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後編

 一応爽やかな話のつもりで書いていますが、主人公が暗くてひねくれているので、ドロドロした箇所も多々あります。暴力表現も少々。

 ぼやけた意識。ゆらめく世界。どうやら、少しの間眠ってしまっていたようだ。

 ここはどこだろう。

 ふっ、と目を開けると、見慣れた白線と点字ブロックが目に入った。

 ……白線と、点字ブロック?

 メガネの位置を調整して、半開きだった目を見開く。辺りを見回す。

 

 驚いたことに、オレはいつの間にかどこかの駅の中にいた。ホームに設置されたベンチに腰をかけていたのだ。慌てて時計を確認すると、時計はオレが学校を出奔した時から、四時間ほど経っていた。

 あれから四時間も経っているという事実に仰天しながらも、線路を挟んだ向こう側の看板に書かれた駅名を確認すると、そこには「羂索(けんさく)()」とある。

 羂索寺!? いつも乗っている電車の終点じゃないか!

 持っている定期では料金不足だ。焦って意味もなくポケットをまさぐると、いくらかの小銭と、何か四角い紙のようなものに触った。取り出してみると、それは五百五十円分の切符と、八十二円だった。そう言えば、今日母さんにもらった昼飯代と、昨日の分のお釣りを合わせれば、ちょうどそれぐらいだったような気がする。

 どうやら数十分前のオレは、所持金で買えるだけの切符を買って電車に乗り込んだらしい。人間はこうも無意識に行動できるものかと、少し感心する。


 脳内で自分に拍手を送ったところで、これからどうしたものかと途方にくれた。

 帰りの切符を買う金はもうないし、携帯で親に迎えに来てもらうなんてもっての外だ。そんなことをすればきっと、母さんに飯を抜かれ、父さんにぶん殴られるだけじゃ済まないだろう。まぁどのみち、学校からはオレが脱走したという連絡を受けるだろうから、結果は同じかもしれないけど。


 一瞬、オレもこのまま家出してやろうかという思いが頭をもたげた。慌てて首を振って、その考えを振り払う。そんなの、アイツと一緒じゃないか。

 アイツが出ていったあとの家は、ひどいものだった。元々両親とも教育熱心な厳しい人だったが、アイツがほとんど失踪に近い形で家を出てからは、いっそうそれが悪化した。母さんはよくヒステリックになるし、父さんは家ではほとんど喋らないくせに、オレの成績が下がった時だけ、でかい声で説教してくるようになった。オレは趣味も交友関係も制限され、進路の選択肢はことごとく潰された。

 全部全部、アイツのせいだ。


 ……駄目だ、こんなことを考えていては。また我を忘れてしまう。余計なことを考えないように、横に置いていたカバンを開く。数学のチャートでも見て、気分を落ち着かせよう。

 しかし、そう思って覗き込んだカバンの中で、一つ、学校生活に似つかわしくないものが目に飛び込んできた。それは、昨日の晩に完成させた万華鏡だった。

「なんでカバンの中に……?」

 呟きながら、それを取り出す。もちろん入れた覚えはないが、ここにあるということはオレが自分で入れたんだろう。

 今朝は寝坊して、急いで支度をしたから、その時に紛れたのかもしれない。だが、いくら急いでいたからとはいえ、こんな、それなりにでかいものを紛れさせるなんて、改めて自分のことが心配になる。


 包装紙を巻きつけただけの筒を眺めたあと、何気なく、その万華鏡の中を覗く。そうしなければいけないかのように。

 筒の中では、昨日一昨日と丹念に磨いた万華鏡の「具」たちが、幻想的な空間を作り出していた。青や赤、黄色などの色が複雑に組み合わさって、しかしどの色もケンカすることはなく、調和しあっている。

 オレは自分で作り出したものながら、その鮮やかな世界に陶酔する。オレみたいな素人でも、こんな美しいものを作り出せるんだ。

 しかし、万華鏡が何から何まで美しいわけではない。綺麗なのはあくまで覗いた時に見える模様であって、オレが初めて万華鏡を作った時は、内部の構造の不恰好さに閉口した。具の入ったアクリルケースはそれだけでも充分綺麗なものだが、光を反射させるための鏡が入った筒の中の部分は、鏡を固定させるためのスポンジなどが入っていて、あまり見栄えは良くない。まぁ、自分で作らない限り、筒の中など見えはしないから、当然と言えば当然なのだが。


 ――ふと、アイツをこの筒の中に放り込んでやりたいと思った。

 綺麗な世界から、アクリルケースの壁一枚で隔てられた、この暗く不恰好な世界に。

 いつだって、アイツは陽の当たる明るい世界にいた。勉強も運動もできて、社交的で、いつも楽しそうで。

 アイツが何かするたびに、自分が嘲笑われているような気がしていた。チビで根暗で、友達もいないオレとは住んでいる世界が、見えている世界からして違う。

 オレはいつだってずっと、日陰からアイツを羨んでいた。


 ああ、筒の中にいるのは他でもない、このオレだ。


 いつの間にかオレは、万華鏡をカバンにしまい、ベンチから線路の方に近づいていた。目の前の乗り場にはもうすぐ電車が着くようで、聞き飽きたメロディがどこか遠くに聞こえる。

 線路の右手を見ると、電車が迫ってきている。今、線路に飛び込めば、すべての煩わしいものから解放されるだろうか。

 後ろの方で電車の扉の開く音がするが、そんなことはどうでもいい。

 そうだ。もう全部、終わらせよう。

 疲れたんだ。もうこの世界は、嫌なんだ。

 地獄だろうが何だろうが、ここじゃなければどこでもいい。

 死への道のりに、足を一歩、踏み出す。ホームに引かれた白線を越えようとした時。


 後ろから誰かに、手首を掴まれた。


 オレは反動でよろめいて、後ろ側に二、三歩進む。その間に、電車はホームに入ってきて、完全に止まった。

 ゆっくり、首を軋ませながら振り向くと、そこには疲れた顔をしたアイツが立っていた。

「……アニキ」

「やっと、見つけた」

 そう言ってアニキは安堵したように、力なく眉尻を下げて笑う。コイツのこんな表情を、オレは今までに見たことがなかった。

「探したんだぞ、瞭介」

「……今さら、兄貴ヅラするんじゃねぇよ」

 そう言って、掴まれた手を振り払うと、アニキは一瞬目を見開き、傷ついたような顔をしたが、またすぐに笑みを浮かべた。しかし、その笑みにいつもの余裕は消え失せている。

 アニキは何を言おうか迷っているのか、何度か口を動かして、やがて思いついたように言葉を紡いだ。

「喉、渇かないか?」

「金がない」

「買ってやるよ」

「別にいい」

 そう吐き捨てると、アニキは困ったように眉を寄せる。はん、ザマアミロだ。

 アニキは弾を撃ち尽くした兵隊のように、オレを見つめたままその場に立ちすくんでいる。

「……立ってないで、座ろうぜ。聞きたいことも、言いたいことも、山ほどある」

 ベンチの方へ歩いていって、腰を下ろしながらそう言うと、アニキは黙って頷いて、オレの隣に座った。どうもさっきから調子が狂う。

「さ、何でも訊いてくれ。俺には答える義務がある」

 アニキはそう言って、覚悟を決めたように唇を引き結んだ。


 それからオレは、実にいろいろなことを訊いた。

 どこの大学に行ったのか。五年間、どうやって生活していたのか。今までどこに住んでいたのか。今はどこに住んでいるのか。苗字が変わっているが、結婚したのか。その奥さんとはどこで知り合ったのか。まぁ、大体が家出してからの経緯だ。

 どうでもいいことまで、根掘り葉掘り訊いた。思いつく限りの質問をアニキに浴びせた。

 アニキはぽつりぽつりと、時にはつっかえたり少しの間考え込んだりしながら、自分のことを話した。少し、寂しそうな表情をして。

 オレは隣に座っている奴が、アニキだとは思えなかった。そこにいるのは、オレの知っているアニキじゃなかった。

オレの記憶の中のコイツは、こんなに弱そうだったっけ?


 そうして聞き出した内容をまとめると、こうだ。

 家を出たアニキは、海を挟んだ隣県の国公立大学に進学した。入学時の保証人は、その県に住んでいる母方のじいちゃんとばあちゃんに頼んで、なってもらったらしい。足りない分の学費も二人に出してもらっていて、今はそれをコツコツ返していってるところだという。確かにあのじいちゃんばあちゃんはいい人だ。どうして母さんがあんな性格になってしまったのかと思うくらいに。

 大学中は奨学金をもらって、バイトのシフトをバンバン入れながら必死で勉強した。そんな中で、ゼミで知り合った人と付き合い、卒業と同時に結婚した。その人の親は、アニキの身の上を聞いて、二つ返事で婿養子に取ることを承諾したのだという。

 そして今は、高校の近くの安アパートに二人で住んでいるらしい。


 話を聴いているうちに、不思議とオレの中でアニキに対する反抗心が消えていくのを感じた。

「もう訊きたいことはないか?」

 アニキはオレにそう訊いてくる。その言葉は、オレを優しく諭しているようにも、オレにすがりついているようにも取れた。

「……あと一つだけ、訊かせてくれ」

「うん?」

 五年間ずっと、胸の奥でわだかまっていた疑問。

「どうして、家を出たんだ」

 その疑問を、ぶつけた。

 アニキはついに来たかとでも言うように、ふーっと息を吐いて、クセの強い前髪を掻き上げた。少しの沈黙のあと、アニキはゆっくりと口を開いた。

「……もう、嫌だったんだ」

 一瞬、アニキの顔が泣きそうに歪んだかのように見えた。しかし、瞬きの間に、アニキの表情はまたあの疲れたような笑みに戻っている。

「あいつらは俺を自慢の種か、老後の金ヅルにすることしか考えてなかった。興味もない医大の道を進まされそうになって、ああ、俺は一生こいつらの言いなりになって生きるのか……と思ったら、いつの間にか家を出てた」

「ふざけんなよ」

 腹の奥から、落ち着いていた怒りがまたふつふつと沸いてきた。爆発してしまわないように、ぐっと拳を握り、うつむいて自分の膝をじっと睨む。拳を強く、強く握りすぎて、腕全体が震えていた。

「そんなの、オレだってだ。オレだって、医学なんかに興味ない。一生父さん母さんの人形だなんて御免だ」

 そうなったのも全部全部アンタのせいだ、と口に出そうとした。が、アニキの短い一言がそれを遮った。

「そうか」

 アニキがそう呟くと、オレの頭に何かが乗せられた。

 アニキの手だ。

 その手は、オレの頭を優しく叩く。すべてを赦すように。すべてを、融かすように。


「俺と、一緒だな」


 その言葉で、すべてが瓦解した。

 今まで我慢していた衝動も。ずっと張っていた虚勢も。アニキへの憎悪も。

 込み上げる感情に喘ぐと、ひどく苦しい塊が、目から堰を切ったように溢れ出す。喉の奥が痙攣して、うまく息が吸えない。流れ出した感情が、ズボンにいくつもの染みを作った。


 一緒だった。オレたちは、まったく同じように苦しんでいたんだ。

 アニキがすべてを壊したんじゃない。アニキが家を出て、両親のアニキへの期待が全部、オレに移っただけだったんだ。

「ごめん、ごめんな、兄貴」

 我慢できずに、嗚咽を漏らす。こんなに泣いたのはいつぶりだろう。兄貴が家を出た時以来だろうか。

 その間ずっと兄貴はオレの頭を、まるで赤ん坊をあやすように、優しく叩き続けていた。

 悔しいが、兄貴は五年前も今もずっと、オレの兄貴だったようだ。



       ◇



 どれくらい泣いていただろう。駅のホームに降りそそぐ陽光は、オレンジ色に染まっていた。

「ちょっとは落ち着いたか?」

「……うん」

 鼻をすすり上げていると、兄貴がティッシュを差し出した。女子かよ、と思ったが、ありがたく使わせてもらう。

 兄貴は一つ、大きく伸びをして、笑った。その顔にはもう、いつもの余裕とうさんくささが戻っていた。

「よーし、じゃあ帰るか」

「無理」

「なんで」

「行きの切符買って、金がもう八十二円しかない」

「ホントお前は昔っから、キレると後先考えなくなるね……」

 反論できないので、口をつぐむ。そういえば小学生の頃には、キレていじめっ子に殴りかかったこともあった。一瞬で返り討ちにあったけど。

「買ってやるよ。ここまで来た分の切符代も兄ちゃんが出してやる」

「だから兄貴ヅラすんなって」

「じゃあ……先生が出してやろう」

「他人ヅラすんな」

「じゃあ一体どうすりゃいいのよ~」

 大げさに肩を落とした姿に、思わず失笑する。

「まぁいいや。兄貴、おごれ!」

「いってぇ!」

 平手で背中を叩くと存外派手な音がして、兄貴が悲鳴を上げた。よろめいた兄貴が、オレの方を振り返り、恨みのこもった視線を向けている。その情けない姿を見て、自分の口角が意地悪く吊り上がっていくのが分かった。

「性格悪くなったなお前……いや、払うけどさぁ」

 そう言って、背中を抑えながら改札に向かう、兄貴のあとをついていく。二人で改札を通り、兄貴の金を使って家までの切符を買った。再び改札を通ったオレたちを、駅員さんが怪訝そうな目で見る。

 やがてホームに入ってきた電車に乗り込んで、二人掛けのシートに並んで座った。

 どうせ帰ったら説教プラス飯抜きだろと言って、兄貴が手渡してくれたのは、何かの入ったコンビニの袋だった。中身はただのコンビニおにぎりだったが、久々にうまいもんを食った気がする。

 どれか一つは残しとけよと言われたが、腹が減っていたこともあって、結局入っていた三つとも平らげてしまった。「俺の夜食」と恨めしそうに呟く声が聞こえたが、知ったこっちゃない。こちとら昼飯も食ってないんだ。

 家の最寄り駅までの三十分、たわいもない話をいろいろした。明日の天気の話。最近ニュースで騒がれている事件の話。兄貴の奥さんとのノロケ話は、正直うぜぇと思ったが、それ以上に、兄貴と久しぶりに会話するのが楽しかった。


 あっという間に、降りなければならない駅に着く。家の近くまで送ると兄貴が言うので、その言葉に甘えることにした。

 家から駅までは歩いて十五分くらいだ。しかし、高校三年間はいつも駅まで母さんが迎えに来ていたので、歩いて帰るのは実に久しぶりのことだ。それどころか、ひょっとしたら初めてのことかもしれない。


 並んで歩くうちに、会話が途切れた。というより、兄貴が話題を振っても、オレが生返事しかしなくなったのだ。一歩進むたびに、家までの距離が縮まるたびに、オレは貝のように口をいっそう固くつぐんでいく。

 あと数回角を曲がれば、あの家に着いてしまう。一体どんな仕打ちが待ち受けているのだろうか。

 思えばオレは、物心ついた頃から両親に反抗らしい反抗をしたことがない。ただの一度もだ。だから、授業をサボって逃げ出すという大罪を犯した今、どれほどの罰を受けることになるのか、まったく想像がつかなかった。

 いつしか兄貴も話しかけてこなくなり、黄昏色の静寂が全身を包んだ。聞こえるのは、どこか遠くで遊んでいる子供たちの微かな笑い声と、兄貴の革靴の固い足音だけ。


 ついに終わりの時が来た。あの角を曲がれば、オレの家。かつての兄貴の家だ。逃げ出したい衝動をなんとか抑え込み、一歩一歩、家に近づいていく。

 しかし、角を曲がる数歩手前で、突然オレの足は歩みを止めた。いくら前に動かそうとしても、まるで太ももから先が別人のものになってしまったかのように、オレの足は言うことを聞かなかった。

 そのうち、息をひそめていた恐怖心が腹の底から湧き出して、全身を覆った。自分で自分の肩を強く抱いてみても、震えは収まるどころか、どんどん激しくなっていく。

「なぁ、瞭介」

 ずっと黙っていた兄貴が口を開いた。天を仰いだその顔は、無表情にも、いろいろな感情が入り混じった表情にも見える。

「何……?」

「俺が家を出たのは、今のお前と同じ高三の時だよな」

「は? ああ、そうだけど……」

 意図の読めない質問に、少し混乱した。なんだって今、そんなことを確認するのだろうか。

 兄貴は呆けたように空を見つめたまま、懐かしむように呟く。もしかしたら、オレに向けた言葉じゃなくて、ただの独り言なのかもしれない。

「あの時の俺は、自分一人を守ることが精一杯で、お前をつれていくことができなかった。自分の人生を捨てる覚悟はできてても、お前の人生をメチャクチャにする勇気はなかった」

 兄貴はゆっくり、おとぎ話を読むようにそう語ると、ぱっとオレの方に向き直る。その顔は、真剣そのものだった。

「だけど、今は違う。お前さえ望むなら、俺はできる限りの手助けをする。それが俺の、この五年間の清算だと思ってる」

 兄貴の両目が、オレの両目をまっすぐに見ている。何か言わなきゃと思いながら、頭の中には何の言葉も浮かんでこなかった。

「…………」

 黙って兄貴をじっと見つめ返していると、兄貴は一瞬で、まじめな顔の上におどけた笑顔を貼りつけた。

「ま、どうしようもなくなったら、俺のアパートにでも逃げ込んできたらいいさ。死ぬよりマシだろ」

「……それ、兄貴はよくても、奥さんが困るだろ」

「大丈夫、あいつメガネフェチだから」

「なんだよそれ」

 思いもよらない返答に、吹き出してしまった。いつの間にか震えはすっかり収まっていた。

「もう大丈夫か?」

「ああ、平気。ありがとな、兄貴」

 心地いい安心感が胸中を満たす。そうだ、きっと大丈夫。

「じゃあ、また明日」

 そう言って、兄貴はオレに向かって手を振った。

「明日は土曜だから会わないよ」

「あ、そっか。じゃあ月曜」

「月曜は数学Cないだろ」

「ああもう、細かいねお前は」

 兄貴がスネたように口を尖らす。そうしていると、本当にキツネみたいだ。兄貴は唇を突き出したまま、反論する。

「半日同じ建物の中にいるんだ、どっかで会うだろ」

 なるほど、それもそうか。納得して、オレも手を振り返す。

「また月曜にな、兄貴」

「おう、また……あっ! 忘れてた、これ!」

 兄貴は自分のカバンをまさぐって、取り出したものを押しつけるようにオレに手渡した。それは、真新しい数学Cの教科書とノート、それから筆箱だった。

「それ、次の授業までに九ページから十四ページまで予習しとけな」

 そう言って、兄貴はニッと笑う。そういえば、机の上に広げたまま飛び出してきたんだっけ。

「サンキュー」

 オレも兄貴と同じように笑って、それらをカバンの中にしまう。再度兄貴に手を振ったあと、踵を返して、歩き出す。震えは完全に消えていた。

 角を曲がって三軒目に、オレの家が見える。

 父さんももう、帰っているようだった。



       ◇



 頬に熱い衝撃が走る。どうやら、父さんに殴られたらしい。その拍子にメガネが吹っ飛び、勢いを殺しきれなかった体は、大きな音を立てて床に倒れこむ。痛い。

「授業中に教室を飛び出すなんて、何考えてるの!」

 父さんの隣に立った母さんが叫ぶ。まぁその怒りはもっともだ。それに関しては、全面的にオレが悪い。

「ごめんなさい」

「謝って済む問題だと思っているのか!」

 そうは言われても、オレには謝ることしかできない。謝る他にできることといえば……ああ、腹を切って詫びる? いやいや、いつの時代の話だよ。

「ごめんなさい。もう絶対、こんなことは起こしませんから」

「当たり前よ!」

 金属どうしをぶつけ合わせたような甲高い声が耳に障る。

「どういうつもりなんだ! えぇ、言ってみろ!」

 どうせ、何か言っても文句言うくせに。まぁ、せっかく機会をくれてるんだから、ここまでの経緯を話そうと口を開く。

「だから……」

「言い訳はいいのよ!」

 紡ぎかけた言葉は、何の意味もない叱咤によって断ち切られる。

 ほらみろ、な? 予想通りの結果に、思わず嘲りを含んだ笑みが浮かんだ。

「何をヘラヘラ笑ってるんだ!」

 父さんは怒りを保つための新たな燃料を見つけ、自らそれに火をつける。また一発、殴られた。

「すみません」

 痛みに耐えながら、謝罪の言葉を絞り出す。言いながらオレは、ぼやけた視界で、父さんの目をまっすぐ見据えた。

「なんだその反抗的な目つきは!」

 生まれつきだよ、知ってんだろ。


 なおも父さんは、殴りかかってくる。何度も、何度も。

 父さんはまるで地獄の鬼のような形相をしているが、不思議とオレの胸中には、米粒ほどの恐怖心も湧いてはこなかった。

 殴られ続けて、口の中が切れたようで、顎にドロッとした感触が伝う。立ち上がる間もなく、床に転がってからは、腹や足、胸をメチャクチャに蹴られた。痛いを通り越して、息ができない。

 その間にも、母さんのヒステリックな早口でまくし立てた言葉が、断片的に耳に届く。聞き取れた言葉が、「内申」、「医大」、「あなたのためを思って」、などなど。

 きっと父さんはオレに怒りをぶつけることしか考えてないし、母さんは自分のプライドのためにオレを利用することしか考えていない。


 ――ああ、こんな家、出てって正解だよ兄貴。

 この家は、狂ってる。


 一通り殴って蹴って、満足したらしい父さんは、オレの胸倉を掴んでどこかに引きずっていく。まったく動けないわけではなかったが、ひどく手足がだるいので、黙って引きずられていくことにする。

 父さんの目的の場所は案外近かったようで、父さんはオレをわざわざ持ち上げて、床に叩きつけた。肺の中の空気が全部、渇いたうめき声とともに口から漏れる。もうどこがどう痛いのかもよく分からない。

 霞がかった思考で、父さんは力持ちだなぁ、とどこか他人事のように思った。

「一晩そこで反省してろ!」

 父さんはそう言って、オレの近くに何かを叩きつけた。音からしてたぶん、さっき吹っ飛んでったオレのメガネだろう。

 そのあとで、荒々しく引き戸と鍵を閉める音がする。どうやらここは、中庭のようだ。

 どうしてこの家にこんな趣のある場所が存在するのかは知らないが、そこは家の壁や窓で四方を囲われた空間で、観葉植物やらテーブルやらが置いてある。中庭といっても下は地面ではなく、スノコを敷きつめたような床材で覆われている。

 しかしまぁ、人間が一晩過ごすような場所でないことは確かだ。

 父さんか母さんか、とにかくどちらかが部屋の明かりを消す。外はもう暗くなっていて、中庭は一瞬で闇に沈んだ。

 父さんに執拗に殴られた頬がひりひり痛む。きっと、かなり腫れてしまっているのだろう。蹴られた胸や腹も、刺すように痛む。それに加えて、母さんの金切り声のせいか、まだ耳鳴りが止まなかった。


 初めは何も見えなかったが、だんだん目が慣れてくると、真上に見える星空からの光が、辺りを薄く照らしているのを感じる。

 投げられたメガネを拾ってかけたはいいが、ヒビが入ってしまっているようだ。これ、明日の塾の時間までに、買い替えてもらえるのだろうか? ……いや、どのみちこんな顔じゃ、さすがにあの母さんでも塾に行かせるようなことはしないか。


 仰向けに転がってしばらくすると、視界に満天の星が現れた。暗幕の綻びから覗いたような、白や赤や青の星明かりがそれぞれ、一つの例外もなく、ちらちらと瞬いている。

 オレの周りの空気さえ、その光の切れ端を含んでいるようだった。

「……すげ」

 思わず、感嘆の声が漏れる。いくらここが田舎とはいえ、こんなに星が明るい空を見た記憶はない。おそらく、壁に仕切られて光があまり入ってこないこの空間だからこそ、星空がこんなに綺麗に見えるのだろう。


 なんだか、オレのいるこの空間が丸ごと、万華鏡の筒の中みたいだと思った。  星々のきらめく美しい世界から、何万光年という距離に隔てられた、薄闇に沈んだ世界。

 オレは真上の星空に手を伸ばす。当然届くわけはないと知りながら。

 綺麗な世界。決して届かない世界。

 あの世界に、どうにかして近づきたいと思った。


 ――ああ、そういえば、小さい頃は宇宙飛行士になりたかったんだっけ。父さんと母さんに話したら、必死に止められたことを、おぼろげながら覚えている。

 万華鏡はその代用品だった。星空みたいな、キラキラしていて美しい世界をどうにかして手に入れたかったから、オレは万華鏡を作り始めたんだ。


「……今からでも、間に合うかな」

 誰が聞くでもない独り言を、ぽつり、呟く。

 星たちはそれを肯定してくれるかのように、それぞれが、ただ静かに燃えていた。



       ◇



 あれから、二日経った。今日は月曜日だ。

 昨日はぐっすり眠れたから、頭も冴えている。

「では、失礼しました」

 オレはそう言って、職員室を出る。

 例の件で担任に放課後、呼び出されたのだ。こってり絞られるかと思ったが、予想外にも、担任の反応は同情したり、オレのことを気遣ったりしたようなものだった。

 まぁだいぶマシになったとはいえ、まだ顔の腫れが完全には引いてないから、そのせいだったのかもしれないけど。クラスメイトの中にも、心配そうに事情を訊いてくる奴が何人かいた。


 廊下を歩いていると、前から見知った奴が歩いてくる。そいつはオレを見ると手を振りながら近づいてきた。オレも手を振り返す。

「よぉ、兄貴」

「おっす、瞭介……ってあれ、なんか顔腫れてね? ていうかメガネ変えた?」

 兄貴がそう言って、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「父さんに殴られて、メガネも割られた」

「あー……大丈夫か?」

「まぁ、なんとか」

「そっか」

 よかった、とでも言うように、兄貴は口元をほころばせる。

「あのさ、オレ……」

「ん?」

 兄貴は首をかしげて、オレの次の言葉を待ってくれている。

 兄貴にはオレの決意を告げておこうと、告げておきたいと思った。

「オレ、宇宙工学とか天文学とか、そっちの方の大学に進もうと思うんだ」

「おー、いいじゃん!」

 兄貴はまるで自分のことのように喜んで、弾んだ声で同意する。それに少し気恥ずかしくなって、オレは兄貴から目をそらした。

「母さんたちは大反対するだろうけど、分かってもらえるまで説得してみる。……本当は宇宙飛行士になりたかったけど、今のオレにはちょっと難しいかなって」

「確かにその視力と体力と性格じゃあ厳しいってかムリだろうな!」

「ぶっとばすぞ」

「冗談だって」

 嘘つけ。それが事実であることは、自分が一番よく分かっている。


「とにかく、星に関する研究がしたいんだよ」

 星に関する研究、なんて、全然具体的じゃないのは分かってる。それでも兄貴はその曖昧な決意を聞いて、うれしそうに何度も頷いた。

「いいじゃん、似合ってるよお前に。昔から興味あったもんな、宇宙飛行士になりたいとも言ってたしさ」

 兄貴の口から昔から、という言葉が飛び出したことに驚いた。言っていた本人でさえ、一昨日まできれいさっぱり忘れていたのに。

「覚えてるのか」

 オレがそう訊くと、兄貴は両手で変なポーズを取りながら、ウインクをして、芝居がかった声で言う。

「可愛い可愛い弟のことだからな☆」

「うっわキモッ」

「ひどっ!」

 まったく、オレはこれでも結構まじめに話してるのに。コイツに真剣さを求めたオレがバカだったか。

「じゃあ、オレ帰るから。また明日な」

 茶化されたことに腹の虫が治まらないまま、兄貴に背を向け、歩き出す。すると、すぐに兄貴に呼び止められた。

「瞭介!」

「何だよ」

 わざと不機嫌そうに振り返ると、兄貴がいつもの笑顔で言う。

「負けんなよ」

 その大人の余裕に溢れたような物言いに、どうにも悔しくなる。ちくしょう、偉そうに兄貴風吹かしやがって。


「兄貴もな」

 なんとかそれだけ言い返して、前に足を一歩、踏み出した。


 廊下の窓から見える夕焼けの中に、白い星が一つ、誇らしそうに輝いている。



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