前章 それは本当にフリだけなのか1
白い廊下に並ぶ同じデザインの扉。目線を少し上げたところにあるネームプレートを確認して立ち止まり、深呼吸を一つ。両手で持っていた花束を左手に抱え直し、空いた右手で扉をノックした。
「こんにちはー……」
一オクターブ高くなった声で挨拶しつつ、扉を少し開けて中を覗き見る。
「ああ、夏樹か」
ベッドの上で雑誌を読んでいた誠司が顔を上げる。彼の右足にはギプスが巻かれている。が、元気そうだ。ほっとして、室内に入る。
「調子はどう?」
「順調。明日には退院できるってさ」
「本当に? それは良かった。はい、これお見舞い」
ベッドの傍に立ち、花束を誠司に差し出す。
「花か。どうせならケーキか何か食べ物の方が俺的には良かったなあ」
「そう思ったんだけど、お母さんがこれを持って行けって」
苦笑して肩を竦める。椅子を引き寄せ、スカートに手を当てながら腰を下ろす。顔を上げると、誠司が慌てて視線をそらした。
「そ、そういや、あれからもう一週間経つんだな」
誠司の声は少し上擦っていた。
「ん? あー、そうだね」
もうそんなに経つんだ。忙しくて気付かなかった。
あれから一週間。僕達が事故に遇い、誠司が足の骨を折って入院した日から一週間。
そして、僕が女になってから一週間。
視線を下ろす。見えるのは灰色を基調とした赤良木高校の女子制服。スカートから伸びる脚は細くて白い。丈が短いからふとももが眩しい。胸には二つの決して小さくはない膨らみがあり、その上に茶色の髪が垂れている。
どう見ても女子生徒。誰が見ても男子生徒ではないだろう。それが今の僕。中木原夏樹。名前は同じでも性別の違う、女の夏樹だ。
「やっぱり夢とかそんなんじゃなくて、これが現実、なんだろうな」
やっとこっちを見た誠司が声色に諦めの感情を滲ませる。上下する視線が言葉の真実味を確認しているようだった。……なんとなく、ふとももと胸のあたりを重点的に見ていたような気もするが、僕が自意識過剰になっているだけだろう。
一週間前、僕達はたしかに事故に遭った。車に轢かれそうになった誠司を突き飛ばし、代わりに僕が車に轢かれた事故。
あの時僕は死んだはずだった。間違いなくこの体に強い衝撃を感じたのだから。
しかし気がついてみれば、怪我をしたのは誠司で、しかもその怪我も右足の骨折とうちみだけで済んだ。僕はというと、歩道で気を失っていたらしい。今の女の姿になって。
「これが現実だとしたら、一週間前の僕達はどうなるんだろう? 僕はたしかに男だったし、突き飛ばしたのは僕だった。それは誠司も覚えてるんだよね?」
誠司が深く頷く。
「でも、誰も僕が男だったことを知らないし、運転手も突き飛ばしたのは誠司だって言っていた。みんなが嘘をついているようには見えないから、きっと本当なんだと思う」
記憶と現実の不一致。どっちも夢じゃなくて現実。だとすればこれは――
「もしかして、パラレルワールド、ってヤツじゃないか?」
そう、それだ。パラレルワールド。平行世界。僕達がいる世界とは別の世界。似ているけれど何かが違う。分岐した世界。
SF映画でよくある話だ。普通なら笑われてしまうような非現実的な現象。しかし、
「何が原因かは知らないが、前の世界から今の世界、パラレルワールへ俺と夏樹だけが飛ばされた。そう考えれば納得がいくだろ?」
「……うん。そうだね」
納得する。納得せざるを得ない。だって結局は原因が分からない、分かりそうにない、たとえ分かったとしてもどうしようもなさそうだから、こじつけでもなんでも、『そういうことにする』ことで納得したいのだ。僕も、たぶん誠司も。
……まあこの際そんなことは比較的どうでも良いのだ。世界が変わろうがここが僕の住む街と同じであれば別に問題はない。実際周囲に目立った変化はなく、事故だって、僕の命が助かり、誠司にも後遺症は残らないそうなので、むしろ元の世界より万万歳といったところ。お互いに謝罪し、感謝した後のことだから二人とも気にしていないし、ただ一点を除けば何も不満のない世界なのだ。
「でも納得いかない」
そう、ただ一点。それで僕はこの世界に強い不満を感じている。
「んなこと言っても、他に――」
「世界がどうとかじゃないよ。僕が納得いかないのは、なんで僕だけ女になってるのか、だよ」
別の世界だというのなら、僕が女になっていたこと自体はおかしくないと思う。かなり奇想天外過ぎるが、これが僕の運命だというのなら仕方ない。甘んじて受け入れよう。……そりゃまあ、できることなら男であってほしかったけど。僕に女装趣味とか、女になりたかったという願望なんてないんだから。
つまりだ。僕が納得いかないのは、知る限りの人はみんな僕の知っている姿、性別のままなのに、どうして僕だけの性別が変わっているのか、だ。特に僕と同様に元の世界の記憶がある誠司。なんでコイツがそのままなのに僕だけが女なんだ。ここが一番納得いかない。
「そういう世界だから、としか言いようがないんじゃないか?」
「不公平だ」
納得せざるを得ない意見。それでも僕は口を尖らせる。
赤信号、二人で渡れば怖くない。誠司も女になっていれば良かったのに。
「んなこと言ってもしょうがないだろ」
そう。しょうがない。たとえ僕がここで泣き喚いたところで男に戻れるわけでもないんだ。僕だけ女になった。それが事実。
がっくりと肩を落とす。この先のことを思うと気が重い。
「生きていられるだけ儲けものじゃないか。お前あれ絶対死んでたし」
前向きに考えれば、たしかにそうだ。しかし、
「つまりそれって、もう向こうの僕は死んじゃってるから、男に戻ることはきっぱり諦めて、こっちで女として生きていけ、ってことだよね?」
後ろ向きに考えると、退路を断たれた、となる。退路があるのかどうか知らないけど。
この世界があるのなら、またどこかに別の『僕が男』の世界もあるかもしれない。一応そう考えれば、僕が男に戻ることができる確率はゼロではないのだけど、あるかどうかも分からないものに希望を抱けるほど、僕は夢追い人じゃない。
「そうなるな」
「他人事だと思って……」
事も無げに言い捨てた誠司に若干の怒りがこみ上げる。この一週間、僕がどれだけ女として生活することに苦労してきたか、誠司は分かっているのだろうか。
睨み付けると、また誠司は視線をそらした。
「そ、それで夏樹。この一週間で、学校で何か言われなかったか?」
どうして今そんなことを? 話をはぐらかすためかと思ったが、どうも誠司の様子がおかしい。
「別に何も」
素直に答えると、誠司は顔を背けたまま、顔を赤くした。
「そ、そうか。うん。それなら別に良いんだ」
結局それから僕が帰るまで、誠司はどこか上の空だった。
◇◆◇◆
……。……よ。……だよ。
誰? 誰かが僕を呼んでいる?
暗闇の中。弱く瞬く小さな光が見える。声はその光から聞こえてるような気がした。
少し躊躇してから、おずおずと手を伸ばす。
光に手が届きそうなその間際。世界は暗転した。
「……またあの夢か」
ジリリリと頭上でうるさい目覚ましに顔をしかめつつ、くしゃりと髪を弄る。
最近同じ夢ばかり見る。こっちの世界にきてからずっとだ。呪われてるのかな……?
まさかね、と頭を振って起き上がる。眠い目を擦りながら制服に着替え、洗面所へと向かう。
洗面台の前に立ち、ブラシで寝癖を直す。鏡に映るのは半眼の女の子。色素の薄い茶色の髪は胸のあたりまで伸び、同じ色の瞳をした目は若干の垂れ目。日に焼けていない肌は白く、筋肉のない手足はほっそりとしている。典型的な文学少女然とした女の子だ。
なかなかに可愛い子だと思う。こんな子がクラスにいれば、毎日自然と目が向いてしまっていただろう。
だがしかし、それが自分となれば話は別だ。身内がいかに可愛くとも、恋愛の対象にはならないように、いかに自分が可愛くても、「やだ私かわいい!」なんてナルシズムができるほど、僕は単純な人間ではなかった。
鏡の中の彼女は憂鬱そうに眉尻を下げていた。憂鬱なのは僕の方だ。
……僕だった。
寝癖を直したら洗面所を出てキッチンに立った。
「ふぁ……あふ」
冷蔵庫を物色していると欠伸が漏れた。女になってから朝に弱くなった。前は目覚ましが鳴る前には起きて気分よくキッチンに立てていたのに、今はとにかく眠い。
キャベツやニンジンをみじん切りにしてコールスローを作る。片方のコンロで豆腐多めの味噌汁、もう片方のコンロで目玉焼きを焼く。
『ママはおしごとをするべきだとおもう』
キャリアウーマンだったというお母さんにそう勧めたのが七年前。以来こうして夜遅くに帰ってくる両親に代わり、我が家の家事は僕がそのほとんどを担っていた。毎日の習慣になってしまって辛いと思うことはないけど、こう眠いと少し億劫には感じてしまう。
お母さんは和食。ご飯と味噌汁と銀ダラのみりん浸け、コールスローと自作の白菜の漬け物。お父さんは洋食。とは言っても別々のものを作るのは辛いから、目玉焼きとベーコン、パンを焼いて、それに味噌汁とコールスローをつける。僕はそれらの余り物。
「おはよう。夏樹ちゃん」
「おはよう。夏樹」
「おはよう。お母さん、お父さん」
用意が出来る頃には二人とも起きてきて、三人家族団らんで朝ご飯を食べる。
「夏樹ちゃんが浸けたお漬け物、ホント美味しいわ~。もう私なんかよりずっと上手ね」
「そうかな」
「うん。パンにも良く合う」
漬け物をジャム代わりにするのはどうだろう。曖昧に笑みを浮かべ、味噌汁とお茶碗に半分だけ盛ったご飯を口に運ぶ。我ながら小食になったものだ。
いつもと同じ朝の風景。それに安らぎを感じる。僕が女になっても変わらないことが嬉しい。
「これならいつお嫁に行っても大丈夫ね」
「ぶふっ!」
……す、全てが同じというわけじゃないけど。