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円満婚約破棄計画書、黒猫によって毎朝殿下へ提出されています

作者: 相模六花
掲載日:2026/06/18

 


 皇太子シルヴェスター殿下には、婚約者とは別の想い人がいる。



 そんな噂がまことしやかに社交界に流れ始めたのはいつのことだっただろう。

 春の園遊会。

 多くの貴族が集まる中、ユーフェミア・レイヴン公爵令嬢の心の中は憂鬱だった。

 ユーフェミアの婚約者でこの国の皇太子でもあるシルヴェスター殿下は、従兄妹でもある伯爵令嬢アリシアと、薔薇の咲く東屋で楽しげに話していた。

 アリシアは明るく、愛らしく、誰にでも分け隔てなく笑いかけるような令嬢。

 銀色の髪に陽光を受けて微笑むシルヴェスターと、花のように頬を染めるアリシア。

 その光景は、あまりにも絵になっていた。

 園遊会に出席した他の令嬢たちも、扇で口元を隠しながら囁き合う。


「まあ、なんてお似合いな……」

「殿下はアリシア様の前でだけ、あのように優しく微笑まれるんですのね」

「それに比べて、ユーフェミア様には……」

「ふふ、それ以上はおよしになって。真実は時に残酷ですわ」


 それらすべての嫌味は、もちろんユーフェミアの耳にもしっかり届いている。



 ――ああ、これはやはり、身を引くべきだわ。



 その瞬間、ユーフェミアは全てを悟った。

 二人の美しい愛の前では、自分は単なる邪魔者なのだ――と。


 シルヴェスターとユーフェミアは、幼い頃に決められた婚約者だ。

 王家と公爵家を結ぶ絆として政略結婚のレールを敷かれた。もちろんユーフェミア自身も長年皇太子妃教育を受けている。


 しかしユーフェミアは思う。結婚とは義務だけでするものではない。

 何より身分と背だけが高く、女らしさからは縁遠い公爵令嬢と愛のない結婚をするなんて、殿下があまりに可哀想すぎる。

 そう願えるほどには、ユーフェミアは真剣にシルヴェスターのことを想っていた。


「ユフィ」

「!」


 そんなことをつらつら考えているうちに、シルヴェスターが近づいてきて優しく婚約者の手を取る。

 ユーフェミアを「ユフィ」という愛称で呼ぶのは、彼と家族だけだ。

 そしてシルヴェスターはユーフェミアがびくりと体を強張らせるのを見ると、困ったように苦笑した。


「すまない。触れる前に、まず断りを入れるべきだったね」


 ただ婚約者として儀礼通りエスコートされるだけなのに、その度に身を固くしてしまう。そんな自分がユーフェミアは嫌いだった。

 アリシアに対する時とは明らかに違う、シルヴェスターのぎこちない態度。

 きっとそれが全ての答え。

 婚約を交わした幼い日から……もうずっと。

 ユーフェミアは今にも泣きだしたいような衝動を、ぐっと堪える。

 そしてのどかな春の日差しの下、シルヴェスターの前で何とか公爵令嬢らしい微笑を取り繕った。



    ◇◆◇



 園遊会で決意した夜から、ユーフェミアは一冊の帳面をつけ始めた。

 表題は、こうである。



『円満婚約破棄計画書』



 何事も準備が大切だ。

 婚約破棄とはいえ、シルヴェスター側に瑕疵を残してはいけない。自分が一方的に非のある令嬢として身を引き、殿下とアリシア嬢が誰からも祝福される形に整える必要がある。

 ユーフェミアは羽根ペンを取り、第一項を書きつけた。



『目的。シルヴェスター殿下に罪悪感を抱かせず、私との婚約を破棄していただくこと』

『最終目標。殿下とアリシア様の幸福なご成婚』



 長年の皇太子妃教育の賜物か、はたまた元来の気性なのか。

 おそらくはその両方。

 生真面目な性格であるユーフェミアは、重要だと思う事項をこまめに書類として残す習慣があった。

 そしてつらつらと第一項を書き終わったところで、机の端に丸まっていた黒猫が、ぱちりと金色の目を開ける。



「ごめんなさい、オニキス。起こしてしまった?」



 ユーフェミアが声をかけると、黒猫のオニキスは短く「にゃあ」と鳴いた。

 オニキスは三年前、雨の日にこの屋敷に迷い込んできた猫だ。濡れた黒曜石のような毛並みだったので、オニキスと名づけた。

 賢く、気位が高く、そして少々盗み癖がある。

 リボン、手袋、書き損じの招待状。

 気に入ったものをくわえては、どこかへ運んでいってしまう。


「これは駄目よ。大切な書類なのだから」


 ユーフェミアが帳面を閉じて引き出しにしまうと、オニキスは長い尻尾をゆらりと揺らした。

 その顔は、妙に納得していないように見えた。






 翌朝。

 皇太子シルヴェスター殿下の執務室では、一匹の黒猫が悠然と机の上で寝ていた。


「……また来たのか、オニキス」


 シルヴェスターはのびのびと眠る黒い物体を前に、深いため息をついた。

 もちろんオニキスが婚約者の大事な飼い猫だと知っている。一度干し肉を分け与えたことがあり、それ以来おやつを目当てに、こうして気まぐれに執務室に姿を現すようになったのだ。

 しかし今日のオニキスはシルヴェスターの入室を確認するなり、口にくわえていた小さな帳面を机の上へ落とした。

 皇太子付きの側近ルイスが、恐る恐るそれを拾い上げる。


「殿下。ユーフェミア様が書かれた文章のようですが」

「ユフィの?」


 シルヴェスターは眉根を寄せた。

 ユーフェミア。

 幼い頃からの婚約者で、誰よりも努力家で、誰よりも誇り高く、そして近頃なぜか自分を避けている令嬢。

 シルヴェスターは、片手に乗るほどの小さな帳面を開いた。そして固まる。


『円満婚約破棄計画書』

「……婚約破棄?」


 低くつぶやくと、オニキスが「にゃあ」と鳴いた。

 まるで「読め」とでも言っているかのよう。

 シルヴェスターは首を傾げながら、無言でページをめくった。


『第一日目の方針。殿下に冷たい態度を取る』

『小説に出てくる憎たらしい悪女のように、斜め45度から流し目で見る』

『殿下には決して蜂蜜入りの紅茶は勧めない。婚約者らしい気遣いは今後一切しないこととする』


 書かれている内容を把握して、シルヴェスターは思わず額を押さえた。


「……悪女?」

「殿下、ユーフェミア様は大変面白いことをお考えになりますね」

「おい、笑うな」

「申し訳ございません。ですが必死に斜め45度で流し目をするユーフェミア様を想像したら、なんだかおかしくて」


 シルヴェスターが頭を抱える横で、ルイスはクックッと肩を揺らしていた。

 オニキスは机の上で前足をそろえ、満足げに尻尾を振る。

 シルヴェスターは帳面を閉じかけ、しかし思い直して再び開いた。


『殿下にはアリシア様という大切な方がいらっしゃる。私はそのお心を妨げてはならない』

「……アリシア?」


 その一文を読んだ瞬間、シルヴェスターの表情が変わった。

 身に覚えがなかった。

 いや、アリシアとはもちろん親しい仲だ。何せ母親同士が姉妹で従兄妹なのだから。

 しかし、それだけだ。

 シルヴェスターが心を寄せている相手は、昔からただ一人。

 いつも背筋を伸ばし、誰よりも完璧であろうとする婚約者。

 ユーフェミアだけだった。


「ルイス」

「はい」

「今日の予定を変更する。午後、ユフィに会う」

「それがよろしいかと」


 その時、オニキスが帳面の上に前足を置いた。

 シルヴェスターが顔を向けると、オニキスは金色の目で彼をじっと見つめていた。


「……返せ、ということか?」

「にゃあ」

「でもこれは証拠品だ」

「にゃあ!」

「わかったわかった。写しを取ればいいんだな?」

「殿下、猫と交渉なさらないでください」


 オニキスはそんなルイスの態度が不満だとでも言うように、シャー!と一度だけ全身の毛を逆立てた。



    ◇◆◇



 そしてその日の午後。

 ユーフェミアはシルヴェスターとの茶会のために登城した。

 まずは彼の前で冷たい態度を取る作戦。

 予定通り、テーブルをはさみ彼と向かい合った時、できるだけ素っ気なく斜め45度の位置に座った。


「今日も疲れますこと」

「ユフィ」


 鏡の前で練習してきたとおり、悪女っぽく流し目のポーズをとる。

 けれどシルヴェスターは特に気にした様子もなく、柔らかく相好を崩した。


「わざわざ足を運ばせて申し訳ないね。君はいつも疲労回復用の蜂蜜入り紅茶を用意してくれるというのに」

「べ、別に私は何も……」

「ということで、今日は私が君の好きなものを用意させてもらったよ。アーモンドクリームをたっぷり乗せたアプリコットパイ、お気に入りだったろう?」

「……え」


 シルヴェスターが視線で合図を送ると、侍女たちが一斉に紅茶とケーキをカートに載せて運んできた。

 テーブルの上はアプリコットパイだけでなく、クッキーやスコーン、季節のフルーツを使ったジュレなど、ユーフェミアの好物ばかりが並べられる。


「いつもありがとう、ユフィ」

「…………」


 にこにこにこにこ。

 シルヴェスターは先手を打ち、普段は照れてなかなか口に出せない感謝を婚約者に伝えた。

 一方のユーフェミアは、すぐに自分の計画が失敗したと悟る。


 ――負けた。

 気遣うより先に、殿下に気遣われてしまった。


 しかも悔しいことに、シルヴェスターが用意してくれたスイーツは、どれもこれもほっぺたが落ちるほど美味しかった。






 その夜、ユーフェミアは新しい計画書を書いた。


『第一日目の結果。冷たい態度は失敗。殿下は素直な方なので、私の悪意が通じない』

『改善案。次回はより明確に殿下を嫌な気分にさせる』


 翌朝、そのページがシルヴェスターの机の上に届けられたのは、言うまでもない。



    ◇◆◇




 次の作戦は、盛大な嫌味だった。

 ちょうどおあつらえ向きの舞台として、王宮では毎月恒例の詩吟朗読会が開かれることになっていた。

 その会に出席したユーフェミアは、会場前で並んで立ち話をするシルヴェスターとアリシアを見つけた。

 睦まじく話す恋人たちの間に分け入るのには勇気が要ったが、これもすべて二人のためだと言い聞かせた。



「あらあら、私という婚約者の前でイチャイチャするなんて、喧嘩を売っていらっしゃるのでしょうか?」



 今日こそは、誰が聞いてもわかる嫌味だった。

 その証拠に会場前でたむろしていた令嬢たちの何人かが「あからさまな嫉妬ね……」と、ユーフェミアを蔑むように見ている。


 ――よしよし。今日こそ作戦成功だわ。

 悦に入ったユーフェミアは、さらに言葉を継ぎ足す。


「アリシア様は本当に可憐でいらっしゃいますもの。殿下のお隣に立つと、まるで春の花のようです」


 嫌味のつもりだった。

 だが攻撃されたはずのアリシアが、ぱっと顔を輝かせる。


「まあ、ユーフェミア様に褒めていただけるなんて光栄です!」

「えっ」

「私、ユーフェミア様のような凛とした方にずっと憧れておりましたの。春の花だなんて嬉しいですわ」

「そ、そうではなくて」


 ユーフェミアは思わず後ずさった。

 なぜだ。なぜ嫌味が通じない?

 アリシアの天真爛漫な性格に気圧された挙句、婚約者のシルヴェスターからも追撃を食らう。


「アリシアが春の花なら、ユフィは冬の薔薇だ」

「……冬の、薔薇?」

「寒さの中でも背筋を伸ばして咲く、誰より気高い花だと思っている」

「!」


 次の瞬間、ユーフェミアの頬が真っ赤に染まった。

 周りからも「きゃあーー!」という黄色い声が上がる。

「とてもうまい例えですわね!」と無邪気に微笑むアリシアに、婚約者を熱く見つめる皇太子。

 その後、王宮中に『皇太子殿下のレイヴン公爵令嬢へのご寵愛は、ますます深まるばかり』という噂が広がった。


 ……ユーフェミアは、また負けた。

 完膚なきまでに。






 そしてその夜。

 ユーフェミアの『円満婚約破棄計画書』には、少し乱れ気味の文字でこう書かれた。


『第二日目の結果。嫌味のつもりが賛辞として受け取られた。アリシア様はたいへん素直で愛らしい。殿下が惹かれるのも無理はない』

『しかしなぜ私まで盛大に殿下に褒められてしまったのか。解せない』

『問題点。私には人を傷つける語彙が不足している』

『改善案。悪女らしい言い回しを研究する』




 ◇◆◇



 それからはもう、ユーフェミアは半ば意固地になって、自分が理想とする悪女をシルヴェスターの前で演じ続けた。



 シルヴェスターの前でわざと「他の女にうつつを抜かすなんて許せませんわ」と嫉妬深いところを見せれば、シルヴェスターに「ユフィに嫉妬されるなんて、逆に嬉しいな。もちろん浮気なんて私も大嫌いだよ」と笑顔で返され。



 じゃあ逆に自分が浮気女になってやろうと仮面舞踏会にこっそり忍び込んだら、なぜかそこには同じようにお忍びのシルヴェスターがいて、結局彼と踊ることになったり。



 じゃあ皇太子妃教育をサボって自分の品位を落とそうと公爵家の庭に潜んでいたら、「かくれんぼかい?」と、訪ねてきたシルヴェスターに見つけられてしまったり。





 ただ日々もがき、焦っていた。

 まさか自分の円満婚約破棄計画が、オニキスによって全部相手に筒抜けだと知らずに、一か月以上空回りし続けた。


「なぜなの? もしかして殿下は私の心の中が読めるというの!?」


 半ば自棄になってオニキスに問いただせば、「そうだよ」と言わんばかりに「にゃあ♪」と鳴く。

 一方、ユーフェミアを想うが故のシルヴェスターの涙ぐましい努力は、残念ながら本人には何一つ伝わっていなかった。

 そして日が経てば経つほど、真面目なユーフェミアの心は追い詰められていった。




    ◇◆◇




『最終計画。夜会の場で、アリシア様に直に危害を加える(振り)』

『方法。アリシア様が階段を降りきる寸前で、背中に手を伸ばす。実際には押さない。だが周囲からは押そうとしたように見えるはず』

『目的。殿下が公の場で婚約解消を申し出やすい状況を作る』



 ユーフェミアがそう最後のページを書き終えた時、涙が一粒、ぽたりと書面に落ちた。慌てて拭ったけれど、少しだけ紙が滲んでしまう。


「泣いていないわ、オニキス」


 足元でうずくまる黒猫に向かって、ユーフェミアは強がりを言った。


「これは必要なことなの。殿下のためなのよ」


 そんな主をオニキスはじっと見ていた。

 そして翌朝、やはりその計画書はシルヴェスターのもとへと届けられた。







 夜会当日。

 ユーフェミアは、いつもより華やかな色合いのドレスを着て、会場に立っていた。最後くらい美しくあろうと思ったのだ。たとえこれから醜態をさらすとしても、シルヴェスターの記憶の中に残る自分が、少しでも恥ずかしくない姿であればいい。


 夜会が始まる直前、玄関前の大階段でアリシアの姿を探す。

 いた。

 今日の彼女は、淡い桃色のドレスをまとい光り輝いていた。


 ユーフェミアは胸に手を当て、一つ深呼吸する。

 大丈夫。計画通りに。


 何人かの令嬢に囲まれて、一階へと向かおうとするアリシアの5メートル後ろにつけ、タイミングをはかる。


(階段が残り2、3段になったら、背中を押すそぶりをするだけ。それだけで私は嫉妬に狂った婚約者に見えるはず……)


 心拍数がバクバクと上がる中、ユーフェミアは震えながら背後からアリシアに近づく。だがユーフェミアが手を伸ばすより先に、アリシアが階段の段差に躓いた。


「……っ、あ……!」

「危ない!」


 誰よりも注意深くアリシアの動きを見ていたユーフェミアだからこそ、咄嗟に体が動いた。

 考えるより先に腕を伸ばし、華奢な手首をつかむ。そのまま必死に自分のほうへ引き寄せると、アリシアの体はどうにか階段の手すり側へと戻った。

 しかしその反動で、今度はユーフェミアの体が大きく傾いた。


「あ……」


 足が、宙に浮く。

 まずい。

 そう思った瞬間、背中から強い腕に抱き留められた。




「ユフィ!」




 耳元で聞こえた声に、ユーフェミアは目を見開く。

 シルヴェスターだった。

 彼は階段の下から駆け上がってきたらしい。ユーフェミアを庇うように抱き留め、そのまま二人分の勢いを受け止めきれず、階段の踊り場に倒れ込んだ。


「殿下!」


 周囲から悲鳴が上がる。

 ユーフェミアは慌てて身を起こした。幸い、彼女自身に大きな怪我はない。だが自分を抱きしめるようにして倒れたシルヴェスターは、目を閉じたまま動かなかった。


「シルヴェスター殿下……? 殿下!」


 ユーフェミアは血の気が引くのを感じた。

 どうしよう。自分の愚かな計画のせいだ。

 悪女のふりなどしようとしたから。

 不用意にアリシアに近づきさえしなければ、こんなことにはならなかったのに。


「お願い、目を開けてください……!」


 泣きそうな声で呼びかけても、シルヴェスターは目を開けない。

 それからルイスをはじめとする大勢の人が駆けつけ、シルヴェスターは急いで救護室へと運ばれた。








「殿下……」


 救護室内は、異様に騒がしかった。

 医師を呼びに走る者。騒ぎを収める者。ざわめく貴族たちを遠ざける者。

 周囲が慌ただしく動く中で、ユーフェミアだけは寝台のそばから動けなかった。

 シルヴェスターは、静かに目を閉じて横たわっている。ユーフェミアはその手を両手で握りしめた。指先が小刻みに震える。涙がぽろぽろと頬を伝い、止めようと思っても涙腺は壊れたままだった。


「ごめんなさい……ごめんなさい、殿下……」


 ユーフェミアは今ほど自分を情けないと思ったことはない。

 何が円満婚約破棄計画書だ。

 何が殿下の幸せのためだ。

 結局、自分は殿下を傷つけただけではないか。


「私が馬鹿でした……」


 嗚咽まじりにそう呟くユーフェミアの後ろで、ルイスとアリシアが顔を見合わせた。

 アリシアは今にも泣きそうな顔をしている。

 ルイスは何か言いたげに、寝台のシルヴェスターを見下ろしていた。




「にゃあ」




 不意に、場違いなほど呑気な鳴き声が救護室に響いた。

 驚いて、その場にいる全員が振り向く。

 見れば開いた扉の隙間から、黒猫のオニキスがふてぶてしく入ってきた。


「オニキス……?」


 ユーフェミアが涙に濡れた目で名を呼ぶ。

 しかしオニキスは彼女のもとへは近寄らず、まっすぐ寝台へ飛び乗った。そして眠っているシルヴェスターの顔をじっと見下ろす。

 金色の目が、すうっと細くなった。



「にゃっ!」



 次の瞬間。

 オニキスの前足が、べしり、とシルヴェスターの頬を叩いた。

 必殺の猫パンチである。



「いたっ!」



 思わずシルヴェスターは飛び起きた。

 ユーフェミアは固まった。

 アリシアも固まった。

 ルイスだけが、深々とため息をつく。


「殿下。猫にまで狸寝入りがバレておりますよ」

「狸寝入り……?」


 ユーフェミアが涙交じりに尋ねる。

 シルヴェスターは気まずそうに視線を逸らした。

 頬には、うっすら猫の肉球跡がついている。


「いや、その……頭を打ったわけではない。背中を打って息が詰まっただけだ。本当に一瞬、動けなかったんだ」

「ではどうして目を開けてくださらなかったのですか!」

「君が手を握ってくれたから嬉しくて……つい」

「つい!?」

「すまない」


 あまりにも情けない言い訳に、ルイスが片手で顔を覆った。アリシアは困ったように笑っている。

 けれどユーフェミアは、怒ることも呆れることもできなかった。

 シルヴェスターが無事だった。

 その事実が胸に押し寄せた瞬間、彼女は寝台に身を乗り出し、思わず彼に抱きついていた。


「よかった……! 本当によかった……!」

「ユフィ」

「ごめんなさい、殿下。申し訳ありません。私のせいで……私が愚かなことを考えたから……」


 震える声で謝り続けるユーフェミアの背に、シルヴェスターの手がそっと回る。


「もういいんだ、ユフィ」


 その声は、驚くほど優しかった。





「もう、悪女のふりなんてしなくていい」




 ユーフェミアの肩がびくりと震えた。

 瞳を極限まで見開いて、ゆっくりと顔を上げる。


「……なぜ、それを」


 シルヴェスターは少し困ったように肩を竦めた。


「君の計画は、最初から全部知っていた」

「全部……?」

「ああ」


 彼が視線を向けると、寝台の端でオニキスが「にゃん!」と得意げに胸を張っていた。


「オニキスが毎朝、私の執務室へ届けてくれたんだ。君の『円満婚約破棄計画書』を」

「!?」


 ユーフェミアの顔から、再びすうっと血の気が引いた。

 オニキスが人一倍……いや、猫一倍器用であり、盗み癖があることは知っていた。

 でもまさか、あの計画書にまで手を出しているとは思わなかった。



「ま、毎朝……?」

「第一日目から」

「斜め四十五度の流し目も……?」

「読んだ」

「蜂蜜入り紅茶を勧めない計画も……?」

「読んだ」

「仮面舞踏会で浮気女になる計画も……?」

「読んだ」



 尋ねた質問を全部YESで返され、ユーフェミアは両手で顔を覆った。


「は、恥ずかしい! いっそ今すぐ消えてしまいたいです……!」

「消えないでくれ。私は君にそばにいてほしい」


 その言葉に、ユーフェミアの動きが止まる。

 シルヴェスターは、今度こそ真剣な顔で彼女を見つめた。




「私は君が好きだ。幼い頃から、ずっと」




 ユーフェミアは、ぱちぱちと瞬きをした。

 一度。

 二度。

 三度。



「…………はい?」



 あまりに間の抜けた声が出て、自分でも驚いた。

 けれどそれ以上に、シルヴェスターの言葉の意味がわからなかった。

 好き。

 誰が。

 誰を。

 シルヴェスター殿下が。

 私、を?


「……いえ、あの、殿下。おそらくですが、頭の打ちどころが悪かったのでは」


 シルヴェスターの言葉が自分に都合よすぎる幻聴に思えて、念のためもう一度聞き返す。

 ……が。


「私は頭を打っていない」

「ではオニキスに頬を叩かれた衝撃で、一時的に混乱を……」

「していない」

「それともアリシア様と私をお間違えに」

「間違えていない」


 シルヴェスターはユーフェミアの肩に手を伸ばし、その視線を自分だけに固定した。




「何度でも言う。私が好きなのは君だ。ユーフェミア・レイヴンだ」




 改めて名を呼ばれて、ユーフェミアの心臓が今度こそ止まった。

 胸の奥で、ずっと積み上げてきた前提が音を立てて崩れていく。


 殿下はアリシア様を想っている。

 私はただの政略上の婚約者。

 私が身を引けば、殿下は幸せになる。

 そのすべてが、違う?


「……そんな、はずが」


 ユーフェミアの声は震え続けている。そんな彼女を、シルヴェスターがじっと見つめている。


「だって殿下はアリシア様といる時、あんなに楽しそうで……私といる時は、いつもどこかぎこちなくて……私が近づくと、困ったようなお顔をなさって……」

「それは君に嫌われていると思っていたからだ」

「嫌われ……?」

「君は私が手を取るたびに身を固くしていただろう。話しかけても礼儀正しく微笑むばかりで、本心を見せてくれなかった。だから政略結婚のせいで、君に無理をさせているのだと思っていた」

「無理など……」


 していた。

 けれどそれは、嫌だったからでも政略結婚のせいでもない。

 好きすぎて、どう振る舞えばいいかわからなかったからだ。

 ユーフェミアは、そこで初めて気づいた。

 自分はずっと、シルヴェスターの優しさを婚約者ゆえの配慮だと思い込んでいた。

 シルヴェスターはずっと、ユーフェミアの緊張を拒絶だと思い込んでいた。

 でも本当は互いに好きだからこそ近づけなかった。

 ただ、それだけだったのだ。


「実は私も殿下から相談を受けていた身の上ですの」


 そこで会話に加わったのは、離れた場所で成り行きを見守っていたアリシアだった。ようやく肩の荷が下りたと言わんばかりに、くすくすと笑う。


「私と殿下は従兄妹ですもの。親しく話すことはありますけれど、それだけです」

「でも私だけでなく、他の皆様も二人はお似合いだって……」

「そんな噂、殿下の婚約者であるユーフェミア様に対する嫉妬やあてつけに決まってるじゃないですか。本気にするだけばかばかしい」


 アリシアは社交界に流れる無責任な虚言を、一言で切って捨てた。


「むしろどうすればユーフェミア様に怖がられずに話しかけられるか。どうすれば、ユーフェミア様に避けられずに済むか、と、それはそれはしつこいほど殿下に聞かれて……」


 ユーフェミアはゆっくりとシルヴェスターを見る。

 彼はわずかに耳を赤くしていた。さらに懐からある書類を一枚取り出す。


「実は今日、君にこれを渡そうと思っていた」

「!」


 差し出された紙を、ユーフェミアはおそるおそる受け取る。

 そこにはシルヴェスターの端正な文字が並んでいた。



『円満婚約破棄計画書への回答』

『判定。却下』

『理由。私はユーフェミア・レイヴン嬢を愛している』

『代替案。今後は婚約破棄ではなく、婚約継続および信頼回復に全力を尽くす』



 ユーフェミアは何度もその文字を読み返した。

 読めば読むほど、視界が涙で滲んでいく。


「……殿下まで、計画書をお書きになるのですね」

「君の婚約者だからな。君にはこの形が一番伝わると思った」


 シルヴェスターは肩に置いていた手を髪に移し、優しく毛先を(くしけず)る。

 その瞳からあふれる愛情を、ユーフェミアは今度こそ間違えずに受け取った。


「その……それでどうかな? 君の返事は?」


 シルヴェスターが少し自信なさげに尋ねると、ユーフェミアは今度こそ迷いなく、力強くこう答えた。



「……はい、私も昔から、殿下を心よりお慕い申しております」











 ――後日。

 ユーフェミアとシルヴェスターの間で、新たな一通の書類が作成された。

 表題は、



『婚約継続に関する共同計画書』



 その一番下には、シルヴェスターの署名とユーフェミアの署名。

 さらにその横に黒い肉球の跡がひとつ、ポンと押されている。


「にゃ、にゃ、にゃん!」


 どうやらオニキスも、関係者として署名したつもりらしい。

 まったく困った猫である。

 けれどユーフェミアはもう、大切な書類を隠すことはやめた。


 なぜならこの黒猫には、とっくに自分の本心などバレバレだったのだから。

 そしてユーフェミアの幸せを誰よりも願ってくれたのが、このオニキスであることも間違いないのだから。






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必殺のネコパンチ!殿下には効果抜群だ♪ 「長靴をはいた猫」みたいに有能ですね。……本当にはいてません?
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