プロローグ そこに至るまでの話
世界がぐるりと回った。
◇◆◇◆
「悪い、夏樹。先に帰るわ」
ホームルームが終わると同時に立ち上がった新原誠司は、ズレた眼鏡を直しながら鞄を担いた。男から見てもその様は実に絵になり、イケメンは何しても得だなと羨ましく思った。
「うん。頑張って」
手を止めて彼に応える。誠司は顔の前で片手を真っ直ぐ伸ばし、「すまない」とジェスチャーしてから教室を走り出た。
誠司が視界から消えて数秒後、小さなため息と共に中断していた手を再び動かして帰る支度を終え、立ち上がる。誠司同様に走り行く友人と挨拶を交わして、歩いて教室を出た。
今日は何をしよう。ゲーセン? 本屋で立ち読み? 人でごった返す廊下を歩きながら考える。時期が時期だけに、まっすぐ家には帰りたくなかった。
高校生活最後の年。センター試験まであと二ヶ月と差し迫った十一月のある日の放課後。進学校である赤良木高校の一般棟二階廊下は、図書館の自習室を確保に向かう者や、家庭教師が来るからと家路を急ぐ者、一駅向こうの有名な塾の集中講座に向かう者で溢れていた。
担任曰く、毎年見られる光景なのだそうだ。進学校らしいと言えば進学校らしいのだが、三年生でありながらそのどれにも当てはまらない僕は他人事のように眺めて、疎外感を覚えるだけだった。
家から近い。という取るに足らない理由で大学を早々に決めてしまった僕は、塾に通うことも、家庭教師を呼ぶことも、自習に追い込みをかけることもなかった。一応予習復習は毎日かかさずやってきたので、希望の大学レベルであれば、特別何かすることもなく、模試でA判定を叩き出すことが出来たからだ。担任からのお墨付きも貰っている。まあその担任からは「もう一つ上を目指してはどうか?」と何度も聞かれたわけだけど。
もちろん首を縦に振ることはなかった。上の大学に行ったところで、何か魅力があるとは思えなかったのだ。
そんな勤勉さと妥協により、進学校にありながら受験勉強と呼べるようなものをほとんどしていない僕は、追い込みをかける友人と時間が合うこともなく、幼稚園からずっと一緒だった親友の誠司とさえ、ここ一ヶ月ほとんど遊ぶこともなく、寂しい毎日を送っていた。
誠司は僕より頭がいい。具体的にどれだけ良いのかと言えば、僕がクラスで十位なのに対して、彼は学年で十位。両親からも期待され、それに答えるように、彼は僕よりずっと上の、僕には手の届かない大学を志望校としている。A判定とB判定をウロウロしているらしく、合格率を少しでも上げるために、一ヶ月前から新たにセンター試験対策講座を受講するようになった。
誠司は無事塾へ向かうバスに乗れただろうか。校門を出てすぐのところにあるバス停へ目を向ける。数人の男女がいたが、その中に政治の姿はなかった。間に合ったのだろう。
バス停の横を通り過ぎ、下り坂を下りる。踏切を越え、駅近くにある馴染みのゲーセンに入り、「今話題沸騰!」と銘打たれたアクションゲームを二回、前に友人の家でプレイした格闘ゲームの続編らしきものを一回。正面のディスプレイに映し出された踊りと寸分違わぬ動きを見せてギャラリーを沸かせる男女のプレイヤーを野次馬すること三十分。良い時間潰しになったと満足して店を出る頃には、太陽は大きく傾き始めていた。
時計を見てすぐさま駅に戻り、丁度来た三十分に一本の電車に飛び乗る。スカスカの車内を見回してから座席に座り、ぼーっと外を眺めること二十分。聞き慣れた駅名のアナウンスに席を立ち、ホームに出てきた車掌に定期券を見せ、駅を出た。
閑散とした町を赤く染める西日に目を細める。少し歩いて見つけた公園からどことなく哀愁を感じたのは、僕が一人だからだろうか。それとも昔を思い出したからだろうか。
そこは小学校に通っていた頃、誠司とよく遊んだ公園だ。元は小さな公園だったらしいが、十年前に行われた駅前開発事業の際に、住民の憩いの場とするべく、今の散策道を有する大きな公園へと整備された。しかしあまり手入れがされていないせいか、利用者はもっぱら小学生で、クローバーが生い茂っていたことと、よく四つ葉が見つかることから、小学生の間では四つ葉公園と呼ばれていた。
僕も小さかった頃には何時間もかけて四つ葉を探した。
『四つ葉公園で四つ葉を見つけたら、一つだけ願い事を叶えることが出来る』
そんな噂が流れていたから、当時は結構必死で探したもんだ。誠司もサッカーがしたいと文句を言いつつも、僕によく付き合ってくれたっけ。それが凄く嬉しかったことを覚えている。きっと彼は忘れているだろうけど。
そういえば、僕はあの時一つだけ四つ葉を見つけた。それは今も大事に財布の中にしまってあるけど……僕はなんて願い事をしたんだっけ。うーん……だめだ。思い出せない。
久しぶりに探してみようか。そう考えて、すぐに否定する。今は秋。クローバーは春。探す以前に生えていないじゃないか。それに高校生にもなって四つ葉探しなんて子供過ぎる。ましてや僕は男だ。女の子ならまだしも。
公園に向かいかけていた足を戻し、西日の射す方向へと向き直る。まだ少し早いが、帰るにはいい時間だ。大人しく家に帰って、晩ご飯前に軽く復習を――
「おーい。夏樹ー!」
僕を呼ぶ声に振り返る。それは間違えるはずのない誠司の声だった。しかし彼は塾に行ったはず。どうしてこんなところにいるのだろう。
道を挟んで反対の歩道にいた誠司が車道に出る。危険だが、車の通りが少ないこの町ではよくやることだ。
しかし時間が悪かった。
声に出すより、考えるより先に、体が動いていた。西日に紛れて見える長方形の長い影と低いエンジン音。遅れて聞こえた甲高いクラクションの音にようやく誠司が気付き、速度を緩めた。
車道ど真ん中で立ち止まってどうするんだよ!
呆然と立ちすくむ彼の体を突き飛ばす。傾き遠のく彼が僕を見て、目を見開いた。
誠司が口を開く。それがゆっくりと、スローモーションに見えた。たぶん「馬鹿!」と叫んでいるんだと思う。声は聞こえない。
突き飛ばしたときの衝撃で取り残された彼の眼鏡が視界を横切る。
ああ、割れちゃうなあ。誠司、ごめん。
強い衝撃とともに、僕の世界はぐるりと回る。
ああそうだ。思い出した。四つ葉のクローバーの願い事。
それはたしか――




