップル。
…………。
「……うん?」
話が繋がらなくて首を傾げる。そんな僕を見た絵里子がムッとした顔で頭をペシッと叩いた。
「なにを自分達じゃありませんって顔してるの。あなたよ、あなた達のことよ!」
ビシッと指差される。僕? 僕と……誰?
「なっちゃんと新原君。あなたたちバカップルのことよ!」
……へ?
◇◆◇◆
「はははは! やっぱお前知らなかったんだな!」
「なっ! もしかして誠司は知ってたのか!? ひどっ! なんで教えてくれなかったんだよ!」
その日の晩。学校からそのまま誠司の家に行き、絵里子から聞いた話をそのまま伝えると、ベッドで休んでいた彼は驚くことなく、笑いながら肯定した。
「ああ。何故かこっちの記憶がうっすらとあってな。それで知ってたんだよ。お前もそうなのかと思ってたんだが、知っているような素振りは一切なかったから黙ってたんだよ」
「いやなんでそこで黙る!? 教えてくれればいいじゃないか!」
「そっちの方が面白いと思ったんだよ。そしたら案の定血相変えて……はははは!」
「笑うなー!」
手近にあったクッションを誠司に投げつける。誠司は軽々と片手で受け止め、膝の上に置いた。
「くぅぅ……。なんでお前だけこっちの記憶があるんだよ。僕にはまったくないのに。不公平だ!」
「ないものは仕方ないだろ。諦めな」
「うぅぅ~~~……」
軽く投げ返してきたクッションをキャッチし、ボスボスと殴りつける。
僕と誠司はこっちの世界では付き合っていた。どういう経緯でなんでそうなったのかは知らないが、付き合っていることは周知の事実らしい。
……えーと、つまりそれは、あれだ。僕が親友のためにと誠司のお見舞いに行っていたのは、周りからすれば、彼氏のことが心配で毎日足繁く病院に通う彼女、として見えていたってことか?
『毎日かかさずお見舞いに行ってるみたいだし』
にやにやと笑っていた絵里子。あれはそういう意味だったのか。
カッと顔が熱くなって、クッションに顔をうずめる。
「明日どうするんだよー……。絵里子とか鈴木とか、僕達見て絶対付き合ってると勘違いするぞ」
恥ずかしい、穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。
「勘違い? 何言ってんだお前は?」
「なにって、アイツら勘違いしたままからかってくるだろうから、それがイヤだなと」
クッションから顔を離し、誠司を見る。彼は怪訝な顔をしていた。
「別に勘違いじゃないだろ。俺達は付き合ってるんだし」
「いやいや、それは元いた僕と誠司であって、今の僕と誠司はそんな関係じゃ――」
「いいじゃないかそのままで」
「――だろ? って、はい!?」
素っ頓狂な声を上げて誠司をまじまじと見つめる。彼はサッと視線を外した。
「そ、その、ほら、こっちの世界の俺達も幼馴染みで、ずっと一緒だったんだよ。お互い結構前から気にはなっていたけど言い出すことが出来ず、それがようやく、本当にようやく! ほんの一ヶ月前に付き合いだしたばかりなんだよ。だと言うのに速攻で別れるなんて、俺がかわいそ――じゃない。不自然すぎるだろ? 一目惚れ的な電撃カップルならいざしらず、長年一緒だった幼馴染みがただ少し関係を深めただけで別れるとか、普通ないだろ? おかしいだろ? 絶対周りに疑われるぞ」
誠司が声を上擦らせて捲し立てた。肩で息をする彼の迫力に若干引きつつ、そうかもしれないとぼんやり考える。
「たしかに、絵里子に別れた理由を聞かれて、納得させられるような言い訳が思いつかないなあ」
「だろ? そうだろ?」
やけにさっきから必死だな。脚が折れてなかったら、両肩掴まれてガクガク揺らされてたんじゃないだろうか。
「じゃあどうするんだ?」
「ど、どうするってそりゃお前、言わなくても分かるだろ……?」
「……うん?」
さっぱり分からない。
「だから……つ、付き合ったままでいいんだよ! 俺とお前は付き合ってる。恋人同士。それでいいじゃないか!」
誠司が顔をゆでダコのように赤くして、声を張り上げた。
「はあ、なるほど。……いやいやいや」
誠司の勢いに、危うく納得しかけてしまった。こめかみのあたりをグリグリとしながら立ち上がり、誠司の傍まで歩いて行く。
「誠司、お前自分が何を言ってるのか分かってるのか?」
「ああもちろんだ」
「やっぱ分かってないだろ。僕と付き合うんだぞ? 男だぞ? 気持ち悪いだろ!」
一段高いベッドを右足で踏みつける。スプリングが良く効いているベッドはふよんふよんと揺れるだけだった。
「おまっ、スカートで脚を上げるな! 今見えたぞ!」
ゆでダコがさらに赤くなっていた。
「見えたからってなんだよ。減るもんじゃなし」
「女なんだから少しは恥じらいを持てって言ってんだよ! まさか学校でもそんな感じなのか? 中身はどうであれ、今のお前は女なんだ。男の前でそんな無防備じゃいつか怖い目を見るぞ」
なんだなんだ誠司のヤツ。真っ赤なくせに怖い顔をして。
ふんっと鼻を鳴らし、ベッドから足を下ろす。
「外じゃちゃんとしてるよ。前にお母さんにキツク説教されたからね。相手が誠司だからいいと思ったんだよ」
部屋を見回し、椅子を見つけてそれに腰を下ろす。ん、ちょっと高いな。足が届かない。
「そ、そうか。それなら良いんだ。俺だから、か……」
誠司がにやらと笑う。
「なに笑ってるんだ?」
机に肘をつき、足をブラブラとさせながら尋ねる。
「俺? 俺は笑ってないぞ」
いや、完全に笑っていたじゃないか。
口元を引き締めようとする誠司。しかしどうにも緩むらしく、やっぱりにへらとしていた。
「ともかく、夏樹は俺と付き合っていることにしておけばいいんだよ。俺がなんとかするから、夏樹はただ合わせてくれれば良い」
「誠司がそこまで言うんならいいけど……いいのか? 仮でも僕と付き合ってるってことになるんだぞ?」
「むしろ大歓迎――なんでもない。俺のことは気にするな。困ったときはお互い様だろ?」
なっ? と笑う誠司に、手をひらひらさせて了承を伝える。
「んじゃまあそういうことで、明日は夏樹の家の前に七時半集合な」
「朝も一緒に行くのか? って僕の家!?」
誠司の家は通学の際に使う駅の近くにあり、僕の家は駅から少し離れたところにある。いちいち時間を合わせることもないと、朝は別々に登校していた。だから僕の家に集合と言うことは、誠司がわざわざ通学距離を伸ばしてまで、迎えに来ると言うことになる。
「男が彼女を迎えに行くのは当たり前だろ?」
知らん。彼女なんて作ったことないし。
「いいって。僕が誠司の家に行くよ。その脚で無理させるわけにもいかないしね」
いまだギプスをした右脚を指差す。しかし誠司は首を横に振り、
「いいや、俺が迎えに行く」
そう言って譲らなかった。コイツ、せっかく人が親切で言ってるってのに。
「はいはい。いいよどっちでも。誠司の好きにしたら良い」
「んじゃ俺が迎えに行く。七時半までには出られるようにしとけよ?」
なんでそんなに活き活きとしているのだろう。久しぶりの学校が楽しみとか? なわけないか。
「七時半ね。りょーかい」
「寝坊したら部屋までいくからな」
「どーぞどーぞ」
朝ご飯の支度をしている僕が早々寝坊なんてするはずがないけど。むしろ寝坊するのは誠司の方だと思う。
「お前なあ。さっきから言ってるだろ。女なんだから、そう簡単に男を部屋の中へ――」
コイツ、面倒臭いな。